白木蓮の夢
彼女が夢に視る理想郷にはいつも
朝、目を醒ましたとき、彼女の脳裡にはまだいちめんの白木蓮の花々の残像があって、それを寝室の風景となじませることができずしばらく混乱した。飼っている黒猫がちょうどやってきて
白木蓮の幻影とは対照的な黒い猫を撫でながら、その毛並みや体温を確かめ、現実感をとり戻していく。
なぜ理想郷にあるのが白木蓮なのか。それは単純に、彼女が育った中高一貫の女子校の校門のあたりにその木があった所為に違いなかった。その花は学園の
実際の学園生活は理想郷とは程遠かったはずなのに、なぜ、と彼女は同じ夢を見るたび苦笑する。卒業した歳の倍近くにもなると、思春期の記憶というものが美化され結晶化されていくのを感じざるを得なかった。こんな感傷的な大人になっていると知ったら、当時の自分はさぞ軽蔑するだろう。
彼女は起きて黒猫に餌をやり、自分も朝食を摂った。それから窗を開け、
居間に戻って猫と遊んでいると、別室で寝ていた婚約者が起きてきた。
「おはよう。」
「おはよう。」
残業で久々に深夜帰りとなった彼を今日は甘やかすことにして、朝食を用意し
「最近、中高のことをよく夢に見るの。」と彼女は実際に見た夢をかなり翻訳・省略して説明する。この単純素朴な男に夢まぼろしに対する理解を求めてはいない。
「私の学校には
「まぐのりあ、ってなに。」
「駅前にも咲いてた白い木の花だよ。今はもう散ってるけど。」
「ああ、あれマグノリアって謂うんだね、綺麗な花だよね。男子校にはそんなのなかった。」
彼女は卓子の上まで落ちかかった木洩れ日を受けて浮かび上がる、彼の、成人男性の精悍な輪郭をじっと見つめる。彼女が視る理想郷に男性的なものは存在しない。それは異質なものだ。にも関わらず、彼との交際は彼女の内なる世界を微塵も損なわなかった。そのような不思議な男は初めてで、彼女はようやく男性を人生の伴侶とすることを現実的に考えられるようになった。
「その夢を見るのは、きみの調子がいいときなの、それとも悪いとき。」
「両方かな。夢じたいはとても綺麗だから、調子が悪いときでも慰められる。」
「ふうん。それならいいね。」と、彼は暢気にトーストを齧る。
彼女はいつしかほほ咲んでいた。
「そうだね。……べつに、悪いことじゃないよね。」
彼女はふと、彼が白木蓮の森にいるところを想像する。彼の素朴と白木蓮の冷艶の不釣り合いを考えるだけで
彼女は立ち上がると彼の背後に回り込み、両腕をその肩に置いた。
「どうしたの。」
彼女は黙って彼の肩を抱きしめる。彼女のなかの理想郷と同じくらい、彼を大切にしようと思う。彼といれば、彼女は彼女だけの白木蓮の森を懐いていられる。ずっとそうしていてもいいのだと思える。彼とその世界と、両者は相容れないとしても共存できる。
やがて朝食が足りなかったらしい黒猫が二人の足許に纏わりつき、不服そうに鳴いた。
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