海辺にて


 黒い真珠のネックレス、黒いワンピースに、黒いストッキングと黒いパンプスを履いて、わたしは夕暮れの海浜公園を歩いていた。

 この場処に来るのは十年ぶりだったが、ほとんど変わっていない公園の容子を見、却って自分自身の変化と時の流れを凝縮して感じ茫然とする。潮の香りがなにかの記憶を強制的に呼び醒ます。生ぬるい春の風が意識をさらに攪乱し、わたしを異界へと誘なう。

 れわたったそらは一枚のスクリーンめいた奇妙なほどの滑らかさで黄金から灰緑、菫色への諧調グラデーションを映している。波音だけが際だって聴こえる透明で巨大な穹窿ドーム

 不意に、砂浜へ続く広い木製デッキの段に一つの小さな人影を認めた。

 セーラー服の少女がうずくまっている。

 どくん、と心臓が鳴り、恐怖に近いほどの切迫感が衝き上げた。わたしはどうしても彼女に声をかけなければならない気がした。そうしなければ彼女は淋しい海辺でたった一人、この巨大な静けさと宵闇に永遠に呑まれることになる――

 近づいてみるとやはり嗚咽していた。

 ――大丈夫ですか。

 少女は顔を上げはしなかったが、拒絶も示さない。わたしはそっと隣に腰を下ろした。

 ――友だちにひどいことを云ってしまったんです。

 ――どうしてこんなところに独りでいるの。

 ――待っていたんです。いつもならここでこうしていると来てくれることがあるから。でも、今回はもう来ないみたい。

 少女はうずくまったまま語りはじめた。卒業式のあと、親友が都会に行ってしまうまえに最後に遊びに行く約束をしていたこと。それが、瑣細なことから始まった大喧嘩で御破算になってしまったこと。

 ――小学生のころから一緒だったのに。大人しい子だったから、わたしがいつも引っぱってあげているつもりで本当はただ振り回していた。まるで忠誠心を試すみたいに意地悪することさえあった。束縛していた。彼女も自我のある一人の人間だって頭では理解しているはずなのに、どうして尊重してあげられなかったんだろう。わたしっていつもそう。やさしく、仲よくしてくれる人が現われたら、甘えて、その情に漬けこむような真似をしてしまう。本当はいつも淋しい。友だちと呼べる人はたくさんいるけどなぜかいつも空虚で。その空虚に本物の彩りを与えてくれるのは彼女だけだった。だから大切にしないといけなかったのに。彼女が都会に行ってしまうのが本当は厭だった。それを泣き喚いてでも、不様に縋りついてでも素直に伝えればまだましだった。それなのにわたしはひどいことを――あれから何年も経って、お人形を入れ替えるように色んな友だちや恋人と交際つきあったけど、いつも同じようなことで失敗してしまう。だから大人になったときにはもう友だちと呼べる人なんていなくなっていた。全部、自分が歪なせい。だからこれは、それを直せなかったことの報い。仕事にのめりこむことで空虚さを埋めようとして、自分の本当の問題から目を背け続けていたの。

 ――あのとき謝れていたら、許してもらえたら、未来がよくなったとは思わない。わたしたちはきっと傷つけあう関係を続けていたと思う。それでも、云わせてほしい――あなたにあんなこと云うつもりじゃなかった。本当に、本当にごめん。

 少女は泣き濡れた顔を上げ、まっすぐにわたしを見つめた。沈む瞬間の陽がその涙と頬に落ちかかる髪を金色に燦かせる。半ば夕闇に沈んだその美しい顔貌かおだちをわたしははっきりと認めた。

 ――真理子、

 陽が落ちるとともに少女は消えた。

 海はまだ遠く残照を映している。風が少しずつ冷え、少女が遺した最後のぬくもりを奪い去っていく。そう今は真理子の葬儀に出た帰りだった。高校卒業以来絶交していたわたしが行ってよいのか迷い、かつて女王のようだった真理子が過労死したとは信じられない思いで参列した葬儀の帰り。白と黒で彩られた空間に置かれた遺影はあまりに若く華やかで場違いだった。

 ――ああ、そうだったね。わたしたちはよく学校の帰りに二人でここに来て、海を見ながらいくらでも喋っていたね。喧嘩をしたときは帰りに誘い合うことはなくて、それでもここに来てみるとどちらかが先に待っている。そうして何度も仲直りをしたね。あの日、あなたに腹を立ててわたしはここに寄らなかったけれど、あなたは待っていたの。もしわたしが来ていたらなにか変わっていたのかな。それともあなたが云ったような悪い関係が続いただけだったのかな。

 あの日真理子に云われたこと――都会の大学に行きさえすればうまくやれるとでも思ってるの、わたしがいなかったらあなたはなにもできないじゃない。確かそのような、わたしが彼女から離れることへの淋しさに恨みと僻みを絡ませたことば。上京を決めたのはそもそも真理子と離れなければ、と思ったのが切っかけだった。彼女のことは好きだけれど、わたしたちはあまりに共依存的なのではないか。当時すでに気づいてしまっていたことがそのことばで裏打ちされて、わたしは絶交を決めてしまった。

 気弱で引っ込み思案な女の子と、ちょっぴり我儘で勝気な女の子。その幼い二人が手をとりあって始まった友情が、いつの間にどう掛け違いを繰り返してあんなことになってしまったのだろう。わたしたちはどこで間違えたのだろう。

 真理子から離れはしたものの、その後も似たような魅力的だが支配的な友人や恋人とばかり交際つきあっては破局していたのはわたしも同じだ。わたしたちはあれから、互いの呪縛から逃れられずにいたというのか。

 世界はどんどんくらくなり、紺碧に星が散ってもわたしはまだそこに坐りこんでいた。葬儀で一滴も出なかった涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 ――許さない。許したら、忘れてしまうから。あなたの弱さを、本当の姿を憶えていたいから。

 もう決して届かないことばは風に乗って海へ落ち、波に呑まれ、深く暗い水底へと沈んでいった。



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