初恋
「――鈴。今、入ってもいい?」
襖越しでくぐもって聞こえるが、それでも清涼感のある柔らかい声の主が誰なのか、鈴にはすぐに分かった。
「――うん、いいよ。伊月」
瞼を持ち上げてゆっくりと振り返れば、ちょうど襖を開けて鈴の私室に入ってきた伊月と視線が絡み合う。伊月は風呂上がりだったらしく、寝間着代わりの黒いルームウェアを着用し、肩から下げているフェイスタオルで髪の水気を拭っている。
「伊月、おいで。髪の毛、乾かしてあげるから」
髪が長い鈴からすれば、ドライヤーを使わずに洗った髪を乾かすなんて、信じられない。
縁側から自室へと戻り、風呂上がりに使ったドライヤーとヘアコームを取り出し、プラグをコンセントに差し込む。それから、ちょいちょいと手招きをすると、伊月は素直に鈴の元へとやって来た。
畳の上に腰を下ろした伊月の後ろに回って膝立ちになると、フェイスタオルを受け取り、その緑の黒髪の水気を丁寧に拭き取っていく。あらかた水気が取れたのを確認したら、今度はヘアコームで濡れ髪をさっと続いていく。
「乾かす前に髪梳かす必要なくないか?」
「こうして形を整えておいた方が、ドライヤーを使っても崩れにくいの」
「ふーん……」
その様子から察するに、今までろくに髪の手入れをしてこなかったに違いない。それなのに、伊月の髪はさらさらと指通りが良く、艶もあるなど、どういうことか。
若干の理不尽さを感じながら、ドライヤーのスイッチを入れて温風で伊月の髪を乾かしていく。時々、温風から冷風に切り替えたり、一旦ドライヤーを中断してヘアコームで髪を整えたりしているうちに、緑の黒髪が綺麗に仕上がった。
「はい、おしまい」
仕上がりに満足しつつ、ヘアコームをポーチの中に仕舞い、ドライヤーと一緒にボストンバッグの中に戻す。
明日から、鈴は寮生活を始める。そのため、明日の朝まで必要なもの以外は、既に寮に送ってしまった。
だが、長期休暇中は八神家に戻ってこないわけにはいかないし、寮の部屋には家具が備え付けてあるから、意外と自室の風景は寂しいことにはなっていない。
伊月の髪を乾かし終えるなり、再び襖障子を開けて縁側に出てちょこんと座り込む。それから、伊月へと振り返ってまた手招きをする。
「伊月もおいでよ、ここで話そ」
「……鈴、さっきまでそこにいたけど、湯冷めしてないのか?」
「そんなに寒い時期じゃないから、このくらい平気だよ。それに、今夜は月が綺麗だよ。一緒に見ようよ」
そう誘えば、伊月は溜息を吐きながらもこちらへと歩み寄ってきた。そして、鈴の隣にすとんと腰を下ろす。
しばしの間、二人揃って黙って夜空の月や星々を眺めていた。
伊月と一緒にいる時に流れる沈黙は、ちっとも苦にならない。むしろ、心地よく感じられる。
そうやって、穏やかな気持ちで月を見上げていたら、ふと肩にぬくもりと重みを感じた。同時に、シトラスミントみたいな爽やかな香りがふわりと鼻先を掠めていく。
咄嗟に隣を振り向くと、伊月が鈴の肩に頭を預けた状態で夜空に視線を投げかけていた。
驚きのあまり、動けずにいる鈴の視線に気づいたのか、夜空へと向けられていた暗緑色の眼差しに射抜かれた。
「――鈴。明日から学校だから、不安?」
伊月の名を呼ぼうとした直前、そう疑問を投げかけられ、つい口を噤む。
やはり伊月は、鈴の心の機微にひどく敏感だ。それとも、大抵の人はこういう状況に置かれたら不安に駆られるだろうから、そう訊ねてきただけなのだろうか。
誤魔化しても伊月には見抜かれてしまいそうだから、正直に頷く。
「……うん、そりゃあね。私、自分の見た目や伊月の変化にもついていけてないのに、みんなと会っても素直に喜べない気がして」
「一応、
撫子とは、鈴がなっちゃんと呼んでいた女の子の名だ。
確かに、撫子は姉御肌というか典型的な委員長タイプの女の子だから、鈴の世話くらいいくらでも焼いてくれるに違いない。
他の幼馴染たちも皆、良い人ばかりだから、事前に鈴の状況を知っていたら、それなりの対応をしてくれるだろう。
「……ありがとう、伊月」
「別に、このくらい大したことないよ」
伊月は微かに苦笑いを浮かべると、ようやく鈴から離れてくれた。
そのことにも安心していたら、伊月がルームウェアのポケットから何か取り出した。
「鈴、手出して」
「こう?」
伊月に言われるがまま右手を差し出すと、柔く握り込まれた拳が鈴の手のひらの上でゆっくりと開かれていく。
手のひらに伊月のぬくもりが移ったものの感触が伝わったかと思えば、鈴蘭を模ったヘアカフが姿を現した。
「わ……可愛い……!」
鈴にとって、鈴蘭は思い出深い大好きな花だ。見た目の可愛らしさに胸をときめかせたのはもちろんのこと、脳裏に蘇った記憶に思わず頬が緩む。
――昔から、八神本家の屋敷は鈴にとって本当に居心地の悪い場所だった。
養い親には随分と可愛がってもらえたし、鈴派と呼ばれる派閥があったくらいなのだから、鈴を支持する人間も少なからず存在した。
しかし、それでもどこの馬の骨とも分からない孤児だと蔑む視線には、しょっちゅう晒された。
そして何より、本来ならば何にも煩わされることなく、八神本家の跡取り息子として堂々と生きることが許されていた伊月の立場を不安定なものに変えてしまったことや、親の愛情を横取りしてしまっていたことに、幼いながらに罪悪感を覚えていたのだ。
幼少期の自分が、どれほど罪深い存在だったのか、当時の鈴が正しく認識できていたはずがない。それでも、ただ生きているだけでもひたすらに申し訳なく思っていたことは、うっすらと覚えている。
でも、そこで泣いてしまったら、ますます周囲に迷惑をかけてしまう気がして、人前で涙を流すことはできなかった。
それに、人前で泣けば、鈴を疎む人間をただ喜ばせるだけだと、付け込む隙を与えてしまうだけだと理解していたから、余計に涙を見せるわけにはいかなかったのだ。
だから、鈴は悲しいことや辛いことがあった時には、いつも自室でひっそりと泣いていた。部屋の外に泣き声が漏れ出ないよう、必死に声を押し殺していた。
そうやって、鈴なりに一生懸命に涙を隠していたというのに、伊月はいつもすぐに気づいてしまうのだ。
初めて部屋で泣いているところを目撃された時には、怖くてたまらなかった。
ざまあみろと、嘲笑されるだろうか。その程度で泣くなと、叱責されるだろうか。あるいは――何の感慨もなく、冷ややかな目で見られるのだろうか。
目の縁から溢れ出した涙を拭う余裕なんて欠片もなく、硬直してしまった鈴に構わず、伊月は仏頂面のまま近づいてきた。そして、後ろ手に隠していた一輪の鈴蘭の花を、ぶっきらぼうに鈴に差し出してきたのだ。
――これ、あげる。
――鈴蘭って名前の花なんだって。鈴と同じ漢字と響きの花だ。庭に咲いてたんだ。
――可愛いだろ。
伊月の口から、慰めの言葉も罵声も出てくることはなかった。唐突に、何の脈絡もなく鈴に花を差し出し、その説明をしただけだ。
だが、幼い少年が同い年の女の子のために自らの手で花を摘んで渡すなど、どれほど恥ずかしいことなのか、今ならばよく分かる。当時の鈴も、伊月の真っ赤に染まった頬を見て、本当は照れ臭いし、緊張しているのだと、何となく察することができた。
だからこそ、嬉しかった。
鈴のために鈴蘭の花をプレゼントしてくれたことももちろん嬉しかったが、伊月が自分のために勇気を出してくれているのだと、ひしひしと伝わってくるその表情も、言葉も、ひどく愛しかったのだ。
伊月が内心、鈴に複雑な気持ちを抱いていたことも、とっくに知っていた。
それなのに、鈴を気にかけて他愛もない話をしてくれた伊月に、救われた心地になった。
――ありがとう、いーくん。
だから、鈴は涙でぐしゃぐしゃの顔に精一杯の笑みを浮かべ、伊月が差し出してくれた鈴蘭の花を受け取ったのだ。
その日を境に、伊月は泣いている鈴を見つけると、また花を摘んでプレゼントしてくれたり、外に連れ出してくれたりした。二人とも幼かったから、遠くには行けなかったものの、鈴の手を引き、息苦しい場所からほんの一時でも解放してくれた伊月に懐き、慕うようになったのは、自然な流れだった。
(多分、あの時から私は伊月のこと――)
当時の記憶に想いを馳せつつ、喜びを噛み締める。
手のひらに落としていた視線を上げると、鈴と同じ暗緑色の瞳が間近にあった。
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