血水晶

 若い公爵は不意の重みに睡りを妨げられ、暗闇に目を見開くと月光に短刀が閃めいた。

 公爵はその細腕を容易く捉え、身体に馬乗りになっていた相手と体勢を逆転させる。先月から小姓仕えをしていた少年だった。

 「父ぎみへの復讐をするつもりなら、もう少し身体を鍛えておくべきだったな。食事なら充分に与えていたはずだろう、」

 少年は短刀をとり落してなおも公爵に殴りかかろうと暴れていたが、やがて大人しくなった。

 漆黒の髪の、際立って美しい少年だった。先月公爵が花街に行ったさい、道端で客引きしているのを偶然見かけ、居た堪れなくなって小姓として引きとったのだ。彼は偽名を名乗っていたが、夜道で、しかも薄汚れてはいたものの、その花の顔容かんばせを見紛うはずがなかった。

 「……俺が誰か判っていたのか。」

 「亡くなった子爵殿のご子息だ。」

 「ああ、借金まみれで死んだ無様な子爵の、それも妾腹のな。」

 「そんなに自嘲することはない。あと残念ながら、私を恨むのはお門違いだ。子爵殿に投資の話をしたのは私だが、実際に悪い商人の如何わしい儲け話に乗ってしまったのは彼自身だからね。その商人の悪い噂は聞いていたから、私は子爵に忠告したくらいだ。」

 「貴様や、貴様の仲間がもっと強く父を止めていてくれたらこんなことにはならなかった、」少年は吐き棄てるように云った。「でも貴様を殺したかったのは復讐のつもりじゃない。ただ父母の形見をとり返したかっただけだ――盗人め。」

 その事件のあと子爵は倒れ、心労から夫人や妾まで次々と亡くなった。子爵の邸宅にあった美術品や宝石の多くは競売にかけられ、実際にいま公爵の居城にもその一部が流れていた。

 「私が買い取ったものは(がらくたばかり、と云いかけて公爵は一度口を噤んだ)……大して貴重そうなものはなかったがね。私をもう襲わないと約束してくれるなら、見せてあげよう。そのなかに欲しいものがあれば云うがいい。」

 「本当か、」少年の目つきが変わった。「そのなかに、水晶のブローチはなかったか。」

 公爵は首を捻った。「さあ……、とにかく行ってみようか。」

 公爵は少年を連れ(突然暴れたりされないように、しっかりと肩を抱いて)、廊下へ出た。そのとき買い取った未整理の品々が置かれたへやまで連れていく。その室の燈りを点すと、少年は四辺あたりを見渡して紅い脣を噛みしめた。公爵からすれば価値があるとも思えない品の山だが、少年にとっては懐かしいものばかりなのだろう。少年は室の中へ踏み出し、卓子テーブルや棚に所狭しと並べられた品々を眺め、梱包が解かれていない箱を開けていった。比較的価値が高そうな工芸品や貴石には眼もくれなかった。

 「あっ。」

 いま梱包を解いた箱から少年が取り出したものこそ、水晶のブローチだった。氷のように澄みきった中央の大きな石の周りに、さらに小さな水晶がちりばめられている。美しいが、しかし特別高価なものとは思われない。

 少年はそれを大切そうに胸許に引き寄せると、笑い声をあげた。よほど嬉しいのだろうか、と訝って公爵が見ると、その顔には恍惚さえ浮かんでいる。少年の哄笑は止まらない。

 「なにがそんなに可笑しい、」

 伯爵は苛々と云ったあと、息を呑んだ。少年の胸許から血が流れていたのだ。

 「これは水晶が流している血です。ご心配なく。」少年は嫣然にっこりとほほんだ。「私の母の家系は古い。あなたの家系よりも、この街よりも。そのあいだに多くの血を吸ってきた……。」

 「まさか、」

 公爵が後退あとずさったときには手遅れで、少年が掲げた水晶が澄んだかがやきを放ったとたん吐血した。

 古い言い伝えがあった。呪われた血吸いの水晶。恐ろしい不幸と屈辱に見舞われた者がその石を手にすると、思うがままに人を殺し復讐を果たせるという。それは子ども騙しのおとぎ話か、魔女が広めた迷信とも云われていたはずだった。

 少年は水晶を掲げたまま城中を往き、城中の者を殺し血の海にした。

 それから街へ降りると、街中の者たちを。父を陥れた者たちを。零落した子爵家を助けもせず傍観した者たちを。花街で少年を搾取し犯した者たちを。そして最后に、彼の邸にいま我が物顔で居坐っている者たちを。水晶を振り翳すだけで、皆次々と血を吐き心臓を破裂させ死んでいった。

 血に染まった街はしんとして、清らかな月光の下で凄惨な光景を露わにしている。

 少年はようやくかつての自分の室に辿り着いた。寝台ベッドは以前のままだ。

 殺したぶんだけ、水晶はどくどくと鮮血を流している。少年は血に染まった手でそれを掲げ、陶然うっとりと眺めた。水晶が流した血で寝台は見る見るうちに紅く染まっていく。

 「さあ、最后は俺だ。」

 少年が水晶を己の心臓の上に押し当てた刹那、扉が開き、よろめきながら公爵が入ってきた。少年が最后にはここに来るだろうと先回りしていたのだ。少年が目を丸くしていると、公爵は渾身の力でその手から水晶を叩き落した。

 公爵はまたいくらか小さく血を吐き、寝台の傍にくずおれた。だが命に別状はない容子だ。

 「どうして――」

 「私はおまえを助けたかったのに、なんということをしてくれた。」

 公爵は苦しげに再び立ち上がると、寝台の少年の上に乗り、ほそい頸に手をかけた。

 「おまえは、私の家族を、城の者たちを皆殺しにした。何の罪もない者たちを。」だが、その手にそれ以上力が籠められることはなかった。「それなのに、私にはおまえを殺せない――おまえを愛しているからだ。」

 公爵は少年から離れると、その隣にどさりと身を横たえた。

 「……生憎だが、俺はあんたを愛していない。」

 「知っている。」

 「なぜあんたは死んでいないんだ。」

 「解らん。だが私の母方のさらに母方の家系は、遠く魔女の血を引いていると云われていたのだよ。そのせいで呪いには耐性があるのかもしれん。だがこのぶんだといつまで持つかは判らない。

 ……とはいえ、いまはもう寝よう。おまえもひとまず睡るといい。これからどうするかは――それまで私が生きていればだが――明日になってから考えよう。」

 「……ああ。そうだな。」

 この男にとどめをさすかどうかは明日考えればいい。そう思って、血に酔っていた少年は瞼を閉じた。疾うに疲労で動けなくなっていたのだ。

 二人は夥しい血が浸みた寝台の上で昏々と睡った。やがて室に曙光が差しこむと、それが床に落ちている水晶に当たった。水晶は吸った血の跡形もなく、ただ氷のように浄く静かに煌いた。



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