脱却

「話は変わりますが……鈴さん、約五年分の記憶がないと聞いています」

「はい」

「ですが、身体には何の異常もないのですよね?」

「お医者様からは、そう伺っております」


 事務的な質問に淡々と答えていくと、祖母は一つ頷いた。


「体調面で何の不具合も生じていないようなら、手続きが終わり次第、 復学なさい」

「はい、もちろんです」


 元より、鈴もそのつもりだったから、異論はない。


「ですが、おばあ様。そのことで、一つ相談があります」

「何でしょう、言ってごらんなさい」

「復学する暁には……私は、この屋敷を出ていくつもりです。許可さえいただけるようでしたら、寮に入って学園に通いたいのです」


 鈴と伊月が通っている比良坂ひらさか学園は、幼稚園から高等部まで入っている一貫校だ。そして、遠方からの学生を受け入れるため、また生徒の自立を促すため、高等部からは学園側で設けた寮に入って学園生活を送ることが可能になる。

 入寮に当たり、いくつか条件を満たさなければならないものの、おそらく鈴は問題ないはずだ。


 軽く頭を下げてからそっと祖母の様子を窺えば、凛は一つ頷いてくれた。


「ええ、構いませんよ。こちらから、学園側にその旨を伝えておきましょう」

「ありがとうございます、おばあ様」


 祖母に礼を告げてから隣の様子を確認すると、伊月は特に驚いた様子もなく、何事か考え込んでいるみたいだった。


(今さら、驚くことでもないか……)


 鈴は幼い頃からずっと、八神家の厄介者だったのだ。

 幸か不幸か、鈴は八神家の人間に求められる資質や才能には恵まれていた。だが、八神家の正統ではないという理由だけで、鈴は異端者の 烙印を押されていた。

 だからこそ、できるだけ早くこの家から抜け出したいのだ。


 鈴は中等部に進級して間もなく行方不明になってしまったため、これから中等部の授業を受けなければならないとはいえ、本来ならば高校三年生だ。寮に入れたとしても、そこにいられるのは一年間だけだろう。

 だから、来年からはこの家を出て一人暮らしをするつもりだ。そして、最低でも義務教育課程は修了させたい。可能ならば、高等部で身につけるべき知識も得たいところだ。


(でも、大学は諦めよう)


 鈴には五年のブランクがあり、これから埋めていかなければならない。仮に高等部の勉強ができたとしたら、その課程を修了する頃には社会人になるべき年齢になってしまう。

 世の中には、大学院まで進む人だって少なからずいるのだから、諦めなくてもいいのかもしれないが、鈴としては一刻も早く八神家から脱却するべく、精神的にも経済的にも自立したい。


(働きながら、勉強を続ける道もあるけど……)


 しかし、これまでなんだかんだ言って、八神家から経済的な恩恵を多大に受けてきた鈴が、勉学のためにどこまで頑張れるだろう。


 昔の鈴は、文武両道の優等生という評価を受けてきたものの、そこまで勉強が好きというわけではない。もし、何事もなく成長していれば、大多数の生徒と同じように大学に進学していたに違いないが、この状況でそこまで努力するのはなかなか難しい。強い目的意識がなければ、尚更だ。


「そうそう、鈴さん。今月の二十日には、伊月さんと貴女の誕生日パーティーがあります。急ごしらえではありますが、八神家の人間に相応しいものを用意させていますので、当日は誰に見られても恥ずかしくないよう、盛装をするように」


 誕生日パーティーという言葉を聞いた途端、憂鬱な気持ちが喉元まで込み上げてきた。

 伊月と鈴は、五月二十日生まれであるため、毎年五月下旬になると、華やかなパーティーが催されるのだ。


 でも、言葉通りに二人の誕生日を祝うというよりも、体の良い大人たちの見栄の張り合いと腹の探り合いの場として利用されているため、 伊月も鈴もこの行事があまり好きではない。

 それに、今度誕生日を迎えると、二人は十八歳になる。養女である鈴はともかく、伊月はそろそろ婚約者とか決められそうだ。


(もしかしたら、もういるかもしれないけど……)


 だが、もしそうだとしたら、再会早々、明らかに兄妹という関係性を超えた妙に近い距離で鈴に接したりしないだろう。養父だって、さすがに息子の振る舞いを咎めたに違いない。


「はい、おばあ様。ご温情を無下にしないよう、身の振り方には気をつけます」

「分かればよろしい。――二人とも、そろそろ下がりなさい」


 ようやく退室の許可を得られ、こっそりと溜息を吐く。ちらりと伊月を見遣ったものの、相変わらず大人しく口を噤んでいる。


 入室した直後こそ、祖母と不要な諍いを起こさないかと心配になったが、杞憂に終わってよかった。口を挟まないでくれた伊月への褒美に、好物である最中か大福を使用人に用意してもらおうか。


(でも、どっちも生ものだから、そう簡単には用意してもらえないかなあ)


 その時には、焼き菓子で手を打ってもらおう。

 そんなことを考えつつも、表面上は礼儀正しくその場を後にした。



 ***



「明日から、学校かあ……」


 自室の襖障子を開け、縁側に出てガラス戸を開け放ち、膝を抱えて座り込んでいた鈴は、夜空に浮かぶ月を見上げながら一人ぼやいた。


 ゴールデンウィーク中もゴールデンウィーク明けも、日用品や衣類を揃えたり、学園側の手続きを行ったりと、忙しなく過ごしていた。

 しかし、ようやく身の回りが落ち着き、明日から復学することになったのだ。


(私、ちゃんと日常に戻れるのかな……)


 家では、問題なく過ごせている。

 でも、生まれて初めての寮生活に久方ぶりの学園生活と、不安を覚えるには充分な要素が待ち構えている。


(なっちゃん、めのちゃん、マナちゃんも……五年前とは変わってるんだろうな……)


 鈴の大好きな幼馴染である女の子たちの顔を、頭の中に思い浮かべる。

 だが当然ながら、鈴の記憶の中にある三人は五年前の姿のままだ。


 鈴自身も伊月も、五年前から大きな変化が起きていたのだ。間違いなく、今の三人は鈴の思い出の中にある姿と変わっているのだろう。


(れんくんも、透輝とうきくんも、誠司せいじくんも……変わっちゃってるよね……)


 同じく幼馴染である男の子たちの顔も思い浮かべてみたものの、かえって憂鬱な気持ちが増してきた。

 自分自身や家族である伊月の変化に未だに戸惑っているというのに、果たして幼馴染たちの変化を今の鈴が受け入れられるのだろうか。


 考えても仕方がないことだと頭では理解しているものの、それでも不安は胸の奥底から止め処なく噴き上げてくる。

 溜息を零しつつ、月に向けていた視線を床へと落とす。


(でも……今は伊月の立場が安定してるみたいで、よかった)


 鈴が失踪する以前の八神家は、二つの派閥の間で揺れ動いていた。


 八神家の正統な後継者である伊月を順当に次期当主に推す伊月派と、養子ではあるものの、身体能力が高く命を奪う術にも長けている鈴を擁護する鈴派というものが存在したのだ。

 昔の伊月は、身体能力や殺しの技術が鈴よりも劣っていた。また、血に流れる神の力を引き出すのが、八神一族や月城一族の誰とも血が繋がっていないはずの鈴が、最も秀でていたのだ。


 その事実が発覚した当初、八神本家の敷地に捨てられていた鈴が、八神家の誰かの子供ではないのかと疑われた時同様、遺伝子検査を行った。しかし、やはり鈴は二つの一族の誰とも血縁関係になかった。


 だからこそ、血筋を重んじる派閥と実力を重んじる派閥は、長きに渡って争い続けていた。


 でも、鈴が五年もの間行方不明者となっていたがために、今では伊月派が優勢になったみたいだ。屋敷に流れる空気から察するに、そもそも今では鈴派は消えてなくなったのかもしれない。

 そう考えると、鈴の失踪も何も悪いことだけではなかったのかもしれないと思えてくる。


(こういうのを……怪我の功名とか、不幸中の幸いとかいうのかな)


 抱えた両膝に顎を乗せ、そっと目を閉じれば、夜風が髪を揺らしてさらさらと音を奏でていく。

 しばらく、そうやって物思いに耽っていたら、鈴の名を呼ぶ声が鼓膜を揺さぶってきた。

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