04 織田信孝

 あれから。

 羽柴秀吉の躍進は目覚めざましかった。

 形式上、信孝を大将にいただいたものの、事実上、織田軍を指揮した秀吉は、その麾下きか二万の大軍を縦横無尽に動かして、山崎の戦いにおいて、明智光秀を破った。

 そして、あれよあれよという間に京を制し、清須会議を牛耳り、秀吉は、己の天下を築き上げつつあった。

 信孝は、織田家の次期当主は自分にという目論見はものの見事に外れ、三法師さんぽうしという甥に頭を下げることになった。


「くそ。なんということだ」


 憤懣ふんまんやるかたない信孝は、北の柴田勝家と組んで決起した。

 この時、信孝は岐阜城にいたため、秀吉はまず美濃へと向かったが、そこへ勝家が近江長浜(秀吉が砦を築いていた)へ攻め入ったことを知る。


「ざまを見よ」


 その信孝の哄笑は、かつてのような傲慢さは無かったが、卑屈さが混じっていた。

 一方の秀吉は、わずか五時間で美濃大垣から近江木之本まで(約五十二キロ)を走破し、そのまま賤ケ岳で柴田勢を見事打ち破ってみせた。

 世にいう、美濃大返しであり、賤ケ岳の戦いである。



 それから。

 信孝はよりによって、「愚鈍」とあなどっていた兄、織田信雄のぶかつの兵によって追い詰められていた。

 これは、秀吉がその天下取りに忙しかったことと、何より、主家であった織田家の人間を、自ら討つことを嫌ったからである。

 いずれにせよ、信雄の攻撃というよりは、勝家の敗北により、信孝は岐阜城から逃げ、たくさんいた家臣たちも散り散りとなり、今となっては二十七人ほどの扈従こじゅう(近習などの家来のこと)が付き従うばかりだ。

 尾羽打ち枯らした信孝は、いつの間にやら尾張知多郡、野間大坊にまで落ち延びていた。


「ああ、おれは。何故……。太陽の音を忘れない。さすれば、御身おんみは栄光にあり、命失うことも……」


 野間大坊内の、今日では安養院と呼ばれる寺院にひとり、ぼうっとしていたところを、信雄の「自害せよ」との書状が届き、この物語の最初の場面に戻る。


「待てよ」


 信孝はふと、信雄の書状の宛名である「織田信孝」という文字を見た。


「何と、何と。おれは織田になっていた。そうだ、そうだ、神戸に戻りさえすれば」


 太陽の音を忘れないの言い伝えは、神戸の家の当主の話。

 なれば、神戸の名乗りに戻りさえすれば。


「……それは無理にございます」


「……何故だ」


 信孝はついてきた扈従のひとりに聞いた。

 彼が、今の発言の主だからだ。

 そういえば、この扈従は、自分が神戸の家に入った時に、一番に扈従になった男だった。


「……お忘れになりましたか」


 多分に語尾の上がる、伊勢言葉で扈従は答えた。


「御養父、具盛とももりどのを、殿が四国征伐にあたって、神戸の城にお戻らせあそばしたことを」


「おお……」


 押入聟おしいりむこという手段で奪った家の前当主、神戸具盛。

 信孝は四国征伐に際し、空となった神戸城に彼を戻してやることにした。

 そして本能寺の変後、織田の姓に復するにあたって、「神戸の名も、返す」とご丁寧に書状を送っていた。


「では、おれは……」


 太陽の音を忘れないと思いつつ、その実、それを都合よく解釈して、太陽の音を忘れ、神戸の家の当主であることも忘れ去ろうとしていたのか。


「くっ……」


 信孝の目に、無念の涙が湧いた。

 だが、不思議なことがひとつ。

 なぜ、あのとき。

 そう、あの本能寺の変のとき。


「太陽の音を感じたのだ。あれは何だったのだ……」


 そう疑念を感じつつも、信孝は潔く自害し、その波乱に満ちた生涯を閉じた。




 信孝は知らない。

 羽柴秀吉の幼名を、日吉丸といい、それは、秀吉の母ががお腹の中に入った夢を見て、秀吉をその身に宿したと伝えられていることを。

 ……そしてそれが、伝説の中国大返しにより、摂津にまで迫って来たことを、もしかしたら、信孝は「自分に近づいた」「一体化した」と感じたのかもしれない。




【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太陽の音を忘れない ~神戸信孝一代記~ 四谷軒 @gyro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ