フィナンシェの午后

 朋子ともこはやわらかなバターの香りで午睡ひるねから目を醒ました。市朗いちろうがフィナンシェを焼いているのだ。

 「やあ、起きたかい。」

 朋子は長椅子ソファから起き上がって読みかけの本(途中で寝てしまったのだ)を置き、焼きたてをいただこうと、いそいそと食堂の卓子テーブルに着いた。市朗は綺麗な模様の皿にフィナンシェを並べ、紅茶を淹れてくれた。

 頬張ると、口のなかにラベンダーの香りが広がった。

 「今日は生地に砕いたラベンダーを練りこんでみたんだ。」

 朋子は感心し、市朗はパティシエを目指すべきだと褒める。彼はただの趣味だから、とわらって否定する。

 「なにを読んでいたんだい。」

 「キルケゴール。正直、焼きたてのフィナンシェに似合う本ではない。申し訳ない。」

 「朋子が焼きたてのフィナンシェに似合うような本を読んでいたらちょっと変だから、気にすることはないよ。」

 「この香り、去年行ったラベンダー畑を思い出すね。」

 去年、二人で北国へ旅行したときのことだ。たまたまほかの観光客は少なく、二人は地平線まで続くラベンダーの海を思うさま愉しんだ。

 部屋には午后の光が充ち、幸福なバターの香りと穏やかなラベンダーの香りとともに、朋子をまた眠りの世界へ誘なった。市朗は天使のような顔つきでそんな彼女を莞爾にこにこと眺めている。

 朋子はなんとかこの世界に意識を戻し、二つめのフィナンシェを齧った。ずっとこうしていられたらいいのに、と思う。市朗と暮らしはじめて、朋子は彼の母親的な優しさにずいぶん甘やかされている。もちろん家事は分担しているが、市朗の包容力は神か仏のようでともかく果てしがない。自分はその何分の一かでも彼にお返しできているだろうか。

 朋子は実家の家族との関係があまり良くない。友人も多くはなく、市朗と出逢うまでは恋人がいたこともない。だから愛されたり、愛を返したりということにずっと不慣れだ。

 「さっきのキルケゴールね、家族との関係が色々と拗れていて、恋愛もすごく下手なんだ。」

 「ずっと恋していた女性と婚約までして、一方的に振ってしまうんだっけ。」

 「そう。なにか哲学的な言いぶんがあったんだろうけど、自分勝手だよね。……でもたまに、自分もそんな衝動に駆られないか、心配になる。人間関係を一方的に破壊してしまいたくなる衝動。現に、何人かの友人をそれで失くしているし。キルケゴールのほうの内心はよく解らないけど、わたしの場合は哲学的な言い訳すらなくて、ただ自分が先に失望されて見離されるのが、怖いんだ。」

 「…………。」

 市朗の哀しげな顔を見て、朋子は言い訳めいた口調になる。「市朗にそうするかも、って意味じゃない。そんなことしたくない。……でも、もし万が一そんなことになったとしたら、きっと市朗は悪くなくて、全部わたしが――」

 市朗は不意に立ち上がり、卓子を周りこんできた。そして朋子が食べかけていた二つめのフィナンシェの残り半分を掴み、朋子の口に突っこんだ。

 「いいからお食べ。」

 朋子はフィナンシェを咀嚼した。幸福な味と香りが再び口いっぱいに広がって、泣きそうになった。「ごめん、寝起きで情緒が――不安定――」

 市朗はしばらくのあいだ朋子の肩に手を置き、何度か頭を撫でてくれた。――母親にもこんなふうにしてもらった記憶はない。彼女はますます涙が零れそうになる。

 「とりあえず、いったん午睡しようか。」

 「……わたし、さっき起きたばかりなんだけど。」

 「まだ眠そうじゃない。それで夕方になったら起きて、二人で夕飯の支度をしよう。」

 二人は紅茶の残りを飲み干し、寝室に向かった。並んで寝台ベッドに横たわると、西のまどから射しこむ金色の光が二人を温かく包んだ。

 再び眠りに落ちる直前、市朗がささやいた。

 「ぼくだって本当は、朋子に失望されないかって思うことがある。でもまだ起こってもいないことに絶望するより、それが愚かなことだとしても、真実から懸け離れているとしても、なるべくいま幸せに過ごせるようにしたいと思ってるんだ。」


 朋子はラベンダーの海に沈む夢を見た。独りだが、不安はなかった。日ざしは温かく、空気は澄んだ香りに充ちている。朋子は紫の清楚な花々に抱きしめられた。

 静けさのなかで、至福と淋しさを同時に味わった。そして、わたしはきっとこの二つを一緒に抱えていける、と思った。彼女にはやはりまだ愛のことはよく解らない。だが人を愛するにはきっと、その二つを手放してはならない。

 朋子は目醒めてもそのことを忘れてしまわぬよう、強く希った。



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