星と舟と
果てしなく広がる水の上を、わたしは小さな舟を漕いで進んでいく。
四方のすべてに水平線が見える。遙か彼方まで、島影もほかの舟もなに一つ見当たらない。
この世界は永遠に薄明だ。
陽も月もない
*
この世界ではほとんど疲労を覚えない。それでもときどき漕ぐ手を休めて、小舟のなかに横臥ることがある。そして眠る。眠りの世界で夢を視る。
色とりどりの蝶や花。牧草の広がる丘。昼間の澄んだ青い空と、羊のような白い雲。人々――ずいぶん長いあいだ、この現実では見たことのない――美しい人々、醜い人々。
人や人工物が現われると、夢の世界は暗く傾いていく。
爆弾、刃物、劇薬――自ら命を絶つための
醜いばかりの夢を視てしまったあるとき、わたしは飛び起きて、一瞬自分がどこにいるのか判らなかった。胸の動悸が治まるまで時間がかかる。そのあいだにゆっくりと、自分がすべきことを憶い出す。
心が静まると、わたしはふたたび櫂を取る。
*
あるとき、とても美しい夢を視た。しかしその記憶は目醒めたとたんに儚く消えてしまった。美しい夢に限ってあまり憶えていられない。わたしはそれが妙に哀しかった。
ふと
しかしわたしはそれ以上取り乱すことはなく、なにかを待った。間もなく、舳先の方向の遙か彼方に小さな白い影が見えた。それは水尾を曳いてぐんぐんこちらに近づいてきた。
それは白鳥だった。
白鳥はわたしのすぐ傍まで迫り、小さな黒い瞳でわたしを
――あなたはなんのために、ここでこうしているのか。
ことばはないが、その瞳は瞭らかにそう問うていた。
わたしは空の彼方を指さした。「あそこにあった明るい、白い星のほうを目指していたの。どういうわけか、今は見えないけれど。」
――星に向かって、どうするつもりでいたのか。
「自分の希みを見つけるため。この永遠の世界で指標を失なったら、自分が何者か判らなくなってしまうから。」
――その必要はない。あなたはもう、その指標を自分のなかに持っているから。だから、どこにでも進めばいい。
瞳でそう伝えると白鳥は向きを変え、不意に水面から翔び立った。そして遙かな高みまで翔ぶうちにその身体は白く光を放ち、やがてひときわ煌く星になった。……白鳥はあの星だったのだ。
「本当かな、」わたしは独り言ち、涙ぐんだ。「そんなもの、本当にわたしのなかにあるのかな。」
そして轟音で目を醒ました。
*
空襲だった。逃げ惑う人々のなかに混ざってわたしも焔のなかを駆けていく。家族も友人も恋人も失なったのに、なぜわたしはまだ生きていたいのだろうと思いながら防空壕へ飛びこんだ。
ちょうどわたしの隣に、痩せ細った幼い少女がいた。家族らしき連れはおらず、ただぼろぼろの人形を大事そうに抱えている。
「この子は友だちなの。」弱々しい声で少女はわたしに語った。「この子がいるから大丈夫だってお母さんが。眠るまえは楽しい平和な世界を想像して、この子と遊ぶところを考えたらいいって。そしたら、夢のなかではこの子は人形じゃなくて本物の人間で、いなくなったみんなにも逢えるってお母さんが――」
その声は爆音に遮られ、少女はわたしにしがみついた。防空壕にいる人は誰ひとり泣きも騒ぎもせず、ただ恐怖で硬直していた。
「無理にそんな想像をしなくてもいいかもしれないよ。」
外がいくらか静かになったとき、わたしは少女の背中を撫でながら云った。
「本当は、いなくなった人たちとはもう逢えないって、解っているでしょう。」
少女は暗い瞳で数度瞬いたあと、うなづいた。
「わたしは眠るまえにはいつも、独りで小さな舟を漕いでいるところを想像するようにしている。そうするとその夢を視るの。夢のなかでまた別の夢を視ることもある。舟を漕いでいる世界は水も空も澄んでいて、静かで、絶対に穢されることがない。そこでわたしは、いつもひときわ明るい星を目指して進んでいる。それはわたしの希望なの。誰かほかの人が
そう少女に語りながら、わたしは自分を信じてなどいなかった。しかし少女は静かな世界を空想することに納得したらしく、神妙な顔で眼を閉じると、やがてわたしに凭れて眠ってしまった。この子がうまく、本当の慰めになるような新たな第二世界を創造できればいいとわたしは思った。
外がすっかり静かになっても、ほとんどの人は外に出なかった。わたしにもその気力はなく、このまま防空壕で夜を過ごすことにした。
そうしてわたしはあの静かで完全に美しい夢の世界へ滑りこむ。
*
いっさいの
わたしはなにかに駆られるように櫂を取り、小舟を旋回させた。あの白い星と残照に背を向け、薄明の世界が闇夜に傾くほうへ必死で漕ぎはじめる。わたしは泣いていた。
舟を漕ぎ続けるうちに、後方の淡い光は消え、いつしか天穹は漆黒となった。薄明のなかでは気づくことのなかった夥しい星々が全天に冷たい煌きを放っている。この世界に初めて訪れた〈夜〉だ。
わたしは手を停め、
いちめんの星々が鏡のように水に映り、わたしは無限の宇宙に浮遊しているような感覚になる。わたしは疲れを覚え、舟底に横臥った。
星々の姿を憶えていようと開いていた瞼が重くなる。身体がゆっくりと泥に沈んでいくような眠りの感覚――きっとまた恐ろしい夢を視るだろう。それでもわたしはこの星々を忘れまい。希望はわたしのなかにあり、わたしのなかだけにあるのではない。かすかな光芒を放つ希望が本当はあちらの世界のいたるところにも隠れているのだと憶えていたい。そうしてわたしはまた世界と世界、夢と夢の狭間へ身を預けた。
次に目醒めた世界がわたしになにを見せようと、わたしの心はもう惑わないだろう。闇が深いほど星は煌くのだから……。
箱庭小説 菫野歌月 @violet_k
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