紫水晶の少年

 柘榴のように紅い脣をした少年ひとだった。

 そして、紫水晶のひとみ

 白い睡蓮の咲く小暗い池の畔で、百合彦ゆりひこは上級生らしきその人を想う。そしてポケットから紫水晶の小さな標本を取り出した。小さいといっても、単結晶としては見事なものだ。吸いこまれるような菫色は深く、それでいてどこまでも透き徹っている。

 紫水晶は、本当はその少年のものだった。

 百合彦は一昨日、これを庭園の東屋で拾った。忘れものなら学校の管理室へ届けなければならない。しかし彼はそのあまりに深い紫に魅入られて――魔が差したように、いつの間にかそれを自分のポケットに入れていた。

 「それ、ぼくのなんだけれど。」

 振り向くと、東屋のすぐ傍にすらりとした少年が立っていた。暗い色の髪に、雪花石膏の膚。柘榴色の脣。そしてひとみは、紫水晶と同じ色。一人のにんげんの容貌かおがこれほど妖しく彩られているのを、百合彦は見たことがない。だが一瞬の蠱惑から目を醒ますと、はっとしてポケットから石を取り出した。

 「返します。」

 少年はあでやかに微笑する。「盗んだな。」

 「違う、管理室に届けようと思って――」

 「欲しいなら、くれてやる。」

 少年は百合彦を置いてそのまま立ち去ってしまった。

 それから百合彦はその少年を探している。だが上級生に訊いてみても、そんな生徒は見たことがないと云われるばかりだ。

 二日間探したが、なんの手がかりも得られない。そうして彼は、もう一つの可能性を考えてこの睡蓮咲く裏庭の池にやって来た。

 この池には少年の幽霊が出るという。新入生に伝わってきた物語は何通りもあったが、共通していたのはその幽霊がこの池に落ちて亡くなった少年であるということだけだった。そして、その事故は意外に最近のことであると。それは一人だけではないこと。

 池の畔に坐り、紫水晶を見つめながらあの麗わしい人を想う。今となっては石を返すことよりも、ただもう一度あの少年に逢うことが目的になっていた。百合彦は胸が苦しくなった。

 「しょうがないやつだな、きみは。」

 まるで彼の心を読んだかのように、涼しい声をして少年が現われた。百合彦が愕いていると、紫水晶の睛をしたその人は軽やかに隣へ坐った。

 「これを返そうと思って、」

 差し出された石には見向きもせず、少年はただまっすぐに睛を見つめてくる。百合彦は眩暈がした。

 「……あなたは、幽霊なんですか。」

 「そうかもしれない。」

 少年は百合彦のおとがいを捉えた。「まえに池に落ちたやつも、同じようなことを云っていたな。簡単な罠でのこのことやってきて、まさか自分が幽霊になるとは思わずに。」

 百合彦は少年から眼を逸らすことができなくなっていた。肩を竦めたが、それ以上身体を動かすことができない。

 「怖いのか、……可哀かわいいな。大丈夫、一瞬だから。」

 少年は甘やかにほほみ、脣を合わせた。瞬く間に身体に冷気が広がっていく。百合彦はもがいたが、押さえつけられているわけでもないのに逃げることができない。――いや、むしろ自ら少年の胸に身を任せていた。冷気は甘く、優しい。百合彦は陶然うっとりとして意識を手放した。


 気がつくと保健室の寝台ベッドの上にいた。百合彦が体を起こそうとすると、保健教師がそれを制した。

 「念のためあとで病院にも行ったほうがいい。病院で治る類のものなのかは判らんがね。――宵夜しょうやの仕業か、」

 「……あの人のことを、ご存じなんですか。」

 「彼はぼくの同級生だ。毎年まいとしきみのような下級生を惑わすから、困ったものだ。きみもたいがい綺麗な石の標本かなにかを拾ったんだろう。」

 百合彦は混乱した。大人である保健教師とあの少年がなぜ同級生なのだろう。そしてポケットを探ったが、石はもう無くなっていた。

 「危ないところだったな。最近、きみが紫水晶の睛をした少年について訊きまわっているって、不審に思った上級生があの池に行って、たまたま見つけてくれたんだ。」

 「……池に落ちて死んだ幽霊というのは、あの人のことですか。」

 「いや。宵夜は病気で亡くなったんだ。ぼくの推測だと、その噂になっているのは宵夜にやられた生徒たちだろうね。幸い、きみのように助かる子もいるけれど。」

 「なぜあの人の話は噂にならないんでしょう。」

 「きみ、石の標本に釣られて彼を探しまわって殺されかけたなんて、周囲に吹聴するかい。」

 百合彦は首を横に振った。そしてあの口づけを思い出し、頬が熱くなった。

 やがて彼が恢復したのを確認すると、教師は優しく身体を起こしてやり、家に帰した。


 教師は保健室の窗から夕暮れに沈む東屋を眺めていた。そして紫水晶の標本を取り出し残照に翳した。

 石は少年のころ宵夜に貰ったものだった。これをあの東屋に置いておくと、必ずそれに魅入られる生徒が出てくる。彼らはどこかで池の幽霊の噂を聞きつけ、なぜか石とそれを結びつけて池までのこのことやってくる。そこで声をかけると、紫水晶の睛をした少年に逢った、と口を揃えて云う。一通り話を聞いてから教師は標本をとり戻し、彼らを池に突き落とした。

 池の幽霊について毎年ちぐはぐな噂を流していたのも彼だった。紫水晶を仕掛けるのもすべて、再び宵夜に逢いたい一心だった。幼い愚かな生徒たちには姿を見せるのに、なぜ友人であった自分の前には現われてくれないのか。

 いっそう不可解なのは、宵夜も時に生徒を殺そうとすることだ。

 教師は立ち上がり、保健室を出た。校舎を出てまっすぐに裏庭の池へ行くと、その四辺あたりはもう闇に包まれていた。

 「……宵夜、」

 教師は石を握りしめ、睡蓮の咲く池の畔でつぶやいた。「なぜきみまで罪を犯すんだ。」

 「おまえのしていることが愉快そうだったから、真似してみた。」

 涼しい声に振り向くと、そこに少年がいた。紫水晶の睛。柘榴の脣。残酷な微笑。長い年月、どれほど見たいと希っても叶わなかったもの。

 「おまえに罪の自覚があったなんて、意外だな。いつも物をこわすみたいに殺しているくせに。」

 「きみに逢う手がかりが、どうしても欲しかったんだ。」

 教師は顫える手を伸ばし、雪花石膏の頬にふれた。そして少年を引き寄せた。

 「どうして、ずっとぼくには姿を見せてくれなかったんだ。」

 少年は、ふふ、とわらった。

 「ぼくは気まぐれなんだ。」

 そして顔を上げると、教師と口づけを交わした。甘い冷気が教師の身体に広がっていく。教師は氷のように冷たい少年の身体を掻き抱いた。


 翌朝、教師は真白な睡蓮のあいだに仰向けに浮いている姿で発見された。その顔は凍てついた微笑を湛え、手には紫水晶を握りしめていた。



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