ベイジングタイム
星明かりの下でも分かるほどにモーティス湖の水は澄んでいた。加えて多少の疲労なら吹き飛ばしてしまうくらいに冷たい。湿度の高いモーティスではなかなか味わえない爽快感に包まれながらも、スピカはそれを満喫できずにいた。
「あんなに色々貰って良かったのかな……」
「フェックが許可したのだからいいに決まっている」
肩までしっかり湖に浸かってからぎこちない動きで振り返る。湖岸の程近くでユンシーが背中を向けて座っていた。焚き火に枝を放り込んだり、薪の位置を変えたりして火が弱まらないようにしてくれている。時折強く風に揺れる炎がスピカのいる浅瀬までぼんやりと照らしていた。
せっかくユンシーが近くにいるのを忘れようとしていたのに。スピカはため息をついた。しかも聞き耳を立てられていたとは。
「……今のは独り言だから反応しないでほしかったな」
ぼそぼそと言い返して目を閉じる。騒がしい虫の鳴き声も今夜は遠い。どうしてこんなことになったのだろう。
治療が完了すると間もなくユンシーは取り引きについてフェックと確認を行った。特に揉めることもなく、フェックは諾々とユンシーに従っているようだった。しかし問題はその後だ。
スピカに水浴びをさせろ。食事と今夜の寝床と着替えを用意しろ。新しい靴と鞄も忘れるな。――等々、ユンシーはフェックに重ねて要望したのである。
調子に乗りすぎだ、せっかくの取り引きが台無しになったらどうするの。というようなことをユンシーに小声で訴えたのだが返事もそこそこにあしらわれてしまう。フェックの反応もだが、それよりも後ろに控えていた人間たちの表情が気になって仕方がなかった。
しかし、スピカの懸念に反してフェックは淡々と要望を聞き入れたのだ。物言いたげにしている神官や兵士にユンシーの言うとおりにしろと命令をして聖域から追い払ってしまった。
それから不服そうな彼らが準備をして戻ってくるまでも、その後の食事でも、皆必要最低限の口しか利かなかったし、スピカは一言も喋れなかった。初めて味わった豪勢な料理の数々についてもスピカは語れない。まったく思い出せないからだ。
あの時間がいかに気まずかったのか一晩では到底語り尽くせないだろう。
「独り言にしては声が大きかった。俺に話しかけていたんじゃないのか?」
「違うってば。ユンシーの耳が良すぎるだけだよ」
「君に比べればな」
「嫌味だ」
「事実を言っているだけだろう」
ユンシーがいつものように「そうか」とだけで会話を終わらせないのが意外だった。沢山話せるのは嬉しいけれども、これでは忘れるどころかますますユンシーの存在を意識してしまう。
何といってもこちらは素っ裸なのだ。水浴びをする前にスピカはユンシーに緊急事態でもない限りこちらを向かないでほしいと頼み込んでいた。ユンシーがスピカの裸に『ただの裸』以外の感想を抱くことはないと十分に分かっていても、自意識過剰と謗られようとも、恥ずかしいものは恥ずかしいし落ち着かない。
再び皮膚の表面が火照っていく前にスピカは水中に潜った。そして息が苦しくなる前に浮上する。どことなく清らかな空気をめいっぱい吸い込みながら星空を見上げた。フェックと相対してからまだ半日も経っていないなんて信じられない。
「…………はあ」
上で述べたような経緯があってスピカとユンシーはモーティス湖に水浴びに来ていた。しかし実際に水浴びをしているのはスピカだけで、ユンシーは見張りに専念している。フェックが裏切るのを警戒しているのかと尋ねたら、そちらよりも人間たちの方が問題だと返された。
実際に都市神であるフェックの意に背いてまで危害を加えようとするかは別として、ユンシーの言わんとしていることはスピカにも理解できた。彼らは明らかに今回の取り引きに納得していなかったからだ。水浴びはモーティス湖ですればいいとフェックが提案したときの形相といったら!
スピカとしても物心がついた頃から神聖な湖として教えられていたため、こうして全身をすすいだ今でも気が引けていた。しかし、そうして心が緩みきっていなかったからこそ自覚できたことが一つある。――スピカは湖に対して根拠のない懐かしさをうっすらと覚えている。
モーティス湖には一部の神官を除いて入るのはもちろん接近すら禁じられていた。フェックのための場所というのが一番の理由だ。他に水深がかなり深い、しかも急に深くなって危ないだとか水生生物がいないのが不吉だとか聞いたがどれもついでに過ぎないだろう。
近くにはモーティス湖以外の湖がなかったのもあって、スピカにとって水場といえば川か泉だった。そのため遠くからしか眺めたことのない湖を懐かしいと感じるはずはないのだが……。
「いきなり静かになったから溺れたのかと思ったが、違ったか。眠いのなら神殿に戻るぞ」
思案の淵に沈みかけたスピカをユンシーの一声が引き戻した。それはいい。しかし、問題はその声がどこからしたかということで。初めて出会ったときも似たようなことがあったな、と頭の片隅で懐かしむ。まだ一日しか経っていないのに。
スピカは恐る恐る正面を見上げた。当たってほしくない予想というものは往々にして当たってしまうものだ。ユンシーが湖面に浮いていた。憎たらしいくらい平然としている。三つ数えられる程度に目を合わせてから、スピカは下を向いて己の状態を確認した。胸がぎりぎり見えている。
のろのろと顔を上げると、ユンシーは相変わらずこちらを直視していた。熱も欲も感じられない視線だ。ただスピカを労る温もりだけをかすかに感じ取れる。本当に、いちいち恥じらっているのが馬鹿らしくなってしまって。
「ちょっと考え事をしてたんだ、心配してくれてありがとう。もう少しだけ待ってくれる?」
堂々とした態度でスピカはユンシーに答えた。これも一種の成長だろうか。そうだといい。
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