03 本能寺の変
「好機なり!」
詳細は
この時において、本能寺の変について、詳細は省こう。
今、信孝にとって重要なのは、父・信長と、兄・信忠が、明智光秀の襲撃により、ほぼ同時に死んでしまったことにある。
つまり。
「あの
元々、庶子でありながら、信忠・信雄に次いで、軍団を統括する身にまでのし上がった信孝である。そして内心では、あの愚鈍な信雄よりは自分が上だと思っている。
そう、上昇志向は、常に彼の心のうちにあった。
たとえそれが、父と兄の死の際にあっても。
「それに見よ」
信孝は眼前の丹羽長秀の肩を抱き、立たせ、共に岸和田城の天守から、地を見下ろした。
はためく「
「今、おれの下には兵がいる。光秀を討つ、多くの兵が!」
これなら、堺の商人たちの抗議に、今は感謝してやってもいいくらいである。
うっかり渡海していたら、この機をのがしていたやも知れぬ。
やはり、この信孝は、太陽の音を忘れない。
「だが待て」
ほくそ笑む信孝だったが、首だけ曲げて、肩に抱いた長秀に問うた。
「ここに居るのは、おれの直属、蜂谷の直属、そして長秀、お前の直属の兵だ。残りの大半は……」
「お、大坂にございましょう」
「何」
信孝の、信長譲りの目がぎょろりと動いた。
まずい。
大坂は、つまり津田信澄が残って、堺の商人たちとの交渉にあたっている。
ついでだとばかりに、招集したばかりの農民兵や牢人、伊賀衆や雑賀衆、甲賀衆、それに丹波丹後の兵も
大量の雑兵の世話という面倒を押しつけてやった、とその時は思ったが。
「まずい、まずいぞこれは。い、急ぎ大坂へ戻るべきだ」
「な、なぜ」
長秀は、言っている意味がわからない、という顔をしている。
信孝は、うかつものめ、と長秀をにらんだ。
「阿呆! もし、信澄が自立を企てていたらどうする! いや、自立だけならまだいい、最悪……」
それは、信孝の信澄への敵意が生んだ妄想だったかもしれない。
だが、次の信孝の台詞は、織田家重臣・丹羽長秀をして、「もっとも」と思わせる説得力があった。
「最悪……信澄が、義父である光秀と繋いでいたら何とする!? 兵を盗られる、大坂を盗られる、この岸和田も、長秀、貴様も! そしてこの信孝も、盗られるぞ!」
そう、津田信澄は、明智光秀の娘を妻としていた。
*
「……逆臣、津田信澄を討て!」
「なっ、何だと!?」
大坂城(のちの秀吉の大坂城の前の大坂城)、
この櫓において信澄は、堺の商人たちとの折衝、信孝が強引に徴用した新兵たちの調整等、ありとあらゆる雑事に目を回していた。
そこへ本能寺の変の知らせが飛び込み、信澄は動揺する家臣たちに落ち着くよう言い聞かせ、一方で事の真否を確かめるべく、他ならぬ義父・明智光秀へ早馬を飛ばしたところである。
そのような状況で、完全に無防備な南の、泉州から奇襲を受けたらどうなるか。
「ひ、
信澄は野戦どころか、とにもかくにも櫓の中に立てこもるしか、策は無かった。
実際に信澄が光秀と志を共にしていたかどうかは不明である。ただ、光秀の娘を妻にしていたことと、叛逆者・織田信行の息子であることが、今この時においては、何もかもが彼にとって不利に動いていた。
「と、とにかく、信孝どのに使者を出せ! 誤解だ、何かの間違いだ、と」
だが信孝軍の攻めが苛烈だったのか、後述する大坂の兵の事情によるものか、あっさりと千貫櫓の守りは突破され、ついに信澄は討ち取られてしまう。
「
薄れゆく意識の中、信澄の聞いた声は、その信孝のかん高い声だった。
「この織田信孝の勝利を、高らかに叫べ!」
……と。
*
信孝は、津田信澄を討つにあたって、つまり、信長・信忠死後の争覇戦に躍り出るにあたって、姓を復した。
「もう、神戸の姓はいらん。太陽の音が近づくのを感じた。すなわち……おれ、いや、予じゃ!」
信孝は、太陽の声がだんだんと近づき、ついには己と合一化するという感覚を得たという。
つまりこれは、もう、己が太陽だと思った。
これでもう、太陽の声を忘れないよう、気を付ける必要は無い。
なぜなら、己が太陽すなわち織田なのだと思ったからだ。
すでに、神戸城にいる養父・
「さあ、予、織田信孝の覇道を支える兵どもを閲兵しようではないか! つづけ、長秀、頼隆!」
丹羽長秀と蜂谷頼隆は、かしこまって一礼し、それきり何も言わなかった。
信孝はいぶかしげな視線を送ったが、ふたりとも亀のように縮こまり、そして黙している。
「…………」
新たな織田の威に臆したかと思いながら、信孝は大坂城の兵の
「こ、これは……」
そこには兵が誰一人として存在しなかった。
「な、何としたことじゃ……」
溜まりにむなしくひるがえる、「
それを見ていた信孝が振り返ると、長秀が重苦しそうに口を開いた。
いわく、元より寄せ集めだった新兵であるので、ぽろぽろと逃げ出すのが後を絶たなかった、と。
いわく、さらに、本能寺の変の知らせにより、動揺した兵たちはより大規模な群れで脱走していった、と。
いわく、それでも津田信澄が必死に兵の逃げるのを止めていたが、そこを攻めてしまった、と。
「せ、攻めただと? そ、それは誰」
長秀の無言の視線が、それは信孝自身であると告げていた。
頼隆は無念そうに首を振った。
「そ、そんな……」
太陽の音は、たしかに近づいて、己と一体化したはずだったのに。
その誰にも気づかれない呟きは、誰にも気づかれないまま、空に散った。
この時、信孝に残った兵はわずかに四千。
かつては一万四千を誇る大軍勢だったものが、今では四千。
これでは、光秀を攻めるどころか、逆に攻められるおそれがあった。
その時、急に風が吹き、溜まりに残されていた「
……羽柴秀吉が中国大返しによって、その大坂のある摂津に至る、およそ六日前の出来事であった。
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