裏切りの片割れ月
小鈴莉子
序章
八神伊月
――死というものがあるならば、今の自分はそこへと向かっているのかもしれない。
次第に薄れゆく意識の中で、女はそんなことを考える。
死は恐ろしくない。だが同時に、そんなわけはないとも思った。
女は、誰よりも死から縁遠い存在だった。恋い焦がれるほどに死を望み続けてきたが、いつだって死は女の手からすり抜けていったのだから。
そこまで思考を巡らせたところで、いくつもの後悔が湧き上がってくる。
何も為せなかった。
自身の存在意義を、何一つ果たせなかった。
何より、このままではあの子を一人ぼっちにしてしまう。
ふと、淡く滲み始めていた視界に、息を呑むほど美しい満月が映り込む。咄嗟に、月に向かって手を伸ばす。
しかし、白くたおやかな手は、夢幻のごとく透けていた。そして当然ながら、天上から無慈悲に地上を見下ろす月に、手を伸ばしたところで到底届くはずがない。
そんな当たり前の事実が、何故か胸に突き刺すような痛みを与えてくる。
そうしている間にも、女の身体は指先から徐々に消えていく。
でも、やはりこれは死ではないのだろう。たとえ、どんなに死に近づこうとも、きっとまたすぐに追い返されてしまう。
だから、女は必ず蘇る。姿形は変わるかもしれないが、時間がかかるかもしれないが、それでも復活を遂げるに違いない。
「その時は、私があの子を――」
――今度こそ、殺さなければならない。
***
――ざくざくと、スニーカーが土を踏みしめる音が耳朶を打つ。
生家である
今日は風がないから、等間隔に聞こえてくる自身の足音以外、物音らしきものは存在しない。時折、野生の小動物が自然の中で動き回る、ささやかな物音が鼓膜を掠めていくくらいだ。
一般人ならば、あっという間に音を上げてしまうだろうと思えるほど、伊月が登っている山道は長く険しい。
だが、八神家に生まれついた者は、幼い頃から霊山にて肉体を鍛え、精神を研ぎ澄ませる修行を義務付けられているため、伊月にとっては最早苦とは思えなくなってきた。
(山籠もりに武者修行って、いつの時代の話だ、か……)
不意に、幼馴染の言葉が耳の奥に蘇ってくる。
山伏を祖とする八神家の人間として生まれ育ったから、伊月にとっては当たり前のことだが、さすがに現代日本の価値観にそぐわない家風だという認識くらいはある。
一度深く息を吐き、必要な物資を詰め込んできたリュックサックを背負い直し、意識を切り替える。そして、この霊山の最奥を目指す。
ひたすらに歩き続け、目的地に到着すると、一旦荷物を降ろしてリュックサックの中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。キャップを捻れば小気味よい音が鳴り、水分補給のために飲み口を口元に宛がう。
世間ではゴールデンウィークだなんだと騒がれ、日によっては初夏と呼ぶに相応しい日もあるが、この霊山の気温は低い。だから、喉の渇きに気づきにくい。喉にミネラルウォーターを流し込んでから、ようやく喉が渇いていたのかと、今まさに思い知らされた。
喉を潤したところで、今度はカーゴパンツのポケットから一枚の写真を取り出す。
「……
――そこに写っているのは、伊月と同い年の、血の繋がらない妹だ。
陶器のごとく白く滑らかな肌に、腰まで届く長くまっすぐな濡れ羽色の髪。闇夜に沈む森を思わせる、暗緑色の大きな双眸は軽い垂れ目だ。目を惹く特徴を備えた少女は、しなやかに引き締まった肢体に桜色の振袖を纏わせ、優雅に着こなしている。
身内の欲目を差し引いても、神秘的な美貌に恵まれた少女は、写真の中で花が綻ぶように微笑んでいる。
「……もう五年、か」
この写真を撮ったのは、五年前の春、園遊会に参加した時だ。この頃は、伊月たちは中学生になったばかりで、写真の中の鈴にもまだあどけなさが残っている。
そして、その年のゴールデンウィークに、鈴は伊月の目の前で突如として失踪したのだ。しかも、未だに見つかっていない。
だから、伊月の中の鈴は、五年前で止まったままだ。
唇を噛み締めていたら、写真を強く握り締めてしまっていたことに、ふと気づく。
慌てて手の力を緩めたものの、微笑む鈴が写る写真にはくっきりと皺が寄ってしまった。
溜息を一つ零し、鈴の写真をポケットに仕舞うと、降ろしていた荷物を背負い直す。それから、また歩き出す。
(……鈴が行方不明になる前に、最後に会ったのは俺なんだ)
当時の記憶は、どうしてか朧気だ。しかし、この近辺で鈴と何か大事な話をしていたことだけは、うっすらと覚えている。
何を話していたのか、詳細は思い出せない。ただ、とても大切なことを話していたのだという感覚だけが、今も尚残っている。
そして、その会話の中で伊月は鈴の考えに賛同できなかったことも、何となく覚えている。そんな伊月に、鈴が寂しそうに微笑んでいたことも、記憶に残っている。
そして、それを最後に、鈴は伊月の目の前から忽然と姿を消したのだ。まるで、神隠しにでも遭ったかのように。
(でも、そんなはずはない)
いくら人智の及ばない不可思議な領域に踏み込んでいる八神家でも、神隠しに遭った人間の記録など残されていない。行方が知れなくなったということは、自らの意志で失踪したか、生きた人間によって攫われたかの、どちらかだ。
そして、鈴は誘拐されたのではないかと、伊月は踏んでいる。
鈴の行方が知れなくなったのとほぼ同時期に、八神家と対をなす
刀祢は伊月のはとこに当たる男なのだが、昔から鈴に何故か執着していた。腹の底が見えない飄々とした振る舞いも相まって、正直、刀祢が鈴を誘拐したとしても不思議ではないと思ってしまう。
それに、それだけではない。
八神家の人間の挙動もまた、不審なのだ。
鈴が孤児で、血族意識が強い八神家においては異端者だったとしても、養女として引き取った娘である以上、行方不明になったともあれば、体面を保つためにも捜索に尽力するはずなのだ。
でも実際は、八神家は早々に鈴の捜索を打ち切った。その上、警察にも圧力をかけ、それ以上事件の捜査に乗り出させないようにしたのだ。
それに、鈴が失踪した事実に動揺していたのは、八神家では伊月だけだったのだ。
他の人間は、五年前から今日に至るまで、何食わぬ顔で過ごしてきた。八神鈴という少女は、最初から存在しなかったのだと言わんばかりに振る舞っている。
だから、鈴が姿を消したこの件には、刀祢だけではなく、八神家も何かしらの理由で一枚噛んでいるのではないかと思う。
(でも、証拠がない)
今まで独力で鈴の失踪に関わっていそうな八神家の人間に接触し、探りを入れてみたものの、今のところぼろを出した人間はほとんどいない。いたとしても、重要なことは何も知らされていない人間だったため、証拠らしきものは一切手に入れられなかった。
「――鈴!」
――だから最後はいつも、ここに行き着く。鈴が行方不明になったと思しき山中を、名を呼びながら彷徨い歩くことしか、学生である伊月には手段が残されていない。
鈴がいなくなってから、長期休暇に入る度、こうして拙い捜索を繰り返してきた。無意味で、愚かな行動なのかもしれない。今日もまた、何の成果も得られないのかもしれない。
だが、ここで足を止めてしまったら、本当に鈴が戻ってこなくなってしまうような気がするのだ。だから、今回の捜索も徒労に終わったとしても、やめるつもりはない。
ふと風が出てきて、伊月の頬を撫でていく。周囲の木々もざわざわと身を揺らし、葉擦れの音が鈴の名を呼ぶ伊月の声と重なる。
その直後、何者かの足音が鼓膜を揺さぶってきた。
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