断章 フェック
神官と自称する人間たちが去り、白い服を着た女だけが聖域(と人間たちが呼ぶこの場所)に残される。女はすぐさま私の前で平伏した。私のどの目とも視線を交わさないまま。
「都市神様」
「……フェックと」
女の体が硬直する。またか、と思うのにも飽きてしまった。
聖域を離れた神官たちが得体のしれない微笑みを浮かべながら石段を下りていくのを今更見ても暇潰しにもならない。神官たちに貸し与えた目にも街に潜ませた目にも興味を引くものは映っていなかった。
表情を確かめるために伏せる女の真下に目を開かせる。女は目を閉じていたが、同時に涙を流していた。それが恍惚と畏怖によるものだと私はすでに学習している。
「っ……フェ、フェック様」
女がようやく喋った。
たかが名前でどうしてそこまで震える必要があるのだろうか。私が神だから? 最初にそう決めたのは人間だろうに。ここで生きるためにそのように振る舞うと決めたのは私だが。
「顔を上げろ」
「…………」
女の顔には茶色の目が二つ嵌っていた。またか、と思ってしまうのは私が愚かなだけだろう。色が違うのはいい、瞳孔の形が異なるのも。けれど、せめて目が一つか三つであれば可能性が上がるかもしれないのに。私と人間に外観の差はそうないのだから。
そして女は今になって私の手の甲で蠢く目から手首へ、続いて首筋から頬へと確認できる全ての目を律儀に見つめていた。どこに視線を定めていいものか迷っているのかもしれない。
とても愉快とは言えないが忌避されるよりはいい。私が人間たちの神である限りは。
「お前を喰う前に、私にはしなければならないことがある。受け入れるか?」
返答は分かりきっていたが儀礼として尋ねる。
「御心のままに。フェック様」
「よろしい。立て」
素早く直立した女へと歩み寄り、額の目を開いた。すぐに目が合う。
私は生命を維持するのに必要な機能だけを残して女の動きを止めた。指先一つ自分では動かせない。今の女にできるのは思考だけ。
「お前は私の望みを叶えてくれるだろうか?」
結果は予想していても、この瞬間だけは高ぶりを抑えられない。
左の目に手を突っ込む。そして握り潰さないように注意しながら取り出した。私の肌よりも濃い紫の血液が眼窩から噴出して顔の半分と手、それに女を濡らした。
血で汚れながらも涙の痕がまだ生々しい女に微笑みかける。胸元に左目を押し付けて、私は女へそれを与えた。
「人間よ。この私を神と崇める愚昧の生物よ。さあ、私と同じものになってくれ」
赤い目玉が女の皮膚を割り開き、肉を血を骨を侵食していく。きっと今の私と同じような激痛が襲っているだろうに女は私を見たまま動かない。ああ、動けないの間違いだったか。
私の全ての目が女をつぶさに見つめている。私と同化していく女を一時だって見逃したくはなかった。腸に凝っていた言葉が溢れてきて止まらない。
「私と同じ誰かをずっと探していた。でも、どこにもいなかった。ここにだっていないだろう。無理をしてここから出ていってまで果てのない旅を再開したいとはもう思えない。だから考えを変えたんだ。同じものがどこにもいないのなら、作ればいい。そうだろう? そのための生贄だ。私にとっては、お前たちは……」
女の胸元に赤い線が走る。私は息を呑んで来たるべきその瞬間を待った。しかし。
「ぁぁア、ア゛ア゛ア゛……ッ!」
聖域中に轟く奇声と共に女は胸から弾け飛んだ。私は間近で煮え立つ鮮血を浴びる。いくつかの視界が赤くぼやけていた。
破裂によって大きく二つに分かれた肉の塊は床へ落下してひしゃげた音を立てる。もう何も映していない茶色の眼としばし睨み合ってから私は背を向けた。ついでに顔や肩についた小さな肉片を手で払う。
どれだけ繰り返しても生々しい失望感が私を蝕んでいく。存在するだけで吸われていく力を補うための最低限の食事すらしたくなかった。前回か前々回では喰ったのだから今回は放っておけばいい。いつものように人間たちが片付けるだろう。女の血潮が私の体温に馴染んで冷たくなっていく。
「次、次だ……次はもっと頑丈な人間がいい……」
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