第26話


「ねぇ、お義母さんってどんな人だったの?」

 そう聞くと、上着のポケットの中で絡めた俊介の手が驚いたように少しだけピクリと動いた。

「なんとなく聞きたくなって、ダメ?」

 重ねて尋ねるとさすがに照れ臭いのか、俊介はわずかに逡巡する様子を見せたが直ぐに気を取り直し。

「……別にダメじゃ無いよ、隠すことでもないし」

 そう言って俊介は、そうだなぁ、と何かを懐かしむように目を細める。

「昔、俺が東京に上京するって決めたばかりの頃。父さんとしょっちゅう衝突してたんだけど。そん時、俺うっかり母さんを激怒させちゃってさ」

 どうして? と真奈実が尋ねると、俊介は笑った。過去の過ちを振り返って恥じ入っているような、そんな笑いだった。

「つい言っちゃったんだよ。母さんも、あんな頑固者と結婚して、大変だよね、後悔したんじゃない? って。そん時、俺父さんと喧嘩した直後だったからイライラしてて、だからついポロッとね」

「で、その後どうなったと思う?」と俊介が聞いてきたので、真奈実は素直に分からないと答えた。

 確かに俊介のその言葉は、苛立ちがあったとは言え擁護できないものだがそこからどうして義母が強い女性という、感想に繋がるのだろう?

「言った途端、思いっきりひっぱたかれた」

 苦笑を浮かべながら、俊介はしみじみと当時の事を話す。

「怒るようなことなんて、滅多に無かった母さんがいきなり平手、それも叩いた本人の方が痛そうな顔しててさ。あれは効いたなぁ、色んな意味で」

 話す俊介はただただ懐かしそうで、その声色には不満の色は一切感じない、俊介にとってそのエピソードは大切な母との思い出の一つなんだろう。

 きっと芯があってしっかりした人だったんだろうなと、合ったことの無い義母に真奈実は思いをはせる。

「格好いい人だったんだね」

「そうだね。でさ、実を言うと……」

 と、そこまで言って俊介は不自然に言葉を切った。どうやら言って良いものかどうか思案しているらしい。

「なに? 何かあるなら話してよ、気になるじゃん」

 そう促してみると「コレ言ったら、引くかもだけど」と前置きをして。

「ちょっと母さんに似てるんだよね、真奈実って」

「えっと……光栄です」

 で、いいのかな? と真奈実が首を傾げる。

「でも私、そんなに格好いい人では無いと思うけど」

「いいや、そんなこと無いんじゃ無い? 姉さんも言ってたよ。肝が据わっててしっかりしたいい子ねって。一体どんな話したの?」

 肝が据わってるだなんて、それはお嫁さんとして素直に喜んでいい評価なんだろうかと思わなくも無かったが。

 俊介曰く、悪い印象は持たれていないとのことだったのでとりあえず褒め言葉として甘受する。

「それにさ、俺が今ここにこうしているのは、君の御陰なんだから」

 俊介が優しく、そして少し照れくさそうに微笑む。

「『全部ちょうだい』って、あの言葉には痺れたよ」

「あ、あの時はその場の勢いもあったから!」

 当時の事を今思い出すと少し恥ずかしい。

 後悔はしていない、でも我ながら酷く大胆な事を言ってしまった。今後、同じ事を言えと言われても多分ムリだろう。

 話が終わった合図のように、ポケットの中で繋がれていた手が解かれる。

「俺、桶と柄杓返してくるから先にエンジン掛けておいてよ、車内もう冷え切ってるだろうし」

 そう言って俊介は車のキーを差し出してくるが、真奈実はそれを受け取らず、桶の方に手を伸ばした。

「それなら俊介くんの方が、車でまってて。どうせ運転するのは俊介くんだし」

 運転免許なら真奈実も持っているが、この辺りの土地勘は皆無だ。

 俊介に一々ナビして貰いながら、車を走らせるのも非効率と言うことでこの辺りの運転は俊介に一任することになっている。

「いいけど、返す場所分かる?」

 俊介の問いに真奈実は「うん」と頷いて答えると、俊介は大人しく桶と柄杓を真奈実に渡し、自分はキーを手に車へと向かっていった。

 その背中を見送りながら、ポケットの中で繋がれていた手の温もりが名残惜しいと少しだけ思ってしまったのは秘密だ。

 借りた桶と柄杓をもとあった場所に戻し車を止めた駐車場へと戻ると、俊介は運転席に座って真奈実の事を待っていた。

 真奈実が車に歩み寄ると、俊介が何か手に持っていることに気が付く。

 それは黒革表紙の手帳の様に見えた。

 なにかスケジュールでも確認してるのだろうかと適当に予想を立てながら、真奈実が車に乗り込むと俊介は手帳を上着のポケットへとしまった。

「お帰り。さてと、この後どうする? 真奈実が行きたいところがあれば、どこでも連れてくよ。どっか無い?」

「え、そんな、いきなり言われても」

 墓参りを終えたらそのまま帰るのかと思っていたので突然降られたそのお題に。真奈実はえーと、と腕を組んで首を捻った。

 行きたいところと言われても、即座にぽんと出るほど新潟の地理には詳しくない。

 携帯で調べでもしたら、観光地の一つや二つすぐに出てくるのだろうが、でも今はそんなところよりも――。

「じゃあ、俊介くんのおすすめに連れてってよ」

「俺の? 真奈実はそれでいいの?」

「いいもなにも、私はこの辺りになにがあるかなんて分かんないし、それなら私は俊介くんが行きたいところに行きたい」

「でもなぁ、俺だって別に観光地とかに詳しいわけじゃないし」

「別に観光地じゃなくたっていいよ。何処か俊介くんの思い出の場所とかさ。うん、むしろ私としてはそっちの方がいいかも」

「思い出の場所って、なおのこと面白く無いでしょう、そんなところ」

「そんなこと行ってみないと分からないじゃない。それに言ったでしょ。全部頂戴って、だからもし、俊介くんにとって大切な場所があるのなら私はそれが知りたい、そこを私にとっても大切な場所にしたいから」

 俊介はなにも言わなかった。

 ただなにも言わず、その掌が真奈実のあたまの上に乗せられたかと思うと、荒っぽい仕草でぐしゃぐしゃになで回される。

「ちょ、いきなりなにを」

「いきなり可愛いことを言うのが悪い」

「そっちこそ、いきなりなにを言ってるのよ、もうっ」

 俊介の手をようやく払いのけ、不平を言いながら、ボサボサになった髪をなでつける。「せっかくセットしたのに」

「別にいいじゃ無い。ボサボサ髪でも真奈実は可愛いよ」

「それ、別に嬉しくない」

「そう? 褒めたんだけどなぁ。でも、思い出の場所かー。うん、そういうことなら一つだけ。少し遠くなるけどいい?」

「うん、いいよ。お任せします」

「OK」というと、俊介はアクセルを踏んで、車を発進させた。チェーンをまいたタイヤが雪面を踏みつける、独特の音を響かせながら車が走る。

 全部頂戴、かぁ。

 我ながら大胆なこと言っちゃったもんだなぁ、と当時のことを思い出す。

 あの日、俊介と結婚することを決めた日。

 そしてそれは同時に――。

 運転席でハンドル握る、俊介の横顔を見つめる。その事に気が付いたのか、俊介は視線をまえに向けたまま「どうかした?」と聞いてきた。

「ううん、別に……ねえ、俊介くん」

「なに?」

「大好き」

 言った瞬間に、自分の顔が煮上がったのを自覚する。しかし当の俊介は涼しい顔で「俺もだよ」と返してくる。

 その事が少し悔しい。恥ずかしい思いをしながら言ったことを、あっさり返されてしまうことも。それでも俺もと言ってもらえてちょっと嬉しいと思えてしまう事も。

 悔しくて俊介の事を、拗ねた子供のように見てそれで気づいた。

 心なしか俊介の耳が赤いような、そんな気がした。

 なぁんだ、あなたも照れてるんじゃ無い。

 ちょっとだけ勝った気分だった。

 あの日、俊介と結婚することを決めた日。 そしてそれは同時に――。

 俊介との別れを覚悟した日でもあった。

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