旧友の話③-7 外へ

 二階は一階と違って霧も出ておらず、その落差に戸惑った。気圧の違いで霧が上がっていかなかったのだろうか。

 再び二階を見て回るが、さっきの男も信者の姿も見当たらない。残っているのは一度も入ったことのない部屋だけだったが、そこは何となく入るのが躊躇われた。霊感がなくとも無意識に入るのを避けるようなそんな場所だったからだ。

 覚悟を決めて扉を開けると、部屋の中には所狭しと左腕の蝋燭が置かれていて、平仮名の「ね」の文字と左手のシンボルが壁一面にぎっしり描かれている。開けっ放しのクローゼットには全く同じ白装束が何着も吊るされていた。初日に見た異常さを、全てこの部屋に詰め込んでいるみたいで寒気がする。

 奥に大型の冷蔵庫があり、中を開けるとラベルのないペットボトルに入れられた大量の水とサンドイッチが詰められていた。俺は空腹に抗えず、すぐにその中の水を手に取って飲み干すと、サンドイッチも平らげた。 

 どんな光景を見せられようとも、人間の生理的欲求には抗えない。浅原は自分の置かれた状況も忘れ、夢中で冷蔵庫の中を漁っていた。

 飢えと渇きが充分に満たされると、今度は睡魔が浅原の身体を蝕み、全身が脱力していく。どんどん重くなっていく瞼の裏で、浅原は聖女の幻影を見た。浅原を見下ろす彼女は、捻じ曲がった首を180度回転させ、異様に大きな黒目でニタリと笑ったのだった。


 どうやらいつの間にか寝てしまったようだ。硬い床で寝ていたせいで、身体の至る所が痛んでいる。浅原は目の前にある巨大な冷蔵庫を開けると、水とサンドイッチを取り出してあっという間に平らげた。冷蔵庫の中の食料品は補充されておらず、あと数日で食べ尽くしてしまう量しか残っていない。これからどうしようかと浅原が思案していると、階下から久しぶりに人の声が聞こえてきた。もしかしたら聖女が相談者を連れて戻ってきたのかもしれない。

 浅原が急いで一階に降りると、そこには数人の男達が徒党を組んで立っていた。その中には見覚えのある顔もいて、確か以前相談に来た者ではなかっただろうか。男達は皆一様に眉を顰め、駆けつけた浅原に今にも掴みかからんばかりの剣幕で迫った。

「おいあんた!一体いつになったらあいつは死ぬんだ。約束が違うじゃないか!いくら金を払ってないからといって、人をおちょくるのもいい加減にしろっ!」

「え?いや、私は別に…」

 男達は浅原を取り囲むと、胸ぐらを掴んで乱棒に揺さぶった。  

「ふざけるなっ。別に悪くないっていうのか!?あの女が熱心に俺に語った拝み屋の力も、全て嘘だったと言うのか?そうだ、あの女はどこだ?あいつも連れてこい!」

 別の男が大声で怒鳴り散らす。浅原は何度も揺さぶられるうちに段々気持ち悪くなってきて、その場で盛大に嘔吐した。

「げえっ。何だこいつ、汚ねえ!いきなり吐きやがった。お前あれか、拝み屋とか言ってるけどよ。ただの精神病んだ勘違い野郎なんだろ!」

 かつて浅原に自分を裏切った友人の死を泣いて懇願してきた男が、しゃがみ込んでいる俺の腹を思い切り蹴り飛ばした。ぐげえっ。それを合図にして、その他の男たちも浅原を寄ってたかってリンチした。

「おらっ!なめんじゃっ。ねぇぞっ。おらぁっ!」

「げぐぐぐっ」

 浅原は蛙のような声を出しながらその場に蹲ることしかできない。腹が焼けるように熱く、その熱は徐々に痛みを伴って身体中に広がっていった。

「ぐぐっ…。待っ…で…ぐれ。ごほっ。わ、私は…。何も、知らない…。ぐぷ。ほ、本当なんだ…。信じて、くれえええさっ」

 俺は耐えきれずその場で二度目の嘔吐をした。胃液とともにサンドイッチも水も全て吐き出して、胃の中は空っぽだ。

「そんなの信じられるわけないだろうが!こっちはな、あの女の絶対死ぬって言葉を信じてこんな訳のわからないとこまで来たんだよ。お前たちを信じて上司に盾突きまくってたんだぞ。それなのにいつまでも死なないから、とうとう会社クビになったじゃねえか。ふざけんなよ。責任取れるのかよおい!」

 蹲っている俺に、別な男が罵声を浴びせてくる。確かこいつは、自身も病に侵されて休職と復職を繰り返し、生産性の無さから会社から疎まれている男だ。会ってすぐに俺を神だと崇め、涙と涎の混ざった顔で祈りを捧げた男だ。何だ。何なんだこいつらは。全身に広がった熱は収まることを知らず、ますます熱を帯びていく。

 自分勝手な都合で金も払わずに頼む時だけ泣きついて、挙句死ななかったから責任を取れ?

「…けるな」

 浅原の絞り出した声に男達が動きを止める。熱さは遂に脳に達し、俺の思考は真っ赤に染まっていった。

「ふざけるなよ」

 もう一度、今度ははっきりと口に出す。浅原の声は小さくても低くよく響いた。

昨日までの俺は、あの女に言われるがままに機械的に言葉を発してきた。

 頭が上手く働かなかったのもあるし、あの女が連れてきた見ず知らずの他人の恨みなんて、至極どうでも良かったのもある。ベルトコンベアーに載せられた不幸な信者達は、俺という抜け殻が上から落とすだけの「死」と合わさって出荷されていた訳だ。そんな量産された言葉なんて不良品に決まってる。

 なあ、自分。お前はあの女に何て言った?雨の中ずぶ濡れの路上で、暗く狭い路地裏で、駅のホームの喧騒の中で。何処に逃げても現れるあの女を前に、お前は何て言ったのか思い返してみろよ。

 施設に来てからの俺は、あの女に言われるがまま、何の疑問も持たずに従ってきた。言葉にのみ力を込める?違うだろ。あの時のお前は何を考えていた?…そうだ。本気で、目の前の、相手に。 

 文字通り全身全霊、体から溢れ出す感情を。

 ぶつけるんだよ。

「お前ら全員、死んでしまえ」

感情の揺らぎが施設内の空気をも震わせ、浅原を取り囲む者たちの脳を激しく揺さぶった。男達は浅原の声の迫力にたじろぎ、恐る恐る顔を見合わせる。それから彼らは拝み屋という存在を急に思い出したかのように、はっきりと恐怖に顔を歪めながら一目散に逃げ帰っていった。その場に一人取り残された浅原の周りには、暫くの間 不穏な空気が渦巻いていた。


次の日は朝から俺を詐欺師呼ばわりする信者が次々と現れ、その度に俺は激しく追い返した。誰かが吹聴しているのか、糸を引いている奴がいるのか、とにかくそういう輩が昨日から堰を切ったように増加した。もう食べ物もなくなり、既にこの施設を出ることを決めてはいたが、信者達の対応に非常に多くのエネルギーを割かれていた。施設を出る前にあの女の痕跡や秘密を探ろうと、もう一度施設内を隈なく調べたのだが、新たな手掛かりはとうとう発見できなかった。それどころか、持ち込んだであろう自分の所持品や衣服すら見つからなかった。

 その日の夕方、一人で乗り込んで来た老婆を追い返すと、俺はすぐにその後を追った。この施設が本当に樹海の奥深くに位置するならば、これほどまでに人が入れ替わり立ち替わり来るはずがない。まして杖をついた老人なら尚更だ。

 ー念のためお伝えしておきますが、ここは深い森の中にあります。

 施設に連れてこられてすぐにそう聞かされ、実際に森の中を歩き回らされた事で、俺はすっかり信じ込んでしまった。あの女が心理的に仕掛けた罠に、俺はまんまとハマってしまった訳だ。

 老婆は浅原が施設に辿り着いた道と違い、施設の裏手から帰っていった。裏手は背の高い草が生い茂る緩やかな坂になっていたが、ある部分の草だけが踏み倒されて道になっている。どいつもこいつもこんな所からわざわざ登って来たのだろうか。

 老婆が見えなくなった後、俺も例に倣ってその道を降りていった。踏み倒されたと言えども、道無き道だ。左右から飛び出る鋭利な草は、袖や裾の隙間に容赦なく入り込んで俺の肌を削る。

 やっとの思いで薮を抜けると、身体中切り傷だらけになっていた。

 そこは峠へと続く県道の終わりで、正面には辺り一面田んぼが広がり、民家どころか電柱や街灯すら疎らだった。どうやら俺はかなり町の外れまで連れて行かれたらしい。迷宮然とした樹海に見えていた場所は、ふたを開けてみればなんて事ない町外れの山の中だった。

 あの女には色々言いたいところだったが、今日はとにかくもう疲れた。考えるのは明日にして、ひとまず家に帰ろう。

 ここから最寄り駅まではどれだけ歩けばいいのだろうか。浅原は蛙の大合唱を聴きながらふらふらと暗い夜道を歩いて行った。

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