第23話

 この番号に掛けるのは随分と久しぶりだ。果たしてちゃんと出てくれるだろうか?

 そんな不安とは裏腹に、電話はキッチリスリーコールが終わった瞬間につながった。

 でも、声が出ない。

 電話は繋がったものの何を言っていいのかが分からなかった。

 それは相手も同じなのか電話は沈黙したまま、その向こうにいる人間の息づかいが僅かに聞こえるだけだ。

 どうしよう、なんて言うかちゃんと考えてから掛けるんだった。などと今更、後の祭りだ。

「……友恵?」

 沈黙を破って聞こえてきたその声は最後に聞いたあの頃よりも、積み重ねた年月の分少しだけ低くなっているような気がした。

「うん、そう、久しぶり」

「久しぶり、元気にしてる?」

「まぁぼちぼちよ。ぼちぼち」

「そっか」

 会話が途切れる。

 お互いに微妙な、間合いを計り合っている気配。

 こんなことやっていても拉致が開かない。

 ええい、ままよ!

 友恵は思いきって切り込んだ。

「あのさ、あのメールってどういう意味?」

「ああ、見てくれたんだ」

 あのメールという曖昧な言い方にもかかわらず、電話の向こうの相手は迷うこともなくそう言った。

「送ってから、何のリアクションも無かったから半分諦めてたんだ。読まれず消された物だと思ってた」

「最初はそうしようかと思ったわよ。あんなメール突然送ってきて」

 確かに普段なら、スパムか何かかと思って、開くこと無く一発削除しているところだ。

 しかし、表示されているメールアドレスがそれを躊躇させた。

 登録を削除したのは自分なのにアドレスを見るだけで、誰からのメールなのか分かったことに自分でも驚いた。

「ごめんごめん。でもこうして連絡してきてくれたってことは、あの約束はまだ有効だったってことだよな」

『これからも偶に連絡して良い?』

 別れを告げたとき、彼が去り際に交わした約束。それを何年も経った今でも彼は憶えていたのだ、そしてそれは友恵も一緒だった。

「で? あれってどういう――」

「縒りを戻したい」

 友恵の言葉を遮るように声が重なった。

 言い訳が聞かないくらいシンプルでド直球な言葉。それ故に逃げることも隠れることも許さない。逸らそうとする顔を無理矢理前に向かせて向き合わせるようなそんな言葉。

「……あたし今年で二十九よ」

「それは俺も一緒だよ」

「あたし達、何年も合ってないのよ」

「会いたいときにあえば良いさ。今は会おうと思えばすぐに会えるんだし」

「あたし、バツイチだよ」

「知ってる。じゃなきゃあんなメールを送ってない」

「あたし……」

 喉に何かがつっかえて声が詰まった。

 頬を涙が伝って声が湿る。

「あたしで……いいの?」

 あんな一方的にあなたを切り捨てたのに。

 一度はあなたとは別の人と一緒になって、結局その人とも別れて。

 あなたからメールが来ても、半年も怖くて連絡できなかったのに。

 そんなズルくて、我が儘なあたしで本当にいいの?

 何年も待って、転勤までして。そこまでするだけの価値があたしにあるの?

「泣かないでよ。まったく、以外と泣き虫なんだから」

 小さな子供を慰めるようなその言葉に、とっさに「からかうな、馬鹿」と、そう言ってみるがその声は涙でヘロヘロだ。

 電話の向こうで彼が笑う声がした。

「じゃあ逆に聞くけど、友恵の方はどうなのさ?」

「どうって、何がよ」

「振られた相手にいつまでも未練タラタラで、離婚したっていう話を聞くなり、これはチャンスとメール送りつけてくるようなやつだよ? 普通に考えて気持ち悪くない? おまけにデブだし、そんな男と友恵は縒りを戻したいと思うわけ?」

 自虐混じりのその言葉は、ほんの少しだけ不安気な様な気がした。

 確かに冷静に考えれば、その通りなのかもしれない。それでも不思議と友恵の答えには迷いは無かった。

 もしここで彼との関係を完全に断ったらあたしは絶対に後悔する。それが分かっていたから。

「その気が無いなら、今こうして連絡してないわよ」

「なら、俺も一緒だよ」

「そっか……」

 その言葉に自分の中にあった不安が溶けていく。彼も自分と一緒なんだと思ったら少しだけ心が軽くなった気がした。

 ……所で――

「何であんた、あたしが離婚したこと知ってたわけ」

「え?」

 電話の向こうからギクリとする気配がしたかと思うと、言い訳でも考えてるのか突然しどろもどろに「あー」だの「えーと」だの言いだした。

「正直に言いなさい。さもないと、ことと次第によっては、あんたを警察に突き出さなきゃいけなくなるわよ」

 もちろん本気でそんなことはするつもりはないし、正直、漏洩元にも心当たりはあるのだが、泣かされた仕返しがてらイジワル言ってみると、

「わー! ちょっとそれは勘弁して!」

 慌てた声が上がる。

「言うなって口止めされてたんだけど」

 電話の向こうの声はそう言い訳を言ってから、観念して漏洩元を吐いた。

「俊介君に教えてもらいました」

 やっぱり。

 想像通りの相手に納得する。

 毒を喰らわば皿までと言うことなのか、電話の向こうの相手は別に聞いてもいないことまで話し出す。

 東京にいた頃にたまたま上京してきた俊介と会いそこで連絡先を交換して、それ以来、ちょこちょこ連絡を取り合う様になった。というのが顛末らしい。

「ごめん! 警察は勘弁して」

 思った以上に、さっきのが効いているらしく、こっちとして完全に冗談だったのだが、向こうの謝罪は割と切実だった。

 その謝る声に冗談だよと言ってあげても良かったのだが、その様子がなんだか可愛いのでわざとイジワルな声を出してみる。

「そうねーどうしてくれようか」

「ごめんってー」

「……じゃあ、今度の日曜ご飯奢ってくれたら許してあげる」

 その提案に虚を突かれたのか電話の向こうから「へ?」という素っ頓狂な声がする。

「ただしファミレスとか安いところじゃダメ。オシャレなレストランでデザートも付けて。それなら許してあげる」

 流石に調子に乗りすぎか? とも思ったが

 電話の向こうの声は、割と本気で安堵したような気配で。

「奢る奢る、いくらでも奢る! だから許して」

 電話の前で拝み倒している姿が、見えるようだった。ちょっと脅かしすぎたかもしれないなぁと、すこしだけ申し訳ない気分。

「よし、わかった許す。待ち合わせはタマ公前、時間は十二時半頃でどう?」

「うん分かった問題ないと思う。もし何かあったらこっちからまた連絡する」

「オッケー了解。それじゃあ……またね、順平」

 久しぶりに呼んだ名前に胸が高鳴った。

「うん……また」

 そこで会話は終わったのだが名残惜しさでお互いに中々電話が切れない。

 ようやく友恵が通話の終了ボタンを押したのは、会話が終わってから三十秒が経ってからだった。

「ふー……たく、あたし今、幾つだっつうの」

 久しぶりのデートの約束。

 その事に年甲斐も無く少しドキドキしている自分に苦笑する、それも自宅のトイレの中という、ロマンのかけらも無いような場所で。

 だけど、それほど悪い気分でも無い気分でもない。

 さて、それはそれとして――

「あの野郎」

 今頃呑気にお茶でもすすっているのであろう弟の顔を思い浮かべる。

 どうりでここ最近ことあるごとに友恵の交際関係をやたら聞いてくる訳だ。

 なにか妙だとは思っていたが裏で情報の横流しをしていたとは。許すまじ。

 文句の一つでも言ってやろうと、トイレを後にするがふとあることに気づく。

 さっき涙を流したせいで今自分の顔は今、とんでもないことになっているはずだ。

 流石にこの顔で人前に出るのは恥ずかしいし、何より俊介に泣いたことがバレるのは業腹だ。

「ちっ、命拾いしたなあんにゃろう」

 可愛げの無い弟への制裁は後回しだ。

 友恵は化粧を直すため、メイク道具のある自室へと向かって歩き始めた。

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