天秤

 集落から少し歩いたところでちょうど腰掛けやすそうな倒木を発見したので、私たちは一休みすることにした。外套を脱ぎ簡単に折り畳んで倒木の端に置いておく。

 休息らしい休息をするのは私だとかそういうことは気にしない。ユンシーが乗り気じゃなくても飲み食いはしてもらうし何なら睡眠だってとってもらう。

 行動を始めたのが早朝だったからかまだ周囲は明るい。私がユンシーから貰ったナイフで分厚い果実の皮を剥く傍らで、ユンシーは硬い殻に覆われた木の実を自らの手で苦もなく割っていく。慣れって恐ろしいものでもうそんなに驚かなくなってしまった。

 そして私はオレンジ色の果肉を切り分け、ユンシーは殻に閉じ込められていた小さな木の実を一つ一つ取り出していった。互いの作業が終わってから二人で分け合う。ユンシーがやたらと私に押し付けようとしてくるのを押し返すのが大変だった。

 それでも私の方が数は多かったんだけど。一瞬目を離しただけなのに木の実が手元に増えていたときは驚きよりもむっとする気持ちの方が上回ってしまった。神力を使ってまですることじゃないと思うって伝えてもユンシーは素知らぬ顔で果肉を呑み込んでいるし……。


「君に話したいことがある」


 と、ユンシーが切り出したのは私が五個目の果肉を食べ終えたときだった。手についた果汁を払って右隣を見る。やや険のある顔つきをしたユンシーがいた。


「うん」


 従順に頷いてはみたものの、私は怯えていた。改まった態度でユンシーが私に話したいこととは何だろう。君とはここまでだ、とついに見放されてしまうのだろうか。汗の滲む両手を握りしめた。


「君が死なないためにはフェックを殺すか他の都市神がフェックを捕食するまで逃げるしかないと俺は言ったな」

「うん」

「もう一つ、選択肢があるかもしれない」

「え?」


 予想外の言葉に口を閉じるのも忘れてユンシーを見上げた。鼓動がどんどん激しくなっていく。

 選択肢が増えたことを手放しに喜んではいけないという自制心はかろうじて働いていた。もしかしたらユンシーに見放された方がよほど良かったと嘆くような内容かもしれない。


「ただし、それが上手くいったとしても犠牲が出るのは避けられない」


 私が甘い考えで浮かれるのを牽制するようにユンシーは続けた。大丈夫だよ。心の中でだけ呟く。犠牲の出ない、誰もが幸せになれる選択なんてどこにもないことは私も分かっているんだ。


「……何をするの?」

「フェックと取り引きをする」

「とりひき?」


 都市神様と取り引き。言葉の取り合わせがちぐはぐで鸚鵡返しにしているだけなのに舌が縺れた。


「他の都市神を一体引き渡す代わりに君を諦めさせる」

「なっ……何を言ってるの?」

「君よりも都市神を喰った方がフェックは得をする。表向きには君が自ら戻ってきて生贄として捧げられたことにすればいい」


 何を言ってるの? 何を言ってるの? 何を言ってるの?

 同じ言葉で頭の中が埋め尽くされてしまいそうだ。その隙間で、ユンシーは何を言わんとしているのか私は思考する。

 以前にユンシーが言っていたことを参考にすると、ただの人間である私よりも他の都市神様を食べた方がフェック様は強くなれるらしい。生贄を得られない不利益よりもそちらが上回るとフェック様が判断すれば交渉の余地は……あるのかな?

 いやいやいや。ユンシーの提案に対して一つ一つ突き出すと切りがない。それにもしあったとしても……。


「これならモーティスが滅ぶことはない」


 鼓動に連動してこめかみまでずきずきと鳴り出した。ユンシーを直視できない。俯いて目を瞑った。手をどれだけ服で拭っても汗がへばり付いている。


「でも、モーティス以外の街が犠牲になるんだね?」

「そうだ。犠牲が出るのは避けられないと言っただろう」

「…………」

「都市神は俺がどうにかする。フェックが交渉に乗るのかは分からないが、乗らなければその場でフェックを殺せばいい。どちらにせよそれで解決する」


 その瞬間、ユンシーの声以外聞こえなくなっていた。元々不調だった自制心は完全に機能を停止してしまったのだろう。気付けば私は目を見開いてユンシーの硬い腕にしがみついていた。 


「ユンシー。それは……!」


 高ぶった感情のまま叫ぶ前にユンシーが私の掴んでいた左腕を引く。咄嗟に踏ん張ることもできず私は腕を引かれた勢いそのままにユンシーへと倒れ込んだ。間近に迫ったユンシーの寒々しくも精巧なかんばせに圧倒されて私は呼吸も瞬きもできなかった。


「君が死ぬか、モーティスを滅ぼすか、他の街を巻き添えにするかだ」

「……っそんなの……!」


 一気に息を吸ってしまったせいで咳き込む。私が呼吸を整えるのをユンシーは待ってくれなかった。


「選べないか? 俺は君がどうしてそこまで迷うのか分からない。君は死にたくないと言ったはずだ。フェック、モーティス、君にとっては未知の街……この三つは君自身の命よりも重いのか?」

「……私は都市神様のように必要な存在じゃないんだよ。それに、たった一人だ。街には沢山の人が生きているのに」


 ようやく喉から絞り出した声は掠れていた。ユンシーの言うことにいちいち反発しているくせに、どれもが薄っぺらだ。嘘ではない。けれど、真実からは外れている。きっとそれがユンシーにも伝わってしまったんだろう。


「そうか。悩みは尽きないな」


 黄緑色の双眸から揺らめく光が消え失せる。人間に近付いたそれに私はむしろ恐怖を覚えた。どれだけ覗き込んでも真っ暗闇だ。

 弾かれるように私は身を退いていた。けれど実際は動いていない。ユンシーに左腕を掴まれているからじゃない。今、ユンシーは私に指一本触れていない。それなのに私は動けなかった。これまでにないくらい全身が重く、腕を上げることすら難しい。見えない大きな手のひらで地面に押さえつけられているようにも地面から強く引っ張られているようにも感じられた。

 ユンシーに神力で行動を封じられている。一拍置いて状況を把握したところで抵抗のしようがなかった。怖い。けれど今の私は恐怖にわななくことすらできない。更にユンシーは私の首に手を伸ばしてきた。

 

「!?」


 ユンシーの指が白銀に変わっている。外套を容易に切り裂いた刃が首筋に添えられた。後はユンシーが一撫でするだけで柔い肌も肉も血管も切り開かれて私は死ぬだろう。喋ることすら禁じられている。

 はは、ははは。血がいっぱい出るだろうな。痛いのかな。都市神様に食べられるよりも痛い死に方なのかな。怖くても逃げられないのなら、もう狂うしかないのかな。

 私はそのとき間違いなく正気を手放して現実から目を逸らそうとした。だけど、ユンシーが。真っ暗な瞳のユンシーがはっきりと笑っていたから。馬鹿な私ではなくユンシー自身をあざ笑っていたから。


「俺は俺以外の生命のことなど顧みずに生きてきた。俺のためにどれだけの生命が犠牲になったのかを考えたことすらない。だから、君のことが理解できないよ。君が人間だからじゃない。君以外の人間はそんなことすら思いつかない。都市神のためなら……自分のよりよい生のためなら喜んで他者を差し出すだろう。そこに苦悩はない。俺との共通点だな」


 どうしたのユンシー。私を殺そうとしているくせに随分とお喋りだね。それに、自分をひどいひとみたいに語るんだね。私を助けてくれたのに。今だって私を……助けようとしてくれているのに。


「君が選べないのなら、俺が選ぼう。君の苦悩をここで終わらせてやる」


 悪ぶるつもりもなさそうな抑揚のない声に、もういいやって思った。口を開ける。お腹に力を入れる。そして舌を動かした。


「……いやだ……やめて、ユンシー」

「どうして嫌がる?」

「死にたくないよ。……私、最低だ。他の人たちがどうなってもいいから、死にたくないって思ってるんだ」


 私の真実は醜く汚れている。そんなものを吐き出しているから喉も舌も爛れてしまいそうだ。

 善い人を気取ってそれらしく躊躇したところで、神官たちを振り払って駆け出したときから私にはきっとそれしかなかった。ユンシーは私を理解できないと言ったけれど、そんなことはないんだ。私だって同じ。それどころかもっと酷い。私一人のために、街ごと差し出そうとしているのだから。

 突然ふっと体が軽くなった。ユンシーが神力を解除したのだろう。ただの指に戻った手で私の頬に触れる。


「……君の望む返答をしようか。俺の本心でもあるが」


 意地悪がしたいのなら後半はいらないんじゃないだろうか。そんなことを思いつつ私は口を噤んでユンシーの言葉に耳を澄ました。ひんやりとした手が顔の輪郭をなぞって離れていく。


「だからどうした。大切なのは君の命だろう」


 そう言ってユンシーが突きつけた指の先には脈打つ心臓がある。

 確かにそれは私の望む返答だった。一度だけでも、嘘でもいいから、誰かに言ってほしかった。そうしたら私の命にちょっとだけでも価値があったんだって。私の死ではなく、私の生に意味があったんだって勘違いして死ねる気がしていた。でも、違うんだよね。私はそんな勘違いが必要なほど善人でもしおらしくもないんだ。

 強張った微笑みを浮かべようとして失敗しているユンシーと代わり映えのしない森の景色がわけの分からないうちに滲んでいた。


「っ……ユンシー……!」


 最初こそ節度を守って流れていた涙が徐々に勢いをつけてどばどばと溢れ出してくる。そうなると当然鼻水も出始めて色々と汚い絵面になってしまうわけで。私は両手で隠した上でユンシーから顔を逸らした。

 ユンシーは無理やり私と顔を合わせようとはしなかったけど、これまでにない注目を浴びている感覚はあった。涙が珍しいのか、私の号泣姿に白けつつも目が離せないでいるのか。

 後者だったらもっと泣いちゃおうかな。

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