旧友の話① 邂逅
雨が降っている。建物に激しく打ち付けられる雨音は、目を瞑れば夜空に次々と打ち上がる花火のようだった。道行く人々は思い思いに色とりどりの傘を差し、ミュージカルのワンシーンのように大通りを足早に行き交っていた。雨粒はアスファルトに落ちて勢いよく跳ね返り、傘を差しても足元が濡れてしまう。
だから皆、こんなにも帰路を急いでいるのだろう。こうして立ち尽くしている俺も勿論濡れている。上も下も、全身余すことなく濡れている。傘は持っているが指すつもりはなかった。今はただただ雨を全身で感じていたいから。
靴に溜まった雨水は、少し歩くだけでぎゅりぎゅりと嫌な音を立てた。長い時間水に浸かったせいで足の皮が白くふやけて、俺は今どうしようもない程の痛痒に襲われている。それに加えて濡れてたっぷりと水を吸ったスーツが肌に纏わりついてきてとても不快だった。
だが、それらの感情は俺が今生きている証拠でもある。例え社会的に死んでいるとしても、俺は間違いなくこの世界、この大地にこうして自分の意思で立っている。
遡ること数時間前、俺は突然会社をリストラされた。地方ではあるが、大学卒業後に入社した今の会社は、業界ではそれなり大きな部類に入るだろう。
社員の不祥事に端を発した急激な業績悪化により、会社は人員削減を余儀なくされていたのは知っていたが、まさか自分がその対象になるとは夢にも思っていなかった。勤めてから5年、そろそろ中堅に差しかかり、これからという気持ちでいたところだった。
外勤から戻って来ると、自席に人事部から呼ばれている旨の付箋が貼られていて、出向いたその場で部長から早期退職を勧められたのだ。表向きはあくまで早期退職で、僅かばかりの退職金も支給されたのだが、こんなものはていのいいリストラだ。
当然俺には断る権利などなく、もちろん次の就職先だって決まっていなかった。色々とやり方がグレーな上に、過重労働で社員を使い潰すような会社だったが、それでも俺自身はやり甲斐を感じていた。確かに営業成績はそこまで振るわなかったが、中堅社員が何人も辞めていく中で残された後輩社員のフォローをしたりとそれなりに会社に貢献してきた自負もあっただけに、リストラされたという事実は相当に堪えるのだった。
もちろん会社を訴えるという選択肢もあるのだろうが、はっきり言ってそんな気力は微塵も湧いてこない。今はただ、降りしきる雨がこれまでの俺の努力と歳月を洗い流すのを黙って見つめることしか出来なかった。
時折脳裏に今後の漫然とした不安が顔を出し、その度に俺の体は深海のように重苦しい圧迫感を感じたのだが、すぐにまた何もかもどうでも良くなって一転無重力の月面を闊歩した。皮肉なことに、全てを会社に捧げた分、貯金で当面生活が困ることはない。今は頭に靄がかかったように、先のことなんて何も考えられなかった。
今の俺はただ駅の方向に足を動かすだけの操り人形と同じだ。それも不慣れな人形奏者がやっとの思いで操っているような出来損ないの。張り付いたスーツが辛うじて俺をこの世に繋ぎとめているというのもまた皮肉なものだ。
そんな俺を人々はあからさまに避けて行った。当たり前だ。着崩したスーツ姿で大通りを徘徊する全身ずぶ濡れの男なんて、普段の俺なら間違いなく眉を顰めてわざとらしく避ける人種だろう。大通りの真ん中を歩く俺を傘を差した人々が一様に避けていく光景は、側から見ればまるで新たな指導者の誕生のように映っただろう。最も、俺の場合は人の海を抜けても待っているのは暗い谷底でしかないのだが。
ふと、体を引きずる俺の視線がとある路地に釘付けになった。表通りに面した飲食店街から一本外れたその路地からは、夜の開店に向けて各店舗からボイラーの煙が忙しなく立ち昇っている。煌びやかに見えるこの街も、大通りを少し外れるだけで残飯や小動物の糞尿が散乱する陰鬱な場所に様変わりする。
かつての俺なら見向きもしなかったその暗がりが、今の俺の姿を嘲笑っていた。路地の奥に置かれた業務用の大きなゴミ箱の端で、風が吹くたびに黒い何かが蠢いた。その不規則な動きを目で追っていると、段々自分という存在が根本から揺らいでいくような感覚に陥っていく。
俺は大通りを外れ、黒い何かに引き寄せられるように路地の前まで足を運んでいた。雨は止むどころか益々その勢いを増し、行き交う人々は自分が濡れないようにするのが精一杯で、俺を避けることすらしなくなった。人の列から外れると、途端に俺は世間からも弾き出されてしまった。
路地の前に立つと、ポリバケツを叩く雨音が随分と騒がしかった。路地の奥に目を凝らすと、蠢いているのは幽霊でも怪異でもなく、ただの黒いワンピースを着た人間の女だった。俺と同じようにゴミ袋が何かだとおもっているのか、この雨でそもそもそんな余裕はないのか。周りの人間は足を止めることなく俺と女を置き去りにして行った。だが、それを薄情だとは思わない。例え晴れていたとしても、恐らく声をかけるものはいないだろう。道に迷った老婆ならまだしも、尋常で無い様子の人間に変に関わって無用なトラブルに巻き込まれるのは誰しも避けたいところだろう。
俺だってそうだ。今の俺は社会的に死んだも同然だが、まだ心までは死んでいない…と思う。さっきまで死にかけていたのは事実だが、雨と生ゴミと吐瀉物に塗れた路地で蹲っている女を前にすると、俺はまだまだやり直せるという感情が沸々と湧いてくるのだった。
言わば大通りは此岸で、あの路地は彼岸だ。俺はまだ辛うじてこちら側で、まだその線を踏み越えるわけにはいかない。目の前の女にしても、いずれは道行くお節介な人の電話か何かで最終的に警察に保護されるだろう。三途の川の渡し船に足がかかっていた俺は、すんでのところて踵を返すと彼岸に永遠に別れを告げた。彼岸の先から視線を感じた気がしたが、決して振り返ることはしなかった。
大通りに戻ると雨足が少し弱まってきて、行き交う人々の波が穏やかになった。煩わしい雨音から解放された俺は、しばらく心地よい喧騒に身を委ねながら波打ち際をゆったりと歩いていた。
「見つけた…。ようやく見つけたっ!」
不意に後ろから縋るような声が聞こえてきて、水を掻き分けながら足音が近づいてくる。一瞬風に揺れる黒いゴミ袋が頭に浮かんだが、すぐに意識の波に攫われて行った。
「あぁ、これも運命なんですね…」
「すみません、こんな…」
「あの、あの…」
そろそろ戻らなくてはならないというのに、後ろから幾度となく聞こえる声が俺の歩みを妨げた。状況からみて間違いなくさっきの蹲った黒い女だろう。変な関わり合いを持つといつまた彼岸に引き摺り込まれるか分からない。俺が頑なに声を無視していると、痺れを切らしたのか突然後ろから右腕を掴まれて、強制的に振り向かされてしまった。
案の定、目の前にいたのはあの女だった。病気と見紛う程に青白い肌のあちこちに黒くて長い髪を張り付かせ、隙間から見える眼は真っ赤に血走っている。
「話を…きっ、聞いて下さい…。お願い、します。悪い男に騙されて、おっ、お金も、しっ仕事もっ、全てを…失いました。それなのに…。それだけじゃ飽き足らず、今も男は私を脅迫してくるんです。助けて…。助けて下さいっ…!」
女は絞り出すようにそう言うと、俺に倒れ込むようにしがみついてきた。
大通りのど真ん中で、ずぶ濡れの男女が傘もささずに抱き合っている姿は、そこだけ切り取ればまるで恋愛映画の感動的なワンシーンのようだった。
今日は一体何なんだ。何で俺だけこんな目に遭わないといけない?俺の不幸の受け皿は、リストラだけでとうに溢れているというのに、頭のおかしい女にまで付き纏われて…。
俺は絡みついた女の手を強引に振りほどくと、その場から急いで立ち去ろうとした。だが、それでも女は諦めず、今度は俺の前に回り込んで両手を広げるようにして行く手を塞いでくる。止まない雨がそうさせるのか、女の目から化粧と一緒に黒い涙が止めどなく流れている。
俺は女の鬼気迫る様子に一瞬たじろいでしまった。もし対応を誤ると、自分に危害が及ぶかもしれない。本気でそう思わせるほどの執念を女から感じ取った俺は、観念して女に話しかけた。
「はぁ…。俺に言われても困る。そもそも何で俺なんだ」
周りから見れば、俺もこの女も等しく落伍者に映るだろう。はたまた迷惑カップルの痴話喧嘩か。自分の明日ですら不透明なのに、そんな俺に見ず知らずの他人を助ける余裕なんてあるわけがない。
「だって…。あなたは、拝み屋ですよね…?いえ、わ、私にもわかります。私も、少しは…そ、そういう力があるので…。ねえ、お願いだから助けて下さいっ…」
女は話しながらずいっと音もなく前に出た。目の前の女が真剣なのは伝わってくるが、流石に意味がわからない。俺が拝み屋だって?確かに霊の存在は否定しないが、生まれてこの方そんなもの見たことがないし、不思議な体験をしたこともない。この女、自暴自棄になって頭がおかしくなっているんじゃないか?いや、この尋常で無い目付きを見る限り、薬でもやっているのかもしれない。何れにせよ、こんな女に付き合うだけ無駄なことがはっきりとわかった。
「勘違いも甚だしい。俺は拝み屋じゃないし、霊なんて見たこともない。迷惑だから早く何処かへ行ってくれ」
俺はそう言って立ち塞がる女を軽く押しのけた。手のひらで触れた女の肌は死体のように固く冷たくて不快だった。
「ど、どうして嘘を吐くんですかっ!お願いします。もうあなたしかいないんです。あの男を何とかして下さい!でないと…。でないと私、もう、死ぬしか…」
こんなか細い体のどこにそれ程までの力があるのか、女は軽く押したくらいでは地面に足が張り付いたように微動だにしなかった。
「それなら死ねばいい」
俺はそう吐き捨てると、なりふり構わず強引に女を押し退けた。その際に予想以上に力が入って半ば突き飛ばしたような形になり、女は反動で濡れたアスファルトに尻餅をついてしまう。手荒な真似をしたというのに、女はまだ何かを期待するようにこちらを見つめていた。
ああ、そうか。女から感じていた不安とも厭悪とも違うこの感情の正体がようやくわかった。目の前の女は路地の先を漂うあの暗闇と同じなんだ。そういう類の人間は得てして生者からエネルギーを奪ってあわよくば人間に成り代わろうとする。俺はまだそっち側に行くわけにはいかない。例え職を失ったとしても、心まで失う訳にはいかないのだ。俺は改めて心にそう誓うと女を無視して今度こそ此岸を歩き出す。雨はようやくその勢いを失って、分厚い雲の切れ間から僅かに光が差し込んでいる。少ししてから振り返ると女はもう人の波に呑まれて見えなくなっていたが、決意して歩き出したはずの俺の背中には、濡れたスーツと誰かの視線がいつまでもべったりと張り付いていた。
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