旧友の話②–1 再会

俺が仕事をクビになってから早いものでもう1週間が経った。俺はというと相変わらず、次の仕事も今後の予定も立っていない。

 転職サイトに登録だけはしたのだが、条件やら職種やら色々考えすぎて中々その先に進んでいかないのだ。営業経験はあるが得意でもないし、いっそ全く違う職種に応募するのもいいのかもしれないな。

 元々趣味らしい趣味もないので、仕事をしていないと時間が余って仕方がない。このまま部屋に引きこもるともう一生戻ってこれない気がして、俺は毎日かつての出勤時間に合わせてスーツを着て散歩に出かけている。

 別に会社に未練があるわけじゃない。そんなものはあの日黒い女と遭遇したことで全て吹き飛んだ。未練はないのだが、他に散歩する道も知らないので、結局会社までの通勤路を散歩道にしている。会社に着くまでには、毎朝大体同じ顔ぶれとすれ違う。すれ違った相手の中では、俺は今でもあの会社の社員であり、今日も変わらない日常を過ごしていると思うのだろう。

俺のアパートは緩やかな坂の途中にある。最寄り駅から大体徒歩10分だが、坂の上は閑静な住宅街で都会の喧騒から逃れることに成功している。坂は峠のように緩く曲がりくねっており、道路の両端には青々とした立派な杉の木が等間隔に植えられていて、散歩していて気持ちのいい場所だ。 

 坂の途中の開けた場所には屋内テニスコートがあるが、いつも早朝と夜遅くにしか眼にすることがなく、コートの中は常に静寂に包まれていた。無職になって初めて日中に通りがかると、テニスボールの抜けるような打球音や選手同士の掛け声が辺りに響いていて、何だか学生時代の青春の日々を思い出して懐かしくなった。

 今までは仕事と家を往復するだけの人生だったが、仕事から離れると身近な所にも色々と気づきがあるものだ。

 電車を降りると大通りに面したオフィス街を目掛け、同じ顔をした通勤者の行進が始まる。かつては俺も会社を妄信する巡礼者だったが、いざその呪縛から解き放たれると、少しだけ世界が違ってみえるから不思議だ。

 このまま会社の近くまで行ってしまうと流石に見知った顔も多く不審者扱いされてしまうので、大通りを外れて細い路地に入り、一回りしてから帰ることにしている。もしかしたらかつての同僚に顔を見られているかも知れないが、裏で何を言われようとそんな事は俺にはもう関係ない。

 路地は建物の影になっていて、朝でも薄暗くてじめじめしている。夜でなくとも何か出そうな雰囲気があるが、こんな路地一つで気が滅入っていてはこの先生きてはいけない。俺はリストラから立ち直るために、敢えてこの路を進んでいるのだ。

「あの…」

「…っ!」

 不意に後ろから声を掛けられ、俺は思わず飛び上がりそうになった。こんな辺鄙な場所にまさか人がいるとは。俺は羞恥心を押し殺して振り返ると、その顔を見て俺は背筋が凍りつく。こいつ、あの時の黒い女じゃないか!俺は開いた口が塞がらなかった。

 あの時は全身ずぶ濡れで死んだような顔をしていたのに、今は白いワンピースに幅広いつば付きの麦わら帽子を被っていて、おまけに化粧までしっかりしている。こうしてじっくり見ると、たぬき顔というのか、この女も世間一般では可愛い部類に入るのだろう。少し垂れた目とアーチ型の眉に、低めの丸みを帯びた鼻とふっくらした唇。全体的な輪郭も丸っこくて、顔だけ見ればどこか人懐こい印象を受ける。

 それでも溢れ出す負のオーラというのか、挙動に違和感があって、どこか普通の人間とは違うと強く感じさせるのだった。やはりこの女を形容するのに人に紛れたヒトもどきはピッタリな気がする。

「あの、私、ずっと貴方に、お礼が言いたくて…。あの時、あなたが死ねばいいと言ってくれたお陰で、次の日あの男は本当に死んでくれましたっ。くくっ。雨の夜にバイクで。くふうっ。派手に転倒して、そこを後続のトラックに轢かれて…。あはぁ。何台も何台も何台も何台も。ぐちゃぐちゃで原型を留めていなかったみたいです。あぁ…いい気味ですねぇ」

 女は早口で捲し立てた後に、俺に向かって飛び切りの笑顔を見せた。女の顔は不自然なほど歪み、人の仮面が剥がれ落ちていく。ああ、この女は駄目だ。見た目は普通の人間でも、中身は何か別なものに違いない。

「それは良かった。急いでいるのでこれで」

 俺は今すぐ女から離れたくて、強引に話を切り上げる。これから新たな道に踏み出そうというのに、何度も変な女に付き纏われたら堪ったものではない。とはいえ、あの女と出会ってしまった暗い路地を散歩道に選んだ俺にも責任はあるだろう。これからはもう二度とこの道は使うまい。

 だが、女は俺の手を掴んで頑なに離そうとしなかった。

「貴方は私が見込んだ通りの方でした。実は今、私の友達も困ってるんです。職場で先輩の陰湿ないびりにあっているみたいで…。厚かましいお願いなのはわかっています。でも、でもまた、私のことを助けて貰えませんか…?」

「前も言ったが、俺は霊感なんて全くないし、只のしがないサラリーマンだ。男が死んだのだって、只の偶然だろ」

 それも今は元サラリーマンの無職の男に格下げだしな。

「嘘をついても無駄ですよ!私にはわかるんですっ。それに、タダでとは言いません。これ、その子から預かってきました。これはほんの気持ちです」

 そういうや否や女はポケットから無造作に一万円札を取り出すと、俺にグイグイと押し付けてくる。今の俺にとって一万円はかなり大金だが、この女と関わりを持つと、待っているのは破滅する未来しかない。

「金なんていらないから、早く退けてくれ。これ以上付き纏うようなら警察呼ぶぞ」   

 俺の考えうる最大限の脅しにも動じることなく、女はあの時のように何度も俺に食い下がってくる。本当に面倒くさい。ようやくリストラされたことへの気持ちの整理がついてきたと言うのに。

「はぁ、わかった、もういい。そこまで言うなら祈ってやる。あんたが気の済むようにな」

 霊感なんてこれっぽっちもないし、信心深くもないから祈りの作法も全然知らない。そんな俺にこの女は一体何を望んでるんだ?

 会社への恨み、自分への怒り、未来への不安、過ぎゆく時間への恐怖、明日への僅かばかりの希望、そしてそれを邪魔する女への不快感。抑えきれない感情が次々に体から染み出して、目の前で混ぜ合わさってどす黒い一つの塊になる。

「…死んでしまえ」

漏れ出た言葉が誰に対するものなのか俺にはもうわからない。不甲斐ない自分?薄情な会社?はたまた目の前の不快な女に対してか。俺の言葉と共にその塊が女に向かって飛んでいく。女は俺の言葉を待ってましたとばかりに眼を輝かせて何かを言おうとしたが、俺はそれを遮って路地を後にする。もう1秒足りともあの女と同じ空間に居たくない。女の方も満足したのか、もう追ってはこなかった。

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