第31話
翌日、十二月一日。
その日、横で眠る俊介が跳ね起きた振動で、真奈美は目を覚ました。
寝ぼけ眼をこすりながら、俊介の様子を窺う。
俊介の息は荒く、額には冷や汗浮かべていて、何か悪い夢から覚めた直後のようだった。
「どうしたの?」
体を起こしながら、そう尋ねると。
「今日って、何月何日?」
俊介は難の脈絡も無く、そう尋ねてきた。
怪訝に思いながらも、今日の日付を答えると俊介は力なく「そう」と答えた。
徐に俊介の腕が伸びてきて、真奈美の事を抱きしめる。突然の事に心臓が跳ねるが直ぐに違和感を憶えた。
抱きしめる力が、いつもより少しだけ強いきがした。
それはまるで真奈美がそこにいることを確かめ、噛みしめている様な。
「大丈夫?」
重ねて尋ねると。
「少し……悪い夢を見てさ」
耳元でそう言って、俊介は真奈美を抱きしめていた手を緩め離れていく。
「もう大丈夫、ありがとう」
そう言って笑う俊介の表情は心なしかムリをしているよう見えて、なぜだか心の奥がざわついた様な気がした。
「あれ、この脱獄犯」
朝食を食べているとき、テレビで流れていたニュース番組を見ながらの事だ。
「少し前に、捕まらなかったっけ? ホラ、確か伊豆の方で」
「え?」
言われて、真奈美の方もそのニュースへ意識を集中する。
つい先日、収容所から逃げ出した脱獄犯が今も逃走中で警察が目撃情報を求めている。
アナウンサーが読み上げているのは、要約するとそんな内容だった。
「気のせいじゃ無い? ほら、今も逃亡中だって言ってるし。そもそも私、このニュース今日初めて見たよ」
俊介はなにも言わなかった。
ただ、ぼんやりとニュースを見続けるその表情は、困惑している様に見えた。
朝食を食べ終えて、真奈美も俊介も会社へ出勤する時間が迫ってくる。
俊介の方が三十分ほど家を出る時間が早いので、玄関まで見送りをするのがなんとなくの習慣になっている。
「あれ、今日、雨降るなんて言ってたっけ?」
傘立てに立ててあった傘を手に取った俊介を見て、真奈美は首を捻る。
空は冬場らしい、ねずみ色の目立つ曇天ではあるが、隙間からは青空も覗き雨の降る気配はない。
朝の天気予報でも、今日は一日雨は降らないと言っていた筈だ。
「念のため? もしかしてって事もあるし」
何処か歯切れの悪い確信が持ちきれていないような言い回しに、真奈美は益々首を捻るが、結局俊介は傘を持ったまま「行ってきます」と言い残して部屋を後にしていった。
それを見送った後、真奈美も出る支度を始める。素早く支度を終えて、いざ自分も家を出ようとしたところで、ふと今朝の傘を持っていった俊介のことが頭を過ぎる。
改めて空を見上げてみるが、相変わらず空は雨の降る気配を感じさせない。心なしかさっきよりも晴れている様な気さえする。
少しの間、空を見上げながら考えて。
最終的に小さな折りたたみ傘を鞄の中に忍ばせてから、真奈美は部屋を後にして職場へ向かった。
しかしいつまでも雨は降ることは無く結局そのまま退勤時間を迎えてしまった。
やっぱり雨なんて降らないじゃないと思いながら電車に揺られて、最寄り駅を折り自宅へと歩いていた時。
不意に鼻先に雫が当たる感触があった。
雫の数は徐々に増え、降ってくる感覚も短くなっていく。
突然の雨に慌てる真奈実だったが、今日は折りたたみ傘をバックに忍ばせていた事を思い出す。
すっかり忘れかけていた藍色の傘を鞄から取り出し、開いてから大して間も開けないうちに雨脚は一気に強くなった。
本降りになった雨はまるで滝のようで、真奈美は傘越しにきゃーと悲鳴を上げた。
そんな中どうにかこうにか歩いていると、家に着いた辺りで雨は突然ぴたりと止んだ。
どうやら通り雨だったらしく、降っていた時間は多分十分にも満たないだろう。
しかしそれでも、もし傘を持っていなかったら真奈美は今頃、全身ずぶ濡れの濡れ鼠になっていた筈だ。
真奈美が部屋に上がり部屋着へ着替えたちょうどその時、俊介が帰ってきた。
「お帰り」と声を掛けながら肩やズボンの裾を見てみると僅かに濡れている。どうやら帰宅途中であの雨に降られたらしい。
「すごい雨だったね。ああいうのをゲリラ豪雨って言うのかな?」
「さあぁ、どうなんだろう?」
「でも、よく分かったね。今朝、俊介くんの忠告が無かったら、今頃、私びしょ濡れだったよ」
「……」
「?……俊介くん」
俊介は上の空で、心なしかその表情は何処か思い詰めている様にも見える。
いつも余裕めいた所のある俊介には、珍しい表情だった。
「何かあったの? 今日、なんだか変だよ」
俊介は思い詰めたような表情のまま、真奈美の事を見る。
「……ちょっと、話したい事があるんだけど」
そう言って俊介は真奈実を居間のソファへ座らせて、自分は仕事着のまま台所へ向かったかと思うと、二人分の紅茶を入れて戻ってきた。
俊介に紅茶の入ったティーカップを差し出され、それを手にとってとりあえず一口。
しかし入れてきた本人は真奈実の隣に座って、ただカップに入ったオレンジ色の水面を見つめるだけだった。
話したい事があると言っていたのに俊介は中々、口を開こうとしない。
話ってなんなんだろう?
紅茶をちびちび飲みながら考える。
こんな思い詰めたような表情で話さなければいけないような事って、一体何だろうか?
なかなか言い出さない所を見るに、よっぽど言いにくいことなのかな?
そんなことを考えてる内に、タンスの奥にしまわれたペアリングを思い出した。
いよいよ来たか!
そう思い、真奈美は無意識のうちに居住まいをただした。
「ねぇ、話ってなんなの?」
あたかもなにも知りませんよ、といった風を装って、話すように促す。
そうすると、俊介は重かった口を、ようやく開いた。
「真奈美、俺たち……」
全部お見通しなんだから、早く言っちゃいなさい。
にやつきそうになる口元をどうにか抑え、心中でそう勝ち誇りながら、俊介の言葉を待って。
「……別れようか」
その一言を聞いた瞬間シンっとあたりが無音になったような気がした。まるで
すべての時間がその一瞬だけ止まったてしまったような。
なにを言っているのか分からなかった。
全く想定していなかった所から突然、奈落の底へ突き落とされたようね。
とにかくなにがなんだか分からない。
分からないのは、自分の心が分かろうとしていないからだ。
その言葉の意味を受け容れたら、自分が深く傷付くと、本能で察しているから。
「……何で?」
自分でもビックリするくらい、無機質な声でそう言った。
頭の中は相変わらずグチャグチャで、何かを考える余裕なんて無い。
それは無意識からこぼれた質問だった。
しかし、俊介はその質問に答えない。
「私、何か怒らせる様なことした?」
重ねて尋ねる。
しかし、俊介は答えない。
「私と一緒にいるのが、嫌になったの?」
答えない。
「私の他に好きな人が出来たの?」
答えない。
「私のこと――」
一言話す度に、自分の事を切りつけているような気分だった。
切りつけて、自分で付けた傷口から受け容れたくなかった現実が染み込んでくる。
これ以上、傷を付けたら堪えられなくなる。
それが分かっているのに、問いかける声は止まらない。
「私のこと――嫌いに」
まるで血でも吐き出すように、口にしようとしたその言葉を。
「違う」
俊介の怒ったような声が、遮った。
「違うよ、真奈実のことを嫌いになったりなんてしない」
なにが違うって言うの?
自分から言い出しておいて、それなのに違うってなんなの? ふざけないでよ。
反射的にそう思った。怒りもあった。
でも。
思い詰めた顔でうなだれる俊介は、端から見ていると今にも泣き出しそうで、つらそうで。
人に弱味を見せず、いつも飄々としていた俊介のそんな姿はあまりにも痛々しくて。
気が付くと肩に腕を回して、俊介の事を抱きしめていた。
「何かあったんだね?」
そう言うと、俊介は真奈美の腕の中で小さく頷いた。
「私ね俊介くんと別れたくない。何も分からないまま別れましょうなんて、そんなの納得できないよ」
もう少しだけ強く、彼を抱き寄せる腕に力を込める。
「だから話してよ。話してくれないなら、別れてなんて上げない」
それからどれくらいが経ったか。
「俺は多分……」
絞り出すような声で、俊介が話しだしたそれは、
「一度死んだんだ」
信じられないような、奇妙奇天烈な出来事だった。
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