地上の月

「――ありがとう、伊月。明日、さっそくこれつけてくね」


 今も昔も、鈴は伊月に救われている。 どうしたら、この恩に報いることができるのか。

 柔らかく微笑みかけながら、そんなことを考えていたら、伊月は一度鈴から視線を外した。どうかしたのかと思っていると、またすぐに暗緑色の眼差しが鈴の元へと戻ってきた。


「……鈴」

「ん?」

「俺も、明日からこの家を出て、寮で暮らすことになったから」


 伊月が突然告げてきた言葉の意味を、すぐに理解することはできなかった。うっすらと口を開け、眼前に迫る鈴と同色の瞳をぼんやりと眺める。

 しかし、鈍っていた思考が動き始めていくと、驚愕に目を見開く。


「……え、 どうして?」

「どうしてって……この家の居づらさは、鈴もよく知ってるだろ。それに、可愛い妹が困ってるなら、放っておけるわけないよ」


 可愛い妹というならば、この近過ぎる距離は何なのか。

 そう問い質したい衝動に駆られたものの、ぐっと呑み込み、慎重に声を出す。


「確かに、伊月にとっても居心地が良い家じゃないかもしれないけど……でも、なにも伊月まで出ていくことないでしょ。そもそも、おばあ様が許可を出したの?」

「もぎ取ってきた」

「もぎ……」


 その口振りから察するに、強引に事を推し進めたのだろう。だとすれば、祖母が納得しているとは到底思えない。

 鈴が言葉に詰まると、不意に伊月がこちらに向かって手を伸ばしてきた。咄嗟に避けようとした鈴を逃がさないと言わんばかりに、頬が伊月の両手に包み込まれた。


「俺が、鈴の傍にいたいんだ」

「……どうして」


 唇から零れ落ちてきた声は、先刻のような純粋な疑問の響きはなく、伊月の行動を咎めるものになっていた。


「伊月は、この家の当主になるんだよ? 今は、一族の人心掌握に専念するべきでしょ。今こそ、絶好のチャンスなんだから。それなのに、この家の厄介者に構ってばかりいたら、伊月の評判にも傷がつくかもしれないじゃない。せっかく、伊月の立場が安定してきたのに、これじゃあ……」


 ――台無しだ。

 そう続けようとした言葉を、咄嗟に喉の奥へと押しやる。きゅっと唇を噛み、視線を彷徨わせる。


 鈴を大切に想ってくれている伊月には、感謝している。それこそ、その恩に報いたいと思っているほどだ。

 でも、果たして伊月の鈴の傍にいたいという願いを叶えることが、恩返しになるのだろうか。


 純粋に、伊月個人を尊重するのであれば、本人の望みを叶えることは、これまでの恩に報いることに繋がるかもしれない。

 だが、八神家は非常に複雑で厄介な事情を抱えている。そして、伊月はこの家でこれから先も、生きていかなければならないのだ。ならば、伊月の私情に耳を傾けてばかりいては、かえって足を掬われるのではないか。


 伊月の願いと八神家の事情を、心の天秤に乗せる。天秤はぐらぐらと不安定に揺れ、どちらか一方には定まらない。

 鈴の本心としては、伊月の意思を尊重したい。しかし、伊月を取り巻く環境も鑑みる必要があり、上手くバランスを取らなければならないのだ。


 考えあぐねていると、伊月が右手の親指の腹で鈴の目元を撫でてきた。はっと視線を上げれば、伊月に顔を覗き込まれていた。

 鈴の顔を覗き込む伊月は、分かりやすく不機嫌そうな面持ちをしている。先程の鈴の発言で機嫌を損ねたのだと、すぐに分かったが、撤回する気にはなれない。


「八神家の当主の座、ね」


 そう呟くように言葉を零すと、伊月は皮肉っぽくやや薄めの形の良い唇の片端を歪めた。昼間に見た、祖母の仕草とよく似ている。


「鈴を犠牲にしてまで、そんなもの欲しくない」


 その言葉に、再度瞠目する。

 昔、伊月に八神家の当主の座が欲しくないのかと問いかけた時と、同じ答えが返ってきて、どう反応したらいいのか分からない。


「それに……鈴と一緒にいたいっていうのが一番の理由だけど、一応打算もあるんだ」

「……どういうこと?」


 微かに眉根を寄せると、伊月にするりと頬を撫でられた。そして、一旦頬が解放されたかと思えば、伊月の顔が耳元に寄せられた。


「――鈴の失踪には、多分八神家の人間も一枚噛んでる。しかも、結構な人数が関わってると思う。だから俺は、鈴の失踪に関わった一族の 人間を炙り出したいんだ」


 ――伊月と再会を果たしてから、今まで一度たりとも考えてこなかった疑惑を囁かれ、息が止まるかと思った。


 でも、少し考えれば、すぐに思いつきそうな可能性だ。

 鈴がいなくなって喜ぶ八神家の人間の顔など、ぱっと思い浮かべただけでも、両手の指の数だけでは足りないくらいなのだ。むしろ、鈴は何故これまで考えもしなかったのだろう。

 鈴に、それだけの精神的な余裕がなかったからだと自問自答している間にも、伊月の囁き声が耳元に落とされていく。


「だから、そういう意味でも鈴と一緒にいたいんだ。鈴を排除したい人間、俺と鈴の仲が良いことを良く思ってない人間、そういう事情がある上で実際に動ける人間……どれも、俺一人では見つけられなかった。だから、鈴に協力して欲しい」


 伊月が八神本家の屋敷を出て寮生活を始めると言い出した理由も、鈴の傍にいたいのだと言い張った動機も、今の説明で理解できた。

 だが、それでも疑問は残る。


「伊月は……どうして、そこまでしてくれるの?」


 鈴のために、伊月がどうしてそこまで必死になってくれるのか、そこだけはどうしても理解できない。


 伊月が鈴を特別に想ってくれていることは、身を以て知っている。家族だからという理由だけではないことも、薄々察している。

 しかし、だからといってここまで努力を重ねることができるのだろうか。


 鈴が行方不明になっていた間も、八神一族の怪しい人間を探っていたかのような口振りだった。しかも、独力で五年間も行っていたなんて、正直、正気の沙汰とは思えない。大抵の人は、時の流れと共に諦めを覚えるものではないのか。

 生きているのか死んでいるのか分からなかった人間のために、何故そこまで尽力してくれたのか。


「どうして……? 私のために、なんで――」

「――本当に分からない?」


 清涼感のある柔らかい声と一緒に熱い吐息が耳朶に触れ、びくりと肩が跳ね上がる。

 伊月の顔が、鈴の耳元からゆっくりと離れていく。でも、ほっと安堵の吐息を零す間もなく、もう一度伊月の両手に頬を挟まれてしまった。


「俺の目を見て、答えて。――本当に分からないの?」


 咄嗟に伊月から目を背けようとしたら、視線の先にある暗緑色の双眸が、すっと細められる。たったそれだけの仕草なのに、凄絶な色気を感じ取ってしまい、どうしようもなく逃げ出したくなった。


 ――伊月が怖いと、生まれて初めて思った。


 鈴の胸の内を見透かしているような物言いも、その眼差しも恐ろしい。

 だが、それ以上に――今、目の前にいる伊月が、鈴のよく知る義兄ではなく、全く知らない大人の男性に見えるからこそ、怖くてたまらなくなる。


 鈴が身に纏っているのは、長袖長ズボンの空色のパジャマだが、薄手の生地でできている。その上、入浴した後に誰かに会う予定なんてなかったから、身体を締め付けるような下着は身に着けていない。

 そのことが急に心許なくなり、ついパジャマの胸元の生地をぎゅっと握り締める。


「い……言いたくない」


 伊月から目を逸らすことが許されない状況ながらも、心を奮い立たせてはっきりと答える。


「今、正直に答えるのは怖い。でも、伊月相手に嘘を吐くのも嫌。だから……今は、答えられない」


 これが、鈴の嘘偽りのない、ありのままの本心だ。


 鈴が口を閉ざすと、二人の間に沈黙が落ちた。

 夜風が、鈴の長い濡れ羽色の髪を、伊月の緑の黒髪を攫っていく。それでも、互いに一瞬たりとも視線を逸らさなかった。


 互いに無言のまま、食い入るように相手を見つめてから、どれほどの時間が経ったのだろう。

 時間が止まってしまったかのような錯覚に陥っていたものの、伊月が深い吐息を零したことで、その感覚がようやく氷解した。


「……そっか。でも――俺はもう、大人しく待つつもりはないよ」


 伊月の右手の中指と薬指が、鈴の耳たぶを掠めた途端、背にぞくりと震えが走った。

 それでも、表情だけは何事もなかったかのごとく平静を装い、伊月をじっと見つめ返す。その唇がどんな言葉を紡ぐのか、ある程度予想がついてしまったからこそ、鼓動が激しく脈打つ。


「鈴――好きだよ。ずっと、ずっと、それこそ小さい頃から、君のことが好きだった」


 鼓膜を震わせたのは、予想通りの愛の告白だったにも関わらず、思わず息を呑む。それから、唇が中途半端に開かれ、震えた吐息が溢れ出していく。


「鈴と、ずっと一緒にいられるって、信じて疑いもしなかった。でも、実際はそうじゃなかった。だから、伝えられる時に伝えておけばよかったって、ずっと後悔してたんだ」


 だから、再会してからの伊月は、鈴への想いを決して隠そうとはしなかったのか。鈴と少しでも一緒にいるためならば、どんな手でも使おうと思ったのか。――異性としての好意を、包み隠さず鈴に告げたのか。


「今の鈴は、五年前から知識も感覚も止まったままだって、一応分かってるつもりだ。だから、こんなこと言っても、鈴を困らせるだけかも しれない。――でも」


 そこで一度言葉を切った伊月は、ふっと微笑んだ。ひどく蠱惑的なのに、どうしてか一際恐怖心を煽ってくる。


「謝らないから。さっきも言ったけど、待つつもりもない。俺なりに、鈴に好きになってもらえるように努力するから。だから、鈴もちゃんと俺のこと考えて欲しい。それで、いつかちゃんと返事も聞かせてもらうから。……覚悟しておいてよ?」


 鈴も、伊月のことが好きだ。きっと、家族としての好きではなく、一人の異性としての好きなのだと思う。だから、本来ならば、何の問題もなく伊月の想いに応えられた。


 しかし、今の鈴は見た目ばかりが年齢以上に成熟しているだけで、伊月の言う通り、心は五年前から止まったままだ。こんな状態のまま、安易に伊月の好意を受け取ろうものなら、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまいそうだ。


 おそらく、伊月の好きと鈴の好きは、あまりにも熱量が違う。

 鈴の伊月への想いはまだ幼く、淡く、ままごとみたいなものなのだと思う。それに、今はまだ好意よりも、伊月への尊敬の念や感謝の気持ちの方が遥かに上回っている。恋と呼ぶには未熟で、ふわふわとした夢物語みたいな感情なのだ。

 でも、伊月が鈴に向ける想いは、紛れもなく恋情と呼べるものだ。そして、そこには年相応に熱や欲も伴っているように見受けられる。


 その感覚が、鈴にはまだ理解できないのだ。

 鈴と一緒にいたいという気持ちは、本物に違いない。その感情は、鈴にもよく分かる。

 だが間違いなく、伊月は鈴とただ一緒にいるだけでは満足できないのだろう。その気持ちが、鈴にはよく分からない。


 言葉を失う鈴を余所に、突然伊月が顔を近づけてきた。


(え!? ええええええええええ!)


 内心どれだけ慌てふためこうとも、しっかりとその両手に頬を包み込まれているため、顔を背けて逃げることもできない。

 だから、反射的にぎゅっと目を瞑ると、瞼に柔らかな感触がそっと伝わってきた。軽やかな音を立ててから、すぐそこまで迫っていた気配がゆっくりと離れていく。


 おそるおそる瞼を持ち上げれば、どこか楽しそうにも困っているようにも見える微笑みが視界に映った。


「駄目だよ、鈴。男の前で、そんな無防備に目を閉じたりしたら」


 伊月だけには言われたくないと反論したかったのに、声が喉の奥で絡まり、唇からは吐息しか出てこない。頬に熱が上り、鼓動も呼吸も今にも乱れそうだ。


 ――先刻までは夜空に浮かぶ月に目を奪われていたのに、今はすぐ目の前で微笑む地上の月に心も視線も絡め取られていた。

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