眠り姫


 新月の夜、廃れた城を少女が独り歩いている。

 寂寥とした広大な廊下を手燭ので照らしながら往く。廊下の両側にはうつくしい人びとの大理石の像が並んでいる。女とも男ともつかない、柔和な表情だが凛とした骨格を持つ人びとだ。

 少女を導くのは一疋の蝶。月のない夜に青に緑に紫に燦く鱗粉を散らしながら、不思議な蝶は滅びた街をいくつも通り過ぎ、少女の歩調に合わせてゆっくりと、この城まで翔んできた。

 ――瓦礫の傍らでうずくまり、襤褸を着て腹を空かせ行く当てもない少女は、不意に現われた蝶の鱗粉をかすかに浴びた瞬間、幻にたましいを攫われたのだった。たましいを攫われたので、あとは蹌踉よろよろとこの城まで躰を運んでくるだけだった。もう、空腹もはだしの足の痛みも、家族や友人を喪なった哀しみも感じなかった。

 お城の最奥で眠るうつくしいお姫さま。

 その幻は一瞬にして狂おしいほど少女を捉えた。蝶が導く先にお姫さまはいる。同じように眠りに就いた従者たちに囲まれて。

 わたしもその従者の一人になるのだ。

 廊下に並ぶ石像の列は果てしない。あるいは彼らもお姫さまの従者が変化へんげした姿なのかもしれない。廊下を渡り、階段を上り、いくつもの広間を通り過ぎた。石の壁や柱は罅割れ、綴織画タペストリーや絨毯は色褪せ、硝子は毀れ、あちこちに繊細な蜘蛛の巣が垂れ、その縹渺とした光景に少女はいっそう幻惑された。

 風もないのに手燭の燈が消えた。

 蝶の燐光が充分に明るいので問題はなかった。その場処で、少女はこの城に入って初めて生きた植物を見た。茨だ。城の最上層へ繋がる階段から滝のように撓垂れ落ちている。その棘に少女は怯んだが、蝶が近づくと茨の蔓はさっと道を開けるように動いた。蝶と少女が通り過ぎたあとはまた道が塞がれていく。

 最上階に着くと、大きな扉があった。真珠で飾られたうつくしい白銀しろがねの扉で、隙間からかすかに光が洩れている。蝶が進むと繁茂する茨は退き、扉が音を立てて開いた。

 へやのなかは数多の蝶の燐光で充ちていた。そして、横臥よこたわり安らかに眠る大勢の少年少女たちと、彼らを奥から照らすほのぼのとした薔薇いろの光。

 寄り添い合って眠る少年少女たちはみな心地よさそうに寝息をたてていた。彼らのおもてのあまりのうつくしさに少女は一瞬躊躇し、幻惑から醒めそうになった。わたしのような粗末な者が彼らの仲間にふさわしいだろうか。だがそんな彼女を促すように蝶は羽搏き、少女は後を追って薔薇いろの光源に近づいた。

 それは玻璃がらすの棺で眠るお姫さまだった。

 お姫さま自体がほんのりとした光を放っていた。花弁のような白い皮膚と、あでやかな紅絹もみの衣裳を透して。玻璃の蓋越しに、少女は夢のようにうつくしいお姫さまに見入った。

 やがて眠っているはずのお姫さまが金色の睫毛を持ち上げ、薄く睛を開けた。天色そらいろ虹彩ひとみだった。すると棺の蓋が開いた。

 眠っているはずのお姫さまは少女にやさしくほほ咲みかけ、花のような脣をほころばせた。少女は途惑いながらも光輝くお姫さまの上に屈みこみ、吸い寄せられるように顔を近づけ、脣を合わせた。

 とたんに強い眠気に襲われた。

 少女は蹌踉よろよろと後ずさり、たまたま眼に入ったお下げ髪の少女の隣に倒れこんだ。その少女は亡くした友人の一人に似ていた。少女は彼女の手をとり、来たる長い眠りのあいだにほどけてしまわぬよう指を絡め、身を寄り添わせて深い眠りに落ちた。

 そして彼らの外で扉は閉まった。


 淋しいお姫さまは、百年の眠りが醒めるまで、うつくしく純真な者たちを誘って口づけし、仲間を増やす。忠義者の蝶たちは次々と滅亡していく都市の彼方まで、お姫さまの従者にふさわしい彼らのような者を捜しに行くのだ。



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