旧友の話③-2 施設
中に入ると浅原の想像通り、そこは市民会館のような造りだった。入り口に背丈程もある木製の下駄箱が両側に置かれていて、その中には既に30足程の靴が入れられていた。浅原もそれに習って泥だらけの靴と靴下を脱ぎ捨ててスリッパに履き替える。
建物内は意外に暖かかったが、樹海の中に建てられているせいか全体的にカビ臭くじめじめしていて、立っているだけで背中を汗が伝った。これだけ靴があるにも関わらず、建物内は静まり返っている。一階の廊下には誰もおらず、切れかかった蛍光灯が虚しく明滅を繰り返しているだけだった。大声であの女を探すのも気が引けるので、浅原は仕方なく建物内を見て回ることにした。
一階では床一面にブルーシートの敷かれた20畳程の大きなホールが目を引いた。扉につけられた覗き窓から中の様子を伺うと、ホールの壁や天井に何やら経文のようなものがびっしりと記されている。目を凝らすと、それは荒いタッチで書き殴られた平仮名の「ね」の文字だった。何の意味があるのかは不明だが、これだけの量の文字からは執念のようなものが感じられた。
天井の中央部分には白い幕が貼り付けられていて、そこには左手首の絵がシンボリックに描かれている。手首は親指だけが折り曲げられ、残る四本の指の間は隙間なく閉じられている。それをどこかで見た気がするが、浅原はどうにも思い出せなかった。
一階には10畳ほどの和室もあったのだが、そこにも人影はなく、ただ畳の真ん中に腕が突き刺さっているだけだった。手首から先はホールで見たものと同じ形をしているが、4本の指にはそれぞれ蝋燭が刺されていた。
窓は木の板で覆われ部屋の電気は消えている。浅原が一歩踏み出す度に、その動きに合わせて炎と影が怪しく揺らめいている。暗闇に浮かび上がるその白い腕を、浅原は愛おしいまでに美しいと思った。
一階にはそのほかにトイレ、給湯室、更衣室、シャワー室があったが、その何処にも人はおらず、ただそこかしこにカビ臭さが残っているだけだった。シャワー室の横には自動販売機があり、他と比べてそこだけやけに明るかった。自動販売機に近づくにつれて、コンプレッサーのモーター音が騒音のように大きくなった。一体こんな山奥でどこから電気を引いているのだろう。中にある飲料はどれも売り切れを示す赤いランプで埋め尽くされている。
ここは一体何の施設なんだろうか。
一階を一通り見て回った後、浅原はそのまま2階へ上がる。静まり返った施設内では、階段を登る音がよく響く。
2階にはまずエントランスがあり、丸テーブルと椅子、それにいくつかのソファが置かれている。だがそこにも誰もいない。
これだけ充実しているのなら、かつてはこの場所も地元住民が集まる憩いの場だったのかもしれない。
壁にあった施設の見取り図を見ると、2階には主に大、中、小の会議室があるようだった。小会議室の扉が少し空いており、そこから僅かに明かりが漏れ出ている。隙間から覗いてみると、蝋燭に揺らめく妖婉な白い腕を取り囲むように、白い服を着た者達が壁や床に一心不乱に「ね」の文字を書き殴っている。
目の前の行為に何の意味があるかはわからないが、とにかく皆作業に没頭しているようだ。
声をかけない方が良いだろう。そう感じた浅原は気付かれないようにそっと扉を閉めた。
中会議室では十人程の白装束姿の者達が、文字通り、ただただ立っていた。皆、等間隔に開いて屹立している。
こちらに背を向けているためそれぞれの表情は伺えない。何をしているのかさっぱりわからないが、浅原は自分の中でメッカの方角に拝むようなものだろうと解釈した。これまでに見てきた光景からは、何らかの宗教施設であることが窺えた。
大会議室にはさらに多くの者達がいた。みな正座していて、ラジカセのような物にヘッドフォンを繋ぎ黙って何かを聴いているようだ。
「こんにちは、拝み屋さん」
ぼんやりと白い者達を見ていると、不意に後ろから声をかけられた。振り返るとそこに白いワンピースを着たあの女が立っていたのだが、薄暗い蛍光灯に照らされて白く艶やかな肌に影がさす様はまるで儚げな聖女のようで、浅原は思わず見惚れてしまう。
以前あの女に抱いていた違和感とは一体何だっただろう。彼女はこんなにも美しく、敬虔な信徒だというのに。
「ここはいかがですか、拝み屋さん。中々いい場所でしょう。沢山歩いて疲れましたか?はい、お水を飲んで下さい」
浅原は彼女から受け取った水を一気に飲み干した。ああ、乾いた喉に水が染み渡る。俺は緊張の糸が切れたのか、その場にへたり込んだ。一息つくと、今までの疲れがどっときて睡魔が襲ってくる。
「あなたには今日からここに住んでもらいます。あなたは私の知り合いを沢山救って頂きました。でも、それだけじゃ勿体ないですよ。その力はもっと救いを求める人に開かれるべきです」
救い…。拝み屋…。ここに住む…?そんなの俺に務まるはずがない。浅原は降りてくる瞼を必死に持ち上げる。
「念のためお伝えしておきますが、ここは深い森の中にあります。勝手に出歩いたら迷って戻ってこれなくなると思うので、気をつけて下さい」
彼女の声は宣教のように心地よく脳みそに響いてくる。確かにここは携帯も圏外で、その他の連絡手段もない。闇雲に歩き回っても遭難するだけだ。彼女の言うとおりにした方が得策だろう。
次に瞼を開けると、目の前の聖女が2人に増えていた。
「今日はもう休んで下さい。明日からは悩める人々を救って貰いますから。それじゃあ、おやすみなさい」
双子の聖女の声が左右からスピーカーのように反響して聞こえてくる。
俺が人々を救う?俺はただの会社員で、少し…。そう、少し休んでいて…。あの女は…普通じゃない。俺のストーカーで、聖女なんかじゃ…。そうだ、あの時連れ去られて…。連れ去られた?何処に?誰が?駄目だ、眠くてもう何も考えられない。浅原の思考を眠気と女の声が遮断する。俺の意思に反し、まぶたはどんどん下がってくる。眠りに落ちる瞬間に浅原の脳裏に浮かんだのは、あの細くて白い腕だった。
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