箱庭小説

菫野歌月

古時計の音

 古時計が夜の十一時を打った。窗の外の雪をぼんやりと見つめていた瞳子とうこはふと我に返り、天井の照明を消した。へやは机の上の洋燈ランプあかシェード越しの薔薇いろの光が照らすばかりとなった。

 瞳子は革張りの椅子に坐り直し、古い日記帖の頁を再び捲る。

 中学生ごろに書いたものだった。久びさに手にとって、十年も経たないうちに自分はこんなにも変わってしまったのかと愕いたり悲しくなったりした。そこには今では赤面するほかはない幼い初恋や、友人たちとの大仰な愛憎劇、学校生活の息苦しさを綴ったわずか数日後に書かれた文化祭の楽しさ、大好きだった本や映画や音楽、かつて自分で夢想していた物語、などが満ちていた。要するに日々が輝いていた。高校受験期の悩みの吐露さえ、今となっては可愛らしい飴細工かなにかのように見える。それらに目を通すあいだ、彼女は愛しさでほほ咲んでいた。

 その後の人生で、これといった破滅や悲惨があったわけではない。ただ日記の習慣が高校のころから疎かになり、大学受験のころほとんど消失してしまったのは確かだ。そして、その時期からの数年のあいだに彼女の時間は灰色になってしまった。

 瞳子は日記帖を閉じると、膝にかけていたブランケットを羽織って立ち上がり、窗の傍へ行った。硝子にふれるとその冷たさが指尖から躰ぜんたいに沁みわたり、清められるようだった。雪の白、ランプシェードの紅、夜闇の黒。それらの色彩すべてが絵具のように溶けあって、彼女のなかに浸透していく。

 小ぶりな古時計が刻む規則的な音が、瞳子の心を落ちつける。

 療養のため郊外の祖父母の家に来て二週間になる。昔の母の室で暮らし始めて、最初はその音が煩わしかったが、今ではすっかりなじみのものとなった。

 この室はかなり片づけられていて、母の私物もほとんど置かれていないが、どことなく母の少女時代の気配が残っていた。たとえば、古風な机や椅子やわずかに残された本、薔薇いろのランプシェードに。その空間へ瞳子が古い日記を持ちこんだことで、二人ぶんの少女時代が交錯し堆積した。

 堆積した。――ちょうど瞳子がそう考えたとき、小止みになっていた雪がまたはらはらと降りはじめた。

 雪のように、積もっては融けていく記憶。そこになにか「答え」らしきものを捜そうとするのは愚かなことかもしれない。それでも彼女は再び机に戻り、日記帖を開いた。かつて自分がどのようにものごとを感じ、そこに見出した色彩がどれほど鮮やかであったか。

 いつの間にか静かに壊れていた感覚をとり戻すのは容易ではない。それでもまだ、自分の翼は完全には折れていないという直感があった。小鳥のような、日常を懸命に羽搏いていくちいさな翼。

 淡い雪は白い花弁のように降りしきる。明日には融ける運命だとしても、ただ淡々と大地を真白に覆って。人々の悲しみや苦しみをその下に埋めこんで、すべてを冷たく浄めるように。

 時計が十二時を打つころ、瞳子は古い日記帖を閉じ、眠りに就くまえに新たな筆記帖ノートを開いていた。これから新たに日々を綴っていくため、雪降る深夜に久びさに得た至上の感覚を、その最初の一頁に書きとめるために。




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