花殺しの天使

 春の日ざしのなか、公園の花壇の上に天使のような少年が降り立っていた。片親のどちらかが白人らしい、西洋人形めいた純真無垢なかお。琥珀色に透き徹る髪と睛。可憐なセーラー衿の上着に半ズボンの姿。十三、四歳だろうか。

 その艶やかなローファーの足許には、累々と横臥る孔雀草マリーゴールド立藤ルピナスの残骸。

 全滅している。

 少年は画材を抱えて立ち尽くすわたしににっこりとほほんだ。そうすると本当に天使のよう、いや天使の貌をした花殺しの悪魔だ……。

 彼は花壇から飛び降りるとどこかへ駆け去ってしまった。こんな非道を働いておきながら、その所作はなんと優雅で爽やかだったか。

 わたしはこの数日いつもそうしていたように画架イーゼルを立て、画板を載せ、絵具の準備をした。そして完成間際であった花壇の絵の中央に、幼い非道な天使の記憶の残滓を描き留めた。


 わたしはなんとしてもまた彼に逢いたいと思った。特徴的な制服から学校はすぐに知れた。だがこの地域からはいくらか離れた処にある私立で――いやそれがどうした、調べて待ち伏せでもする気か――と独り悶々とする日々が続いた。

 ところが数日後、母親に連れられてわたしの家にやって来たのは少年のほうだった。わたしは自宅で小さな水彩画教室を開いていた。彼は案外真面目に指導を受けた。

 少年の名は亜蘭あらんといった。――名前に花の名が入っているとは、なんという皮肉だろう。

 ほかの生徒たちが帰ってから、彼は単刀直入に云った。

 「このあいだ、公園でぼくを見ましたよね。」

 「なんのことかな。」

 「あの絵。」

 彼は部屋の隅に立てかけてあるわたしの画架イーゼルに乗ったままの画板――上に布を被せておいたのだが、わたしの目を盗んで見たらしい――を指差した。わたしは認めた。

 「もうあんなことをしてはいけないよ。」最近、近隣のあちこちで花壇や鉢植えが荒らされているという話を耳にしており、わたしは小暗い気持ちになった。

 「なぜ。」

 「花が傷つくと悲しむ人がいるからだ。」

 少年は鼻で嗤った。「ぼくは花なんて見ると反吐が出るけどな。」

 「もうしないと約束してくれるなら、お母さんには黙っておいてあげよう。」

 少年の眉がぴくりと動く。

 「それと、もう一つ――わたしの絵のモデルになってくれないか。」

 「条件が多すぎるな。」彼は艶やかにわらった。「逆だ。ぼくのすることに口出ししないで黙っていてくれるなら、モデルになってあげてもいですよ。」

 わたしは唖然とした。この少年は初めからこの筋書きを持っていたのだ。

 「……判った。」

 少年は勝ち誇ったように咲みを大きくした。

 「ほら、先生だって本当は、花のことなんてどうでもいいんじゃないですか。」


 それから毎週水曜の夕方、亜蘭は水彩画教室のあとわたしのモデルを務めた。母親の了承も得ている。

 教室として使っている部屋の隣がわたし個人のアトリエで、授業のあとそこへ彼を招き入れて椅子に坐らせる。

 「裸になりましょうか、」

 「きみにそんなことをさせるつもりはないよ。服のままでいい。」

 わたしは内心の動揺を悟られぬよう、精一杯抑えた声で云った。少年はただくすくすと咲う。

 最初はただ、数分置きにポーズを変えて何枚か鉛筆で速描クロッキーした。……まずはモデルに不慣れな彼の緊張を解くために短時間の速描にしたはずなのに、わたしのほうが平常でいられなかった。彼はブグローが描いた甘く妖しいクピドのよう。そのまま完成された芸術品であり、わたしはせいぜい不様な模写をするしかなかった。今まで画家として多くの人びとを描いてきたが、このように感覚が狂うのは初めてだ。

 亜蘭が慣れてきたところで、いくらか長く時間をとって素描デッサンする。速描クロッキーよりも精確に彼の輪郭を捉え、細部を描かねばならない。しかしわたしは腕が思うように動かず、まるで画学生に戻ってしまったようだった。いやそれよりひどいかもしれない。どんなに美しい男女の裸身を前にしても、画業ではただ冷静に観察し描くことができるのに、この着衣の少年が長い睫毛で悪戯っぽくまばたきするだけで、手が顫える。

 「……今日はこのくらいにしよう。」わたしは自分のために云い、切り上げた。少年はほほ咲んで立ち上がり、背伸びをした。


 近隣では相変わらず花壇が荒らされ、鉢植えは倒され、塀に這わせた花は無惨に摘み取られその場で踏み潰された。咲き初めた薔薇も、愛らしい胡蝶菫パンジーも、清純な木春菊マーガレットも、丹精込めた牡丹も……すべての犯行が亜蘭によるものとは限らない。限らないが、わたしはあまり犯行が増長エスカレートすると事が露見してしまうのではないかと危ぶんだ。

 なぜ彼はこうも花を憎むのだろう。


 それから数週間、わたしは鉛筆や水彩で何度も少年を捉えようとしたが、一向にうまくいかなかった。少年を初めて見た日、記憶だけで描き留めた印象のほうが随分ましだ。

 わたしはこの小さな美神を描くという無謀を諦め、彼の罪を彼の母親に話すべきなのだ。そうして関わりを終わらせる。それがまともな大人がとるべき道だ。

 だがわたしにそんなことをするつもりはなかった。ただ、懸念は口にした。

 「口を出さないとは云ったが、」ある日の素描の終わり、わたしは云った。「あまり派手にやりすぎると、わたしが黙っていようがいつか周りに悟られてしまうよ。防犯カメラをつけているお宅もあるのだから。」

 「カメラの有無くらい調べてますよ。」急に犯罪者の口調になる。

 どうして――と口に出かけた問いを呑みこんだ。わたしにはまだ亜蘭になにも訊く資格はないのだと、弁えていたからだ。


 亜蘭が荒らしたと思われる花壇を見かけるたび、わたしはその小さな荒涼とした空間に目を留め、これは彼なりの創造なのだと哀しく理解した。

 少年は瞭らかに、たすけを求めていた。


 ある雨の日、水曜でもないのに突然亜蘭がやってきた。全身ずぶ濡れだった。

 彼を玄関で待たせ、わたしは慌ててバスタオルを取りに行った。玄関に戻ると彼はセーラー衿の上着を脱いでいた。わたしはその身体に目が釘づけになった。その白磁のような膚は、無数の瑕痕きずあとに覆われていた。まだ生々しい、火傷のような痕もある。

 「先生……。」

 少年はわたしに抱きついた。わたしは彼をバスタオルで包み、そっと抱擁した。

 「どうしたんだい。」

 「ぼくを描いてください。この瑕痕も全部――」

 「判った。おいで、」

 わたしはもうためらわなかった。濡れた衣服を預り、彼が身体を拭いたあと、いったんわたしの服を着せる。温かい紅茶を淹れて彼に飲ませるあいだ、アトリエでモデル台の準備をし、モデルとなる彼のために暖房を入れた。

 亜蘭はわたしが貸した襯衣シャツを脱ぎ、台の上に横臥った。陰鬱な表情かおをしていてもなお美しい、墜落した天使。

 「素描デッサンで終わりじゃなくて、ちゃんと一枚の作品にしてほしいんです。そうしてくれるなら、ぼくはもう、花を荒らすのをやめる。」

 わたしは黙って頷き、素描を始めた。それきりのものではなく、これから描く作品の下絵にするための。

 硝子玉のような目で虚ろに宙を見る少年を、わたしは初めてまともに捉えることができた。本当はずっと彼の闇を暴きたかった、その希いが叶いつつあるいま、こんなにも素直にわたしの筆は動く。わたしは最低の人間だ。

 下絵から実制作に入るまで、あと何回か少年にモデルを務めてもらうことになる。そうして彼の納得のいく作品を描くことができたならば、わたしはやっといくつかの質問をする資格を得るだろう――



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