八神凛

「おかえりなさいませ、若様、姫様。……弓弦様は?」


 引き戸が開けられた先では、どこからか鈴たちが帰ってくるところを見ていたのか、複数の使用人が土間で深々と頭を下げている。


 若様とは、八神家の次期当主である伊月を指し、姫様は鈴を指している。ちなみに、婿養子であくまで当主代行に過ぎない養父は、名前の下に様付けされているだけだ。

 先代の当主だった養母は生前、御屋形様と呼ばれていた。伊月もその座を継げば、いずれそう呼ばれるに違いない。


(こういうところ、本当に時代錯誤だな……)


 しかし、八神家の起源を辿ると、室町時代から安土桃山時代くらいに行き着くみたいだから、こういう古い慣習が残っていたとしても、仕方がないのかもしれない。


「ただいま。父さんなら、あとから来るよ」

「ただいま戻りました」


 伊月に手を引かれるがまま土間に足を踏み入れ、上り口で二人揃って靴を脱ぐ。すると、出迎えてくれた使用人が、伊月のスニーカーと鈴のパンプスを流れるような早業で片付けてしまった。


「伊月。 まず、 お母さんのところに挨拶に行くね」

「ああ、そうだな。じゃあ、先に神棚のところに行くか」


 まずは洗面所へと向かい、手を清めて口をすすぐ。それから、居間に飾られている神棚の元へと行くと、神棚の前で二拝二拍手一拝と、お参りの基本の動作をする。

 神棚へのお参りを済ませると、次は養母が祀られている祖霊舎へと足を運ぶ。


(……お母さん)


 祖霊舎には、霊璽や神鏡が配置されている他、米や塩、水、酒、榊など基本的な供え物が並べられていた。そして、養母の遺影も一緒に飾られている。

 神棚へのお参りと同じ動作を行い、もうこの世にはいない養母に想いを馳せる。


(……お母さん、ごめんね)


 失踪していた間の記憶は、未だに戻ってこない。だから、その間養母を偲んでいたのか、微塵も覚えていない。

 それに、もしかするとここに祀られていたのは、養母ではなかったのかもしれないのだ。


(あの時、私が――)


 ――養母に申し出た通り、鈴がかぐやの贄になっていれば、よかったのだ。


 当時の記憶に引きずられ、過去に心を絡め取られそうになった直前、突然強く肩を掴まれた。

 はっと目を見開いて振り向くと、どこか険しい面持ちをしている伊月が鈴の肩を掴んだ手を放し、再び手を取られる。


「……鈴、疲れてるだろ。部屋に戻って、休もう」


 さながら、亡くなった実母に鈴を攫われるのではないかと恐れているかのように、伊月は早くその場を離れようとしていた。

 でも、和室を後にしようとした矢先、襖越しに声をかけられた。


「――若様、姫様。失礼致します」


 静かに襖が開けられると、使用人の女性が丁寧に一礼した。


「姫様、奥方様がお呼びです。あまり待たせることのないようにと、仰せつかっております」


 奥方様という呼び名が耳朶を打った直後、思わず頬が引きつりそうになってしまったが、寸でのところでぐっと堪える。


 奥方様とは、伊月の実の祖母であり、鈴の義理の祖母に当たる女性だ。

 八神家当主の妻は、奥方様と呼ばれるという決まりがあり、今のところその呼び名が使われる人物がいないため、祖母が引き続きそう呼ばれているのだ。


 できれば、義理の祖母と顔を合わせたくなかったのだが、呼び出された以上、無視するわけにはいかない。


「……分かりました、案内をお願いします」

「はい、こちらでございます」


 気が進まないながらも使用人の後に続こうとした寸前、伊月に手を掴まれたままだったことを思い出す。


「伊月。私、おばあ様のところに顔を出してから部屋に戻るから、先に――」

「――俺も行く」


 鈴の声に被せるように、伊月はきっぱりと言い切った。


「多分、あんまりいい話じゃないと思うけど……」


 使用人の女性に聞き咎められぬよう、伊月のすぐ傍に移動して小声で囁く。


「あのクソ婆が鈴にねちねち嫌味言うのなんて、日常茶飯事だろ。言われなくても、そのくらい分かる」


 鈴が濁した言葉を、伊月はいっそ清々しいほど、ばっさりと切り捨てた。


 分かりきっているのであれば、どうして自ら進んで同席しようとするのか。

 鈴が眉間に皺を寄せると、伊月の空いている手が伸びてきて、眉間の皺を指先でぐりぐりと揉み解された。


「俺が一緒にいれば、多少は話が早く終わるだろ」

「そうかなあ……」


 むしろ、祖母と孫息子の喧嘩が勃発する予感しかしない。二人とも、怒りの方向性こそ違えども、鈴が絡むと途端に喧嘩っ早くなるのだ。


「行くったら行く」


 こういうところは、昔と変わらないと心の中で呟く。

 伊月は幼い頃から、一度言い出したら聞かないところがあった。意志が強いといえば聞こえはいいが、要は非常に頑固なのだ。そして、そういう時は毎回といっていいほど、鈴が折れていた。


(しょうがないなあ……)


 こういうところこそ変化し、もう少し柔軟な思考ができるようになって欲しかったと思う反面、伊月の変わらない一面に密かに安堵している自分もいた。


「……分かった。それじゃあ、さっさと行って、さっさと部屋に戻ろっか」

「うん」


 伊月と手を繋いだまま祖霊舎が設置されている和室から出ると、少し離れたところで使用人の女性が待ってくれていた。伊月の姿を確認すると、あっという間に困り顔へと変わっていく。


(ですよねえ……)


 心の底から、使用人に同情する。このまま伊月まで連れていけば、祖母に余計な叱責を受ける可能性が高い。

 いざとなったら鈴が庇うつもりだし、いっそ伊月に全ての責任を押しつけてもいいのかもしれない。そもそも、鈴についていくと言い張ったのは、伊月なのだ。

 どうなっても知らないと、半ば自棄になりつつも、伊月と二人並んで廊下を進んでいった。



 ***



「――奥方様、失礼します。姫様をお連れしました」

「入りなさい」


 部屋の主の許可を得ると、使用人の女性は再度「失礼します」と断りを入れてから、しずしずと襖を開けていく。それから、鈴たちに視線で室内に入るよう促してきたため、祖母が待ち構えている和室へと足を踏み入れる。


 部屋の中に入ると、若葉色の着物と象牙色の帯を品よく身に着け、ロマンスグレーの髪をきっちりと結い上げている、美しくも厳格な空気を醸し出している、祖母であるりんの姿が視界に映る。

 五年ぶりに顔を合わせる祖母は、鈴の記憶に残っている姿とほとんど変わらない。そして、相変わらず祖母と伊月は顔立ちがよく似ている。


(でも、伊月はやっぱりお母さん似かな……)


 祖母と養母、それから伊月の三人は切れ長で涼しげな目元がそっくりなのだが、雰囲気は結構違う。

 養母や伊月にも、一見近寄り難い雰囲気はあるものの、物腰は柔らかい。だが、祖母は第一印象そのままに、取っつきにくさで己を武装しているような人だ。


 上座で正座している祖母に向き合う形で、下座に慎重に腰を下ろす。

 姿勢に気をつけながら正座した鈴から祖母は目を逸らし、当たり前のように隣に座った伊月に視線を移すや否や、怪訝そうに眉間に皺を刻んだ。


「伊月さん、何故貴方がここにいるのです。私が呼んだのは、鈴さんだけですよ」

「俺がいる場ではできない話ですか、おばあ様」

「……まあ、いいでしょう」


 初っ端から相手を挑発するような物言いをする伊月に、苛立ちを覚えたものの、祖母が取り合わなかったから、内心胸を撫で下ろす。

 そして、畳に三つ指をついて頭を下げる。


「……お久しぶりです、おばあ様。ただいま戻りました」

「顔をお上げなさい、鈴さん」


 祖母の許可を受けてから、ゆっくりと姿勢を正していくと、凛の射抜くような眼差しに晒された。


「お久しぶりですね。……五年前に比べて、随分とお変わりになられたこと。まるで売女ばいたのよう」


 そう告げた祖母の唇の片端は、皮肉っぽく歪められていた。

 しかし、ばいたという響きを聞いても、すぐにはどういう意味か分からず、目を瞬かせる。


(ああ……売女か)


 胸中で何度か呟いてみて、ようやく何を言われたのか理解する。祖母の視線が顔の下から腿の辺りに向けられていることに気づき、軽く唇を噛む。


 確かに、五年前に比べると、鈴の肉付きは格段に良くなっている。

 昔から身体を鍛えていたため、筋肉はついていた。でも、全身がしなやかに引き締まっていたから、どちらかといえば細身だった。見た目よりも重いというのは、八神家や月城家の人間にはよくある話だ。


 だが、今の鈴の胸はかなり大きく膨らみ、祖母は元より養母よりも豊満だ。太ももも、以前に比べてずっと柔らかい。だから、祖母の分かりやすい嫌味は、あながち的外れではないのかもしれない。


 とりあえず、黙ってやり過ごそうと考えていたら、隣からひんやりとした空気を感じた気がして、横目でそっと様子を窺う。

 鈴の横に腰を下ろしている伊月の横顔は、案の定、ひどく険しい。もし伊月が獣だったら、獲物に飛びかかる寸前の前傾姿勢を取っていたかもしれないと思うほど、その目は敵意に満ち溢れている。

 しかし、今のところ口を挟む気配はないため、じっと祖母を見据える。


 鈴は昔から、祖母に口答えをしたことはない。言い返したところで、事態が好転するとは思えないからだ。だから、基本的には大人しく従順に振る舞う。

 でも、心だけは屈服するまいと、幼い頃から決めている。その姿勢を崩さないためにも、どれほど相手が鈴を傷つけようとしても、決して目を逸らさない。


「ただ美しいばかりで、品性の欠片も感じられないその姿には、失望しましたよ。仮にも八神の姓を名乗るのならば、それに相応しい振る舞いを心がけなさい」

「……ご忠告、痛み入ります」


 もう一度畳に三つ指をついて頭を下げたが、今度は許可を得る必要を感じなかったため、すぐに顔を上げる。

 表情を変えずに祖母をまっすぐに見据えると、視線の先にある焦げ茶色の眼差しが鈴から僅かに逸れた。

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