起源
「もうすぐ、昼か……。——鈴、何か食べたいものはあるか? 帰る前に、鈴の退院祝いにどこかで食べていこう」
養父が運転してきたクラウンの後部座席に、伊月と共に乗り込むと、運転席に座った弓弦がこちらへと振り返りながら、そう訊ねてきた。
病院の中ではどこかよそよそしく、腫れ物に触るような態度を取られていただけに、以前と変わらない様子で声をかけられ、自然と嬉しくなってくる。
もしかしたら、五年ぶりに戻ってきた娘にどう接したらいいのか、養父なりに悩んでいたのかもしれない。
「んー……さっぱりしたものが食べたいから……お蕎麦がいいな」
爽やかな陽気ではあるものの、今日はそれなりに気温が高い。だから、何が食べたいかと質問されたら、ざる蕎麦が食べたくなってきてしまったのだ。
考え事をするため、自然と車の天井に向けていた視線を正面に戻せば、車のエンジンをかけた養父が笑い声を上げた。
「鈴、チョイスがなかなか渋いなあ」
「いいでしょ、食べたいんだから」
確かに、女子高校生が食べたがるものとは少々ずれているかもしれないが、それでも食べたいものは食べたいのだ。
ルームミラーに映る養父を軽く睨んでみせたものの、弓弦は柔らかな笑顔を崩すことなく、病院の駐車場に停めていた車を発進させた。
(お父さん……やっぱり、ちょっと老けたな)
病院で再会した時にも思ったのだが、五年前よりも目尻の皺が目立つようになってきた気がする。特に、こうして笑っている時は際立って見える。
伊月や鈴自身の変化があまりにも大きかったせいで、最初はそこまで変わっていないような気がした。でも、大人であっても、やはり五年も経てば、多少の変化は生じて当然だと痛感させられる。
義父との間に感じていた壁が、大分薄くなったように思え、車のシートにもたれかかりつつ深く息を吐き出す。
それから、何気なく隣をちらりと見遣れば、恐ろしく冷めた目で父親の後頭部を眺める伊月を横目に捉え、思わず息を詰める。
(え、なんで?)
病院にいた頃みたいに、あからさまに鈴と目を合わせないようにしていた養父にそういう視線を向けるのは、まだ分かる。
だが、鈴が失踪する以前のような親子らしいやり取りをする分には、何の問題もないはずだ。
それなのに、何故そんな目で実の父を見るのかと、密かに伊月を観察していたら、不意に暗緑色の瞳が鈴を捉えた。
咄嗟に息を呑んだ鈴とは対照的に、伊月はこちらへと顔を向けるなり、にっこりと笑いかけてきた。
「鈴、俺の顔に何かついてる?」
「あ、ううん……そうじゃなくて、お昼お蕎麦でもよかったかなあって、思って」
動揺しかけた心をすぐさま立て直し、表情を取り繕いながら無難な言葉を選ぶ。
血族意識が強い八神家において、鈴の足場は常に不安定な状態だった。だからなのか、自然と本心を押し隠し、表面上取り繕うことばかり上達していった。十中八九、今の鈴が浮かべている微笑みも、自然なものに見えているだろう。
しかし同時に、伊月は昔から鈴の内心を見透かすことに関しては、他の追随を許さないほど得意だった。だから、今も鈴が本当は何を思っているのか、薄々察していたとしても不思議ではない。
でも、伊月は少しだけ怪訝そうな表情を見せただけで、またすぐに笑顔に戻った。
「俺が和食好きなの、鈴も知ってるだろ? それに、鈴の退院祝いなんだから、鈴が食べたいものを食べにいこう」
「ありがとう、伊月」
伊月から視線を引き剥がして正面へと顔を戻すと、溜息が零れ落ちそうになり、慌てて噛み殺す。
(何だか、疲れるなあ……)
だが、八神本家の屋敷に戻れば、今以上に相手と腹の探り合いをしなければならなくなるのは、目に見えているのだ。この程度で音を上げているようでは、到底八神家で生き残れない。
とりあえず、空腹を満たして英気を養おうと、心に強く誓った。
***
昔々あるところに、黒檀のような黒髪と雪のように白い肌、闇の森を連想させる暗緑色の双眸を持つ半神がいた。その半神の名は、かぐやという。
かぐやは月の光のごとく、美しく清らかで、不老長寿の身でもあった。
老若男女問わず、その類稀なる美貌に、永遠にも等しい命に恋い焦がれたのは、必然だったに違いない。
しかし、懸想するだけに留まらず、浅ましくも人の欲を満たすために、かぐやに強引に子を産ませ、生き血を啜り、ありとあらゆるものを剥奪し続けた、五人の男がいた。
最初は慈悲から施しを与え、いつしか不老不死へと変質していた半神は、ついに怒り狂い、呪詛を吐き出す。
――お前たちの子孫は、お前たちが望むように美しく、長い時を生きるだろう。
お前たちの家も、繁栄し続けるだろう。
ただし、この五つの家の血を継ぐ子は、ただ一人の例外もなく、生まれながらに狂うだろう。
あるいは、狂わずにはいられない運命を辿るだろう。
お前たちに関わる人間も、一人残らず呪い、滅ぼしてやる。
そう簡単に死ぬことは、絶対に許さない。生きて、苦しめ。
こうして、五人の男たちの家は、子々孫々に至るまでかぐやの呪いを受けた。
あれほどかぐやに執着していた家々は、途端に手のひらを返し、自分たちを呪った半神を恐れた。そして、どんな手を使ってでも、かぐやの呪いから逃れようとしたのだ。
呪いから解き放たれるべく、様々な手を打つうちに、やがてとある山伏へと辿り着く。
五家のうちのある家が、その山伏に泣いて縋り、慈悲を乞う。
そう、かつてかぐやにそうしたように。
件の山伏は憐れんだのか、呪われた者たちに救いの手を差し伸べた。
いつ、呪いが解けるか分からない。必ず解呪できると、約束もできない。
でも、打てる限りの手を打ち、呪いを解く術を探し続けることだけは、ここに誓おう。
そう誓いを立てた山伏は妻子を連れ、人里へと下り、五家の人間のために解呪へと尽力した。
その結果、三つの事実が判明した。
一つは、かぐやの呪いは、五家の人間が身の程もわきまえずに半神の血を取り込んだがために、血を通して子々孫々へと脈々と受け継がれてしまっていること。もう一つは、山伏を祖とする一族の人間をかぐやがその手で殺めれば、一時的に半神としての力や怒りが薄まるということ。
そして、最後は不老不死であるかぐやであっても、致命傷を負えば、呪いの効力が弱まるということだ。
かぐやの呪いをさらに解明していくため、危険を承知の上で、山伏を祖とする一族は半神の血を取り込み、子から子へと受け継いでいった。また、時には自らの一族に名を連ねる人間を半神への供物として捧げた。神殺しの方法も模索した。
自ら呪いに関わったがために呪われた一族は、時の流れと共にやがて二つの家に分かたれていく。
その二つの家は現在、それぞれ八神と月城と名乗っている。
だが、未だかぐやの呪いは解けず、五家も後から加わった二家も、依然呪われたままだ。
***
外で昼食を済ませてから、高速道路を利用し、八神本家に戻ってくると、厳しい雰囲気が漂っている立派な門が鈴たちを出迎えた。
養父は慣れた様子で門の下をくぐり、車を走らせていく。八神家の敷地は広いから、車庫に辿り着くまでにも、意外と時間がかかるのだ。
やがて車庫に到着し、あとは車をバックさせつつ中に入れるだけという段階で、養父が後部座席を振り返った。
「伊月、鈴。先に降りなさい」
「うん、分かった」
「お父さん。ここまで運転してくれて、ありがとう」
伊月が軽く頷き、鈴が感謝の言葉を伝えると、養父はほんの少し照れ臭そうに破顔した。
「いいんだよ。車の運転は、父さんの趣味なんだから」
本来ならば、現在八神家の当主代行を務めている養父は、自動車の運転をする必要なんてない。車を使っての外出をする際は、八神家で代々雇っているお抱え運転手に頼めば済む話だ。
しかし、養父は先代の八神家当主だった養母に婿入りした立場だからなのか、この家の家風にずっと馴染めずにいるみたいだ。本人も言った通り、趣味のドライブは未だに続けているらしい。
だからこそ、八神家の意識改革に意欲的だった養母の目に留まり、婿養子にと望まれ、身元が分からない鈴を引き取ることへの抵抗が少なかったともいえる。
養父に促されて車から降りると、五月らしい爽やかな風が頬を撫で、鈴の長い髪を嬲っていく。髪の毛先が目に入りそうになり、ついきつく瞼を閉ざす。
吹きつけてきた風が止んだ頃を見計らい、ゆっくりと目を開けようとした寸前、自分のものではないぬくもりが頬に触れてきた。
驚いて即座に瞼を持ち上げれば、すぐ目の前に伊月が立っていた。鈴の頬に張りついていた髪を指先でさっと払い、丁寧に乱れを整えていく。
「あ……ありがとう」
今までの伊月ならば、絶対にしなかった行動に不意を突かれながらも、礼を告げる。
もう、とっくに綺麗に整えられているはずなのに、惜しむように鈴の髪に触れていた伊月は、ふっと微笑むと、ようやく手を放してくれた。
「……どういたしまして。それじゃあ、行こうか」
伊月は当然のように鈴の手を取ると、ゆっくりと歩き出した。どうやら、鈴の歩幅や歩調に合わせてくれているみたいだ。
(そういえば、伊月と手を繋ぐのって、いつぶりだろ……)
幼い頃は、しょっちゅう手を繋いでいた。というよりも、伊月が有無を言わせずに鈴の手を引っ張り、あちこち連れ出していたのだ。
あちこちとはいっても、幼い子供が行ける場所なんて限られている。八神家の敷地内か、せいぜい近所までだ。だから、周囲の大人たちに特に止められることもなかった。
でも、身体が小さかったからか、もしくは八神家の敷地が広大だからか、幼かった鈴にとってはまるで冒険そのものだった。
きっと、伊月にとっても八神家に流れる空気は息苦しいものだったのだろう。鈴と小さな冒険に繰り出す時は、いつもどこか生き生きして見えた。そして、二人手を繋ぎ、その季節にしかないものや物珍しいものを探し回っていた。
だが、当然といえば当然なのだが、成長していくにつれて手を繋がなくなっていき、庭や近所を探検することもなくなった。
ふと、幼い頃の他愛もない無邪気な思い出が脳裏に蘇ってきたからか、今さらながら伊月と手を繋ぐことに懐かしさを覚える。
利便性を考えれば当たり前なのだが、車庫から屋敷の玄関までは比較的近い。伊月と歩き始めて程なく、新たな門が見えてきた。
もう一度壮麗な門をくぐると、玄関口まで続く飛び石の上を歩いていく。飛び石を踏みしめる黒いローヒールのパンプスの音が、微かに鼓膜を震わせる。
ちょうど玄関口の前に二人並んで立ったところで、引き戸が内側から開けられた。
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