モーティスの夜【前編】

 モーティス湖から戻ってきたユンシーとスピカを出迎えたのは無愛想な神官だった。挨拶もそこそこに大神殿の中層部にある一室へと通される。

 普段は神官たちが使用している部屋だろうか。それなりに広さがあり数名分の寝具が用意してある。頭を突き出すには小さい穴が空いていてそこからモーティス湖が見下ろせた。燭台も設置されており、とりあえず動くのには困らない。フェックの目もひとまずは見当たらなかった。

 ここで寝ろ。他に用があれば呼べ。というようなことを慇懃無礼に述べるやいなや神官は去っていった。二人と同じ空間にいるのが耐え難い苦痛であったらしい。とことん嫌われていた。彼らに好かれる要素が微塵もないので当然の成り行きではある。

 ユンシーが彼らについて思うのはスピカにとって危険かどうかだけで、他はどうでもよかった。しかし、モーティスの住民であったスピカは違うだろう。それくらいはユンシーにも推測できたがどう違うかまでは詰められなかった。 

 当のスピカは眉を寄せて敷き布の間を行ったり来たりしている。


「どこで寝よう」

「どこでもいいと思うが」


 心からの言葉だったのだが、スピカは生返事と受け取ったのか唇を尖らせてそっぽを向く。そしてユンシーが余計な一言を付け加える前に今夜の寝床を定めたようだった。部屋の中央付近で、扉からも壁からも同じくらいの距離がある。

 スピカはそれから事前にまとめて置かれていた明日のための着替えや外套をそこに移動させた。後は眠るだけだ。夜が明けたらすぐにモーティスを発つとスピカにはすでに伝えてあった。

 ところがスピカは敷き布に腰を下ろしたきり、体を横たえることなくユンシーを見つめている。


「疲れているんだろう。寝なくていいのか」

「私よりユンシーの方が疲れてるでしょ」


 またこれか、とうんざりしなかったかと言えば嘘になる。スピカはあらゆる面でユンシーより貧弱なくせに気遣うのを止めようとしない。遠回しに見下げられていると考えられればどれほど良かったか。

 彼女はユンシーを対等に心配しているのだ。そういう関係は自分には向いていない。自覚があるからこそ、つい突き放すような口調で言ってしまった。


「君と一緒にしないでくれるか」


 しかしスピカは臆せず、むしろ強気に眦を決した。


「またそういう言い方する! ……どこがどうとか具体的には言えないけど、これまでより疲れてるように見えるよ。石にされたせい? 夕食もあまり食べてなかったし」


 自分より弱い存在に一度ならず気遣われるのは屈辱的だ。だがそれ以上にユンシーは戸惑っていた。実のところ、スピカの言い分はそう間違ってもいない。ユンシーはやや疲れている。しかしそれを正直に打ち明けたとして意味はあるのだろうか。

 スピカはユンシーの返事を今か今かと待っている。可能かどうかは置いておいて、隙あらばユンシーを寝床へ引き倒しかねない勢いがあった。疲れていないと言ったところでスピカは信じないだろう。


「……君の執念深さに免じて白状しようか。確かに疲れてはいる。フェックとやりやったことと、何よりその後の治療で力を使ったからな」

「だったら」


 ユンシーも寝なよ、とスピカが続けようとしたのをユンシーは首を横に振って遮った。


「不寝番は必要で、適しているのは俺だ。この程度の疲労は動かないでいれば朝までに回復する。俺のことを思うならさっさと寝てくれ」


 最後の方が投げやりな言い方になったのは否めない。案の定スピカは全然納得しておらず、不服そうに黙り込んでしまった。ユンシーをどう言い負かそうか考えを巡らせているのかもしれない。

 神力で無理やりにでも眠る体勢に持っていこうか。しばらく静かにさせておけば疲れもあって熟睡するだろう。単なる思いつきではあったが、案外効果がありそうな気もした。

 しかしながらそれを実行に移す前にユンシーは部屋に近付いてくる足音を耳聡く拾い上げた。続けてにおいも。神官ではない。兵士でもない。人間とは異なる気配だ。

 これからやって来るであろう訪問者を出迎えるためにユンシーは扉の前へと移動した。俄に剣呑な雰囲気が漂い始めたのをスピカも察知したのだろうか。すぐに意地を張るのを止めてユンシーへ呼びかける。


「ユンシー?」

「フェックが来る。そこから動くな」

「え……?」


 スピカの表情が強張る。ユンシーは扉を見据えたままフェックが来るのを待った。入室時と変わらず部屋のどこにもフェックの目は現れていない。ユンシーたちの部屋の前で足音は止まり、においも一層強くなった。

 そしてユンシーはフェックよりも早く扉を開いた。フェックは扉に手を伸ばした状態で動きを止めている。もう片方の手には小瓶を持っていた。


「フェック。何をしに来た。交渉は終わったはずだが?」


 と話しかけながら牽制として神力でフェックに圧力をかける。先の戦いよりは弱めてあるものの、フェックの膂力では歩くことすらままならないはずだ。その傍らで瞬時にフェックの両目を潰せるように集中しておく。

 臨戦態勢を取るユンシーに対してフェックは少し顔を歪めるだけで抵抗しなかった。神力を使う様子もない。苦しげに言葉を吐き出す。


「お前に聞きたいことがあって来た」


 嘘だろう。まさか正面から乗り込んでくるとは思わなかったが、他に目的があるはずだ。ユンシーはフェックの話を額面通りには受け取らなかった。そうして神力が僅かに強まったのに焦ったのかフェックが口早に続ける。


「それと血を……私の血を持参した。都市神を喰えば力が増すという。もしかすると私の血を飲めばお前の失った力が回復するかもしれない」


 ユンシーの気を引きたいのか手の甲の目が激しく瞬きして小瓶の存在を強調している。自由に動ける状態にあったならフェック自身で小瓶を差し出していただろう。

 思案もそこそこにユンシーは神力で小瓶をフェックの手から奪った。もちろん警戒を解いたわけではない。蓋を開けて中身を調べる。濃い紫色の液体が入っていた。それに湿った土のにおいがする。確かにフェックの血のにおいだった。毒が混ざっているだろうか。だとしても、これまで毒と呼ばれるものが効いたためしがないから区別がつかないかもしれない。


「勝手に開けるなよ」


 蓋をし直し、密かにユンシーの背後へとにじり寄ってきていたスピカに小瓶を渡す。一応注意もしておく。スピカは手元にふわふわと下りてきた小瓶を受け止めると、興味深そうに眺めながら左右に揺らしていた。

 スピカの姿はユンシーで隠れていて僅かにしか覗けない。それでもフェックの両目はスピカへと向けられている。人間が小動物を観察するのと似ていて、戦ったときのような激情は感じられなかった。フェックは本当に話をしに来ただけなのかもしれない。ユンシーはむしろ余計に注意深くフェックを見つめる。


「そうまでして俺と話がしたいのか?」


 フェックの視線がユンシーに戻る。どこか安堵した様子だった。


「お前も……ここでは独りだろう。同族も、似たものもいない」 

「だから?」


 共感どころかすぐさま冷淡に聞き返されてしまいフェックは面食らったらしい。両目以外の目がそれぞれ泳ぎ始めてしまった。そこまで動揺することでもないだろうに。

 フェックはしばらく何やら唇を動かした後に、こわごわと問いかけてきた。


「寂しくはないのか?」

「…………は?」


 今度はユンシーが呆気に取られる番だった。完全に想定外の方向から殴られて愚かにも隙を作ってしまった。フェックにその気があったなら簡単に石化させられていただろう。

 ユンシーとフェックが緊迫感のあるようでない微妙なやり取りを続ける一方で、スピカはそれに耳を澄ましていた。フェックはユンシーよりも感性が人間寄りかもしれない……と思っていたとかいないとか。

 それから長く続いた沈黙に対し真っ先に音を上げたのはスピカだった。立ち上がってユンシーに囁く。


「ユンシー。話……してみたらいいんじゃないかな」

「本気か?」

「うん。それに、私は二人が話すところもっと聞いてみたい」

「……分かった。話をしてやってもいい。だが、少しだけだ」


 渋々ながらユンシーは神力を解いてフェックを部屋へと招き入れる。スピカに促されたというよりはスピカが付け加えた言葉に折れたのだが、ユンシーはついぞ気付かなかった。

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