二章 幼馴染
それぞれの決意
――幼い頃の伊月は、鈴のことがあまり好きではなかった。
鈴はいつだって、両親の関心を独り占めにしていた。勉強や運動も、伊月よりも鈴の方が得意だった。習い事の上達だって、いつも鈴の方が遥かに早い。
それに、鈴はどこに行っても、老若男女問わず周囲から愛されていた。卑屈に俯いている子供よりも、愛嬌があり、いつもにこにこと笑っている子供の周りに人が集まるのは自然なことだと、今ならば理解できるが、当時の伊月は理不尽に思っていた。
しかも、伊月は便宜上、鈴の兄だ。それなのに、何をしても妹より劣ってしまうのだから、血筋を重んじる八神家の方々から叱責を受けるのは日常茶飯事だった。
妹に負けるな。 八神家の血を受け継ぐお前が負けるとは、何事か。どうして、やんごとなき身分ではない娘に勝てないのか。
そんなことは、伊月の方が知りたかった。
だが、誰も教えてくれない。誰かに訊ねようものなら、そのくらい自分の頭で考えろと、やはりお叱りを受けてしまう。
だから、必死に考え続けていた。答えが出なくても、毎日のように思考を巡らせていた。
そんなある日、鈴が自室で一人声を押し殺して泣いている姿を見つけた。
その時、伊月はひどく驚いたのだ。あんなにたくさんのものに恵まれ、周りから愛されている鈴でも、涙を流すことがあるのか、と。
しかし、少し考えてみれば、当たり前だと納得した。
鈴だって、人間だ。泣きたい時くらいあるだろう。
それに、優秀ではないから咎められる伊月とは対照的に、鈴は八神家の正統ではないから、いくら成果を出しても否定されてしまうのだ。時には、ただそこに存在するだけで、嫌悪されるのだ。
果たして、どちらが不幸なのか。どちらも憐れなのか。
ただ、鈴がひっそりと泣いている姿に、僅かに安堵した。可哀想なのは自分だけではないのだと、仲間を見つけられた気がしたから。
でも、それ以上に鈴の涙を見たくないとも思った。
だから、庭の片隅に控えめに咲いている鈴蘭の花を一輪摘み、鈴の元へと戻った。
伊月の存在に気づいた鈴は、いつもの様子とは異なり、ひどく怯えていた。まるで、これから仕置きを受ける子供みたいに、青ざめた頬に大粒の涙が零れ落ちていく。
怖くないよと、自分は鈴の味方だよと伝えたくて、後ろ手に隠し持っていた鈴蘭の花を差し出すと、闇夜の森を連想させる暗緑色の大きな双眸が驚愕に見開かれた。そして、そうかと思えば、涙でぐしゃぐしゃの顔にいじらしい笑みを浮かべ、伊月が差し出した花を大切そうに受け取ってくれた。
「……ありがとう、いーくん」
こんな他愛もないことで感謝の言葉をもらえたのは、生まれて初めての出来事だった。特別なことができなくても、眩しそうに目を細め、嬉しそうな笑顔を向けてくれる鈴に、どくどくと心臓が高鳴っていったのを、今でも鮮明に覚えている。
それからの伊月は、泣いている鈴を見つける度に、笑顔にさせようと躍起になった。思い返してみれば、散々鈴を振り回してきたと思う。
だが、それでも鈴は、伊月が手を差し伸べると、迷わず手を取ってくれた。親鳥を慕う雛みたいに、伊月の後ろを素直についてきてくれた。
その後も、劣等感に苛まれ、鈴の目を直視できないことは度々あった。しかし、そういう感情を見て見ぬふりをしてでも、当たり前のように伊月へと差し出してくれる、鈴からの尊敬や感謝の気持ち、それから存在の肯定が欲しかったのだ。
だからこれから先、何があっても鈴と一緒にいたかった。ずっと一緒にいられるものだと、信じて疑いもしなかった。
それなのに、現実は伊月を裏切った。八神一族の面々も、伊月の願いを打ち砕いていったのだ。
でも、そんな中、鈴は時間をかけて伊月のところに戻ってきてくれた。きっと、鈴の帰還は奇跡だったに違いない。そう思えるほどに、成長した鈴が帰ってきた瞬間は劇的で、突然だった。
だから、もう二度と手放すまいと、鈴の身体を強く強く抱き竦めた。
もし――伊月から鈴を奪おうとする者が、また現れたならば。たとえ、そこに大義があったのだとしても。やむにやまれぬ事情があったのだとしても。
――絶対に許しはしない。
***
――今日の空も、抜けるような青さだ。さながら、鈴が少しずつ日常へと戻っていく様を、天までもが祝福してくれているみたいだ。
開け放した襖障子の向こうに見える鮮やかな緑から視線を引き剥がすと、鈴は改めて姿見に映る自分の姿を確認した。
五月ともなれば、時に夏を思わせる暑い日もあるものだが、衣替えを行うのは来月からだ。そのため、今月はまだ冬服の制服を着用しなければならない。
白いブラウスの上に濃紺色のハイウエストのブレザーを羽織り、胸元で臙脂色の細いリボンを丁寧に結ぶ。下にはジャケットと同じ色のハイウエストのスカートを穿き、黒いストッキングを合わせている。だから、元より足の露出度は高くないのだが、鈴はミニスカートがあまり好きではないため、スカート丈は膝丈にしている。
念入りに梳かした濡れ羽色の長い髪は、今日もまっすぐに腰まで流れている。髪型は、少々アレンジを加えたハーフアップにした。そして、髪の結び目には、昨夜伊月からプレゼントされた、鈴蘭のヘアカフが飾られている。
(……よし、変なところはなし、と)
一つ頷くと、自然と溜息が零れてきた。
身支度が終わったのだから、朝食の席に向かわなければならない。それ自体は憂鬱ではないのだが、家族で食事をする座敷へと足を運ぶということは、伊月と顔を合わせることを意味する。
昨晩、伊月ははっきりと、異性として鈴のことが好きだと告げてきた。そして、鈴は現状、伊月の想いには応えられないと判断した。
ならば、思わせぶりな言動は慎むべきだ。鈴が行方不明になる前のような、適切な距離を保つべきだ。
あの宣言の手前、十中八九、伊月は今まで以上に鈴との距離を詰めようとしてくるだろう。だが、鈴には鈴の考えがあるのだ。その辺りは、伊月にも理解して欲しいところだ。
(絶対に、負けないんだから!)
別に、勝ち負けの問題ではないのだが、このくらい気合いを入れなければ、伊月に押し流されてしまいそうだ。
鏡面に映る、ぐっと両の拳を握り締め、自分自身に喝を入れる鈴の顔は、まるでこれから戦場に赴く戦士のようだった。
***
(可愛い)
伊月が通い、今日から鈴も復学する比良坂学園の門の内側に入った途端、胸中でそう呟く。
朝食の席でも、八神家お抱えの運転手が学園付近まで送り届けてくれた、ロールスロイスの車中でも、車から降りた後も、鈴は表情こそにこやかだったものの、明らかに伊月を警戒していた。
昨夜の告白で、もう今まで通りにはいかないことは覚悟の上だったし、伊月自身これまで通りの関係は望んでいない。
しかし、恋愛対象になり得る異性として認識されたことは喜ばしい反面、鈴の一線を引く態度には一抹の寂しさを覚えていた。
我ながら我儘だなと思いながら、伊月から距離を取る鈴と一緒に学園の門をくぐったのは、つい先程のことだ。
今現在、鈴は伊月の背中にぴったりと張りつき、その手にブレザーの裾をしっかりと掴まれている。その上、鈴は不安そうに目を右往左往させている。
鈴がこうなったのは、学園の敷地内に足を踏み入れるや否や、伊月たち同様、登校中の生徒や既に学園に登校していた生徒から、穴が空きそうなほどの視線を浴びせられたからだ。
でも、鈴には申し訳ないが、こういう事態に陥るのも、ある程度仕方がないことなのだ。
鈴は五年もの間、行方知れずとなっていたのだ。その話は、学園というこの箱庭の中ではあっという間に広まり、知らない人の方が少ないだろう。
だから、その話題の渦中にある鈴が注目を集めてしまうのは、至極当然の流れだ。
しかも、五年の月日を経て無事生還した鈴は、人目を惹かずにはいられないほどの美貌を誇っているのだ。異性はもちろんのこと、同性までもが感嘆の吐息を漏らし、鈴の浮世離れした美しさに魅入られている。
だが、鈴からすれば、周りの生徒の事情なんて知ったことではないし、居心地が悪いことこの上ないだろう。
その上、鈴に向けられる視線の中には、あからさまな欲が滲んだものも含まれているのだ。外見は、大学生といっても通用しそうなくらい大人っぽくても、中身は失踪当時のままの鈴にとって、恐怖心を掻き立てられるには充分な代物だ。だから、何の躊躇もなく伊月を盾にしているに違いない。
(さっきまで、俺のことを警戒してたのは、どこの誰なんだか)
伊月の背に縋りついてくる鈴の姿は、不謹慎だと重々承知しているものの、大変可愛らしくてたまらない。今の鈴はぐっと背が伸び、日本人女性の平均身長よりも高いというのに、その仕草はどこか小動物じみている。そのギャップがまた、伊月の心を激しく揺さぶってくる。
鈴を厭らしい目つきで舐め回すように見る輩の眼球など腐り落ちてしまえばいいと、先刻までは心の中で呪っていたのだが、そのおかげでこうしてくっついてもらえているのだと思えば、多少は溜飲が下がるというものだ。
しかし、本人にそんな意図は微塵もないことは充分理解しているのだが、背に当たる非常に柔らかくて弾力がある感触には、どうしたものかと頭を悩ませる。伊月としては、このままでいて欲しい気持ち半分、今すぐ離して欲しい気持ち半分といったところで、本当に悩ましい。
離れて欲しいと頼んだら、かえって鈴の警戒心を煽ってしまうだろうかと考えていると、不意に暗緑色の眼差しが伊月を捉えた。
あまりにも澄んだ瞳に内心たじろぐと、鈴がはっと我に返ったように伊月のブレザーから手を放し、距離を取る。
「い、伊月。ごめんね」
「ううん、謝らなくていいよ」
伊月としては、むしろ感謝したいくらいだ。
鈴は慌てて伊月から離れたものの、またすぐに不躾な視線に気づいたらしく、不安そうに表情を曇らせた。そして、もう一度伊月をおずおずと見上げてくる。
(……可愛い)
そんなことを考えている場合ではないのだが、それでも可愛いものは可愛い。
再び鈴の手が伊月のブレザーの裾へと伸ばされたかと思えば、寸でのところでぴたりと動きが止まった。次いで、息を呑む音が微かに聞こえてくる。
こういう行動を取れば、伊月に気を持たせてしまうと思ったのだろう。気まずそうに、そろそろと鈴の手が引っ込められていく。
でも昨晩、伊月はもう待たないと、鈴に向かって宣言したのだ。そして、こんな絶好のチャンスをみすみす逃すほど、腑抜けたつもりもない。
素早く鈴の手を捕まえた途端、大きな暗緑色の瞳が驚いたように見開かれた。
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