貴婦人の標本室


 森の奥に貴婦人の城はあった。遠目には華奢にも見えるその城は数多の尖塔を備え、天へ向かって細く長く伸び上がる銀細工のような姿を鏡のごとく湖にも映していた。

 その尖塔の一つにある小さなへやで、一人の村娘が円卓テーブルに着いている。黄金色の髪と空色の瞳に、雀斑そばかすのあるひどく美しい娘。だが今はやつれはて、かつて薔薇いろであった頬は蒼ざめ、衣服もあちこちが擦り切れ汚れている。娘は虚ろな目で、給仕が紅茶を注ぎ菓子を出すさまを見ている。

 「さぞ疲れているでしょう。まずはお茶を飲んで温まりなさい。」

 給仕が下がってから貴婦人が云った。村娘はぼんやりと貴婦人を見上げる。黒い天鵞絨ベルベットのドレスに映える銀色の髪と、雪のように白い膚、少女のような紅い脣。背が高くほっそりとした身体。まるで人間ではないかのような、雪の精とも見紛う麗わしい容貌かたち

 娘はどう持てばよいかも判らぬ可憐な茶碗を両手で持ち上げ、紅茶を飲んだ。すると辺りいちめんに花が咲いたような芳香に心労を忘れた。その瑞々しさは喉だけでなく身体ぜんたいを潤おすとも思われた。身体が安らぐと同時に腹が鳴った。娘は手掴みで菓子を、夢中で食った。紅茶も菓子も、生まれて初めて知る美妙な味と香りであった。

 娘はひとしきり渇きと飢えを癒やすと、急に弟のことを思い出し、泣いた。

 「わたしにそっくりな男の子を見かけたというのは、本当ですか。双子の弟が、もう一週間も家へ帰らなくて、ずっと森を捜していたんです。」

 貴婦人は娘の傍へやって来て、絹の手巾ハンカチで優しく涙を拭い、赤子をあやすように頭を撫でた。

 「その子なら無事ですから、どうぞ安心なさい。実はこの城にいるのです。」

 村娘は愕いて顔を上げた。「そうなのですか、」

 「ええ。」貴婦人は嫣然にっこりとほほ咲んだ。「今はすっかり綺麗になって、まるで王子さまのようですよ。」

 「会わせてください。」

 「じきに会えます。でもそのまえに、あなたも綺麗にならなくては。そのためにも、お腹いっぱいにならなくては。」

 安心した娘は再度空腹を感じ、菓子を食べた。菓子はいくらでもあり、いくらでも食べたくなるほど甘美だった。食べると眠くなった。

 夢現ゆめうつつの気分でいると娘は別室へ連れていかれ、薔薇の香りが漂う風呂に入れられた。清潔になり髪をくしけずられた娘は、衣裳部屋で好きなドレスを選ぶように云われた。古風な赤い繻子のドレス、琥珀色の唐草模様のドレス、色とりどりの刺繍がされた緑のドレス、レースで覆われた紺青のドレス、真珠のような純白のドレス――娘はどれにも心奪われ、一つに決めることができない。途惑って貴婦人を振り返ると、彼女は赤い繻子のドレスを手にとった。

 「とりあえずこれにしましょう。あなたの金髪によく似合う。ほかのドレスも、気に入ったものはまた全部着せてあげますよ。」

 ドレスを着たあとは、同じ繻子の繊細な靴、真珠の首飾りと耳飾り、髪には赤い大きな絹紐リボン。すっかり着飾った娘は、大きな鏡に映る姫君のような姿に恍惚うっとりと見入った。

 それから娘は貴婦人と廊下を進んでいった。立ち並ぶ大理石の像や壁に掛けられた壮麗な絵画、綴織に目を奪われながら、辿り着いたのは小さな室。その麗わしい室で絹張りの長椅子に腰かけていたのはあおい衣裳に身を包んだ美しい少年。

 一瞬、二人は互いが誰か判らなかった。だが相似の貌をしかと認めると、駆け寄って涙ながらに抱き合った。今は貴公子のようななりをしているその少年は、間違いなく娘が捜していた双子の弟だった。

 弟の蓬髪は今はつややかな捲き毛となって額や頬に落ちかかり、野良仕事で日灼けしていた膚は透き徹るほど白くなっている。娘と揃いの雀斑も消えていた。

 「姉さん、見て。」弟は上着と襯衣シャツをめくり、腹から胸にかけての皮膚を見せた。「以前親父にやられた傷痕、ほとんど見えないだろう。ここに来てから毎日薬湯に入っていて、すっかり薄くなったんだ。姉さんの手もきっとすぐによくなるよ。」

 娘は少し赤くなって頷いた。着飾っても手があかぎれだらけであったのが本当は恥ずかしかったのだ。

 弟は森で道に迷ってしまったところを貴婦人に助けられたと云う。何日も彷徨ってまだ疲れが残っているせいか、日中も睡ってばかりいる。そう話しているうちにも弟は舟を漕ぎはじめ、貴婦人に促されて寝台ベッドに横臥った。

 「あなたに会えて安心したのでしょう。」貴婦人は弟にそっと布団をかけながら云った。「次はあなたのおへやに案内しましょう。そろそろ支度が整っているはずです。」

 再び長い廊下を歩き、階段を上り、辿り着いたのは弟の室にも劣らぬ美しい室だった。薄紅の絹を張った椅子、天蓋つきの寝台ベッド、色鮮やかな絨毯、綴織の壁掛、香水壜が並ぶ鏡台、水晶硝子の吊燭台シャンデリア、大理石の暖炉――村娘がこれまでに見たこともない豪奢な設えでありながら、ずっと娘を待っていたかのような温かさと落ち着きがある。娘は全身の力が抜けるのを感じてよろめいた。

 貴婦人は娘を寝台へ導き、弟と同様に優しく布団をかけた。娘は絹と真珠に包まれたまま夢の世界に入る寸前、貴婦人の鈴のような声を聞いた――

 「美しい、あなたもしばらくお休みなさい。晩餐のときにまた起こしてあげます。好きなものを、またいくらでも食べてください。そうして明日もまた美味しいお菓子やごはんを食べて、美しいものをたくさん見るのです。この城にあるたくさんの美しいものを――」


 そのように姉弟の城での生活は始まった。朝起きると薔薇の香りのする小さな浴槽が室に運ばれていて、湯を浴びる。それから軽い朝食を摂り、麗わしい衣服に着替え、中庭に出る。そこには美しい花や庭木、噴水があり、小鳥や小動物が放し飼いにされていて、一緒に駆け廻っているだけで愉しかった。貴婦人はその容子をほほんで見守っていた。お腹が空いたころに昼食、そのあとまた城のなかの珍しいものを見せてもらい、幸福な光のなかで午睡をし、宝石のような菓子を食べ、吟遊詩人の歌と物語に耳を傾け、夜には絢爛たる晩餐――

 城のなかは珍しい動植物や美術品、音楽、詩や物語に満ちていた。だが中でも別格なのは、標本室だ。

 そこは最も高い塔の上にあり、この城で育てることのできない異国の動植物や、稀少な鉱石の標本が犇めいていた。弟は中でも獅子や虎の剥製(いずれも雪のように白い)と、さまざまな内包物が透けて見える水晶の標本を気に入っていた。

 村娘が気に入ったのは、壁いちめんにピンで留められた昆虫たちだ。玉虫色の甲虫たち、そして極彩色の大小の蝶や蛾。その数は夥しく、いくら眺めても飽きることがない。

 「ぼく、ずっとここにいたい。」

 弟が苔入りの水晶の塊を手につぶやいた(こわれにくい鉱石標本のいくつかは室に持って行ってよいと云われた)。しかし姉と見合わせた目は不安げで、いつまでもこんな幸福に浸っていられるはずがない、と思っているかのようだ。

 「ずっとここにいていいのですよ。」

 音もなく後ろから貴婦人が現われた。「もうつらい場処へ戻らなくてもよいのです、美しい人たち。どうぞ、ずっとここへ――さあ、次は音楽会ですよ。」

 二人は標本室の外に出たが、弟は急に眠くなったようだった。彼は苔水晶を抱いたまま先に午睡をしに自室へ戻った。

 娘は貴婦人に連れられて小さな音楽堂に行った。二人だけのために奏でられる横笛フルート鍵琴チェンバロの妙なる音。娘は菓子と紅茶を口にしながらその音に聴き入った。だが本当にずっとここにいてもよいのか――ずっとここにいたいのか――疑う気持ちが不意に兆した。


 村娘は朝と晩の二回入浴させられた。薔薇の香りがする不思議な湯はとろりと白濁していて、入るごとに膚の肌理きめが整い、あかぎれなどはすぐに治った。日灼けの痕もずいぶん薄くなったある朝、貴婦人が満足げに云った。

 「雀斑そばかすもずいぶん薄くなりましたね。あと少しで消えますよ。」

 湯の香りに恍惚うっとりしていた娘は、不意に夢から醒める心地がした。鏡を見れば、ミルク色に整った皮膚からは確かに雀斑が消えつつある。しかしこれは、消えたほうがよいものなのか。

 娘は特に顔の雀斑を気にしたことはない。ただ、村の者たちが「あのは雀斑がある、本当に美人だ。」とささやくのを何度となく聞いたことがある。つまりこれは欠点なのだ。ならばきっと、消えたほうがよいに違いない。

 そう思うと同時に、亡くなった母がこの雀斑を可愛がってくれていたことを思い出す。寝つけない夜、よく優しい声で歌ってくれたものだ――おやすみなさい、わたしのかわいい、かわいいそばかすちゃん。

 だがその母はもういない。父も酒浸りになってしまった。父に乱暴されながらも、姉弟は支え合って働いた。ぼくは男だから、と苛酷な力仕事の多くは弟が引き受けてくれたが、娘が担当した細々した仕事も膨大なものだった。そうして二人でやっと稼いだ金を、父がまた酒場で使い尽くす、その繰り返し――

 ともかく、今は貴婦人に気に入られることが大切だ。娘は記憶の連鎖を振り切るように湯を上がり、貴婦人が選んだドレスに身を包んだ。

 食事では貴婦人にフォークやナイフの使いかた、そのほかの作法を教わって、今ではずいぶん優雅に食べられるようになった。この城の料理は濃厚な味のものが多かったが、なぜか飽きることなくますます欲しくなった。毎回、食べすぎるせいか必ず眠くなった。二人は村で食べていた粗末な食事の味を忘れた。

 その日も姉弟は中庭で遊び、小馬に乗ったり犬と追いかけっこをしたりした。だが、その途中で急に弟がうずくまってしまった。娘が心配するとただ、眠いのだ、と云う。そしてお菓子が食べたい、と。

 それを聞きつけていたかのように花樹の蔭から貴婦人が現われた。

 「今日は気持ちのよい天気ですから、ここでお茶にしましょう。」

 噴水の脇の小卓テーブルにはすでに菓子と紅茶の準備がされていた。弟は眠そうなまま黙々と菓子を食べ、お気に入りの白孔雀が近くに来ても気づかなかった。貴婦人はその容子をやさしく見つめ、疲れたのですね、と云って頭を撫でた。そのあと弟は自室へ午睡に行ってしまった。

 娘は歩いている孔雀を眺めながら、不意に別の鳥――家の鶏たちのことを思い出した。鶏の世話はほとんど唯一好きな仕事だった。ふかふかとした羽根の可愛らしい鶏たち。わたしが放り出してしまって、あの子たちはいまどうしているだろう。家にいるときは、毎日餌をやって、卵を採って、小屋の掃除をして――だが娘は、もう家に戻ることもないのだと、また記憶を振り切るように紅茶を飲んだ。

 その日を境に弟は常に眠気を訴え、それ以上に食事や菓子を欲するようになった。

 「身体に力が入らないんだ。」

 弟はそう云って、塔の高いところにある標本室にも行けなくなってしまった。そこへは何階ぶんも螺旋階段を上る必要があるからだ。弟はお気に入りの苔水晶を片手に握ったまま眠った。娘は寝台の横に坐ってもう一方の手をとり、その穏やかな寝顔を不安に見守った。

 「弟は病気なのですか。」

 「疲れが出ているのでしょう。」貴婦人にはただやわらかにそう答える。「つらいことがたくさんあったようですから。それが、この城に来てようやく安らぐことができたのです。あなたもそうではありませんか。」

 村娘はうなづいた。貴婦人の云うとおり。だからこんなにも、眠いのだ。

 やがて娘もますます菓子を欲するようになった。眠くなるほどに欲しくなる、甘い蜜と花の香りがする宝石のような菓子。身体は徐々に動かなくなり、それでも菓子や紅茶が欲しい。そうして娘はもう何日も弟を見ていないことに気づかなかった。

 ある日娘が鏡を見ると、とうとう雀斑そばかすが消えてなくなっていた。

 他人を見ているようだった。白磁のような頬に静かに指をすべらせる。その美しいおもてで、娘はもう笑うことができない。

 よろめく脚でなんとか標本室まで行った。色鮮やかな蝶たちを見て、束の間華やいだ心地になる。そのあいだに娘は意識を失ない、それを最後にしばらく自分の足で歩行あるくことはなかった。

 それからは寝台に寝たきりの娘を、貴婦人が手ずから世話してくれた。娘は菓子や食事を食べては寝、甘く優しく、ひどく懐かしい夢を見た。だが起きればその記憶は淡雪のように消えてしまう、ただ温かな陽と草の匂いがしたような――そんな儚い夢だった。

 娘がいくら食べても、不思議と肥ることはない。膚はますます透き徹り、頬は薔薇いろに輝き、黄金の髪はいっそう艶めき、身体は妖精のように軽くなっていく。貴婦人はそれを見て満足した。

 そうして十日以上も過ごしたある朝、貴婦人は云った。

 「〈標本室〉へ行きましょう。弟さんもそこであなたを待っていますよ。」

 娘は貴婦人に腕をとられ、身体を支えられて久しぶりに立ち上がった。娘は貴婦人に凭れかかりながらなんとか、夢遊病者のように歩行あるくことができた。だが廊下を進む方向は標本室とは反対で、やがて見知らぬ階段に辿り着いた。地下から冷たい空気が流れてくる、その石段を二人はゆっくりと降りて行った。

 娘が眠気に堪えながら降りて行った長い階段の、その先にひろがっていた光景。

 娘は空色の睛を見開き、冴えた意識でそれを見た。

 ――広大な室の壁いちめんを覆う幾つもの硝子棚。そこには何百ものひとがたのものが整然と並んでいる。

 娘は貴婦人から離れ、棚の一つにゆっくりと近づいた。硝子に手をつき、内部なかを見つめる。それぞれに着飾った、美しい少年少女のかたちをしたものたち。それぞれ手に玩具や本、楽器、虫眼鏡、鵞ペン、香水壜、乾燥した花束、などを持っている。みな血の通った頬の色をしているが、睛は開かれたまま瞬きひとつしない。その表情にはなにも、虚無さえも無い。

 長い棚を見渡して、端に空隙があることに気づく。娘はよろめきながらそこへ行った。

 弟のかたちをしたものがあった。娘と相似の貌。揃いの金髪。そして静かに開いた空色の睛は涙とは異なる乾いた艶を帯びている。王子のように着飾って、手にはあのお気に入りの苔水晶を持っている。よく見ればその腕は細い支柱のようなもので支えられている。

 その隣が空いていた。

 娘が振り返ると、貴婦人がゆっくりと近づいてくるところだった。

 「素晴らしいでしょう、」

 その頬は紅潮し、見開かれた睛は金剛石ダイヤモンドのような白銀の光芒ひかりを放っていた。

 「我が城の何世代にも亘る蒐集物コレクションです。」

 娘が再び手脚の力を失くし、くずおれていく前で貴婦人は滔々と語った。

 「生前にたくさんの美しいものを見聞きしていればいるほど、そして美しい夢を見るほど、美しい標本になるのです。みな今でも美しい夢を見ています。膚や髪を綺麗にして、身体の準備が整ったら、最後の処置をして、お化粧をして――」

 床に倒れた娘の身体を、貴婦人はやさしく抱き起こす。

 「みなそれぞれに大好きだったものを持たせているのです。あなたには、あの蝶の標本を飾ってあげましょうね。それからときどき、ドレスを着替えさせてあげます。まだ袖を通していないものがたくさんあったはずですから。

 ――最期に見た夢の香りがその後も残り続ける。あなたはいま、どんな夢を見ているのかしら……。」

 視界はもう冥くなっていた。貴婦人のやさしい声を遠く聞きながら、娘は夢を見た。この城でふれた美しいものたちの幻像イメージが目まぐるしく過ぎ去り、最期に現われたのは青い空。

 まばゆい日ざし。母の子守唄。まだやさしかった父が肩車をしてくれたこと。弟と二人で夕暮れまで走り回った小麦畑。ふわふわと温かい鶏の雛。干し草の匂い。農夫たちの歌。家族四人で食卓を囲んで捧げた日々の祈り。

 森を、川を、畑を、走りまわって歌ったこと。睛と同じ青い空に向かって高く、どこまでも澄みわたるように歌ったこと。


 その森の近くの村々ではいにしえの昔から、何年かに一度二度、ひとりふたりと美しい子どもが消える。それは妖精のしわざだと村人のあいだでは語られていた。白く美しい雪のような妖精の女王が美しい子どもを所望している、だから美しい子を持つ親は気をつけなさい、と。

 ある村でひときわ美しい双子の姉弟が消えてしばらく経った夜、二人を失なった酒浸りの男は首を吊った。



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