変化
(伊月……?)
痛みに耐えるかのような表情を、笑顔によってあっという間に覆い隠されてしまい、眉間の皺が一層深まっていく。
鈴が知っている伊月は、こんな器用な人ではなかった。どちらかといえば要領が悪く、思っていることがすぐに顔に出てしまうタイプだった。
だが、今鈴の目の前にいる伊月は、完璧なまでの綺麗な微笑みで、様々な感情を包み隠してしまっている。
鈴がいなくなってから、五年もの歳月が流れているのだ。伊月にどんな変化があったとしても、不自然ではない。
それなのに、その変化をやけに寂しいと思ってしまっている自分がいる。
「そういえば、鈴。一応、鈴の着替えをお手伝いさんに用意してもらったけど、足りないものはある? 下のコンビニで揃えられそうなものなら、買ってくるけど」
唐突に話題を変えられ、一瞬虚を突かれてしまったものの、慌ててこくこくと頷く。
「う、うん。お昼を食べた後に一応確認してみたけど、一通り必要なものは入ってたから、大丈夫だよ」
五年前から、鈴の身長も体型も大きく変わってしまっている。一応、検査を受ける際に身体測定も受けたから、それを基準にサイズを選べば問題ないだろうが、メーカーによっては表示されているサイズよりも、大きかったり小さかったりする。
しかし、この状況で贅沢は言っていられない。多少サイズが合わなかったとしても、そこは我慢するしかない。
「そっか。なら、よかった。――二日間、たくさん検査を受けて、疲れただろ。今日はもう、夕飯を食べたらゆっくり休んで」
名残惜しそうにしつつも、伊月は鈴の頭を撫でていた手を放した。
「明日、迎えにくるから。 まだちょっと早いけど、おやすみ。鈴」
「うん……おやすみなさい、伊月」
椅子から腰を上げ、軽く手を振ってくれた伊月に、鈴も手を振り返す。伊月は椅子を元の場所に戻すと、幾度も鈴へと振り返りながらも、病室を後にした。
病室に一人取り残されると、ぱたんと手を下ろす。
(……お父さん、結局顔を出してくれなかったな)
いくら本家への連絡が忙しいとはいえ、少し顔を出すくらいの余裕はあったはずだ。これは、明らかに鈴を避けている。
検査の付き添いをしていた時も、医師からの説明を受けていた際も、そうだった。意図的に鈴と目を合わせないようにしていたし、偶然視線がかち合ってしまった時は、何故かひどく怯えた顔をしていた。そして、そんな父親を妙に冷静に観察していた伊月の姿も、強く印象に残っている。
「帰りたく、ないなあ……」
個室に一人きりという状況に甘え、独り言を零すなり、上体を起こしているのも億劫になった鈴はベッドに仰向けに倒れ込む。それから、目を閉じて一切の光を拒絶する。
伊月とは一緒にいたい。帰ってきた鈴を何かと気にかけ、甲斐甲斐しく面倒を見てくれている伊月は絶対的な味方だと、心の底から信じることができる。
でも、誰が味方で誰が敵なのか見極めなければならない、油断ならない八神本家には帰りたくない。五年もの間失踪していた鈴の居場所が本家に残っていると思えるほど、楽観視はできない。
本日三度目の溜息を深々と吐き出すと、寝返りを打って背を丸め、頭から掛け布団を被った。
***
――翌日。帰り支度を済ませた鈴は、義父が退院手続きを行っている間、待合室の椅子に伊月と二人並んで座っていた。
ぼんやりと受付にいる義父の後ろ姿を眺めていたら、隣から視線を感じて何気なく振り向く。
鈴をじっと見つめていた伊月と視線が交錯した途端、どうしてか嬉しそうな微笑みを向けられた。
「鈴、そのワンピース可愛いな。よく似合ってる」
「あ……ありがとう……?」
――まただ、と内心呟く。また、五年前とは違う伊月の一面を発見してしまった。
昔の伊月は、こんな風に笑顔でさらりと服装を褒めるという高等芸など、できるような男の子ではなかった。珍しく鈴の装いをたどたどしく褒めてくれたかと思えば、顔を真っ赤にして俯いてしまうような、可愛らしい男の子だったのだ。
それが今はどうだろう。神秘的で優美な顔を見るからに優しそうな微笑みで彩り、蕩けるような眼差しで鈴の顔を覗き込んでくる。おかげで、必要以上に距離が近い気がする。
その上、いつの間にそんなものを身につけたのかと問い詰めたくなるような、独特な色香を醸し出しているものだから、ついじりじりと後退りたくなってしまう。だが、鈴は一番端の席に腰を下ろしてしまったため、そんなささやかな抵抗も叶わない。
(昔の可愛かった伊月を返して……)
ここで立ち上がって場所を変えたら、あからさまに逃げていると誰の目にも映ってしまう。本当に、どうしてくれようか。
「確かに、このワンピース可愛いよね。選んでくれた人のセンスが良くて、助かったよ」
伊月の言う通り、鈴が今身に纏っているワンピースは、確かに可愛い。
伊月から目を逸らして視線を落とせば、身体を締め付けない、ゆったりとした形のパールホワイトのワンピースが視界に映る。
襟元や七分丈の袖口、膝丈のスカートの裾にはチャコールグレーの繊細なレースがあしらわれており、胸元にはレースと同色の小ぶりなリボンが飾られている。シンプルではあるものの、その分大人っぽく控えめな可愛らしさが添えられているワンピースだ。
おそらく、鈴が今身を包んでいるもの全て、八神家御用達の外商から買い取ったに違いない。
八神家は、やたらと体面を保つことにこだわるため、内心どれだけ疎ましく思っていようとも、鈴にも相応の格好をさせていた。そういうところは、今でも変わらないみたいだ。
こっそりと溜息を吐きつつ、意識を切り替えるために頭を振り、鈴も伊月に微笑みかける。
「ごめん、言い方が悪かった。――そのワンピースも、それを着てる鈴も可愛い」
――誰か、顔を引きつらせなかった鈴を全力で褒め称えて欲しい。
(伊月、本当にどうしちゃったの……?)
五年の間に、伊月の身に本当に何があったのか。
無難な切り返しをしたにも関わらず、さらに直球な褒め言葉を頂戴してしまった鈴が、再度礼を告げればいいのかと困惑していたら、ちょうど手続きを済ませてきたらしい養父がこちらに戻ってきて、内心胸を撫で下ろす。
「伊月、鈴。遅くなって、ごめんな。もう手続きは終わったから、帰ろうか」
「うん」
素直に頷いて立ち上がろうとした矢先、鈴よりも早く椅子から腰を上げた伊月が、正面に立ち塞がった。
一体何事かと目を丸くする鈴に向かって、伊月が柔らかく微笑みかけながら手を差し出してきた。
「――お手をどうぞ、お姫様」
――思いがけない対応に頭がついていかず、呆気に取られてしまった鈴は、別に悪くないと思う。
養父も、実の息子の行動にぽかんと口を開けているし、数は少ないものの、近くにいた患者たちも伊月をまじまじと見つめている。たまたま近くを通りかかった看護師の女性なんて、小さな悲鳴まで上げている。
鈴が伊月の顔と大きな手のひらを交互に見遣っていたら、いつまで経っても椅子に腰を下ろしたまま立ち上がろうとしない義妹に焦れたのか、手を掴まれたかと思えば、そのまま強い力に引き上げられた。引っ張られるがまま立ち上がった鈴がたたらを踏むと、すかさず伊月に支えられた。
「大丈夫?」
「う、うん……」
立って歩けるかということに関しては、何の問題もないから、迷わず大丈夫だと言い切れる。しかし、伊月からこういう扱いを受けたことがないから、この対応に限っていえば、全く大丈夫ではない。
「い、伊月……」
「ん? どうかした?」
「こういうの、伊月は恥ずかしくないの……?」
伊月は現在、高校三年生でもうすぐ十八歳になる。伊月曰く、今は十八歳で成人するらしいが、それでも高校生の男の子であることには、変わらない。その年頃の男の子が同い年の女の子にこういうことをするには、かなりの勇気が要るのではないか。
戸惑いつつもそう問いかければ、伊月は若干照れ臭そうにはにかんだものの、鈴の手をそっと握ってきた。そして、またあの蕩けるような甘い眼差しを、何の躊躇いもなく鈴に注ぐ。
「まあ、多少恥ずかしいけど……それ以上に今は、鈴と一緒にいられるのが嬉しくて」
嬉しいから、こういうことをしてしまうというのか。つまり、今の伊月は相当浮かれているのではないか。
衝撃が身を貫いたものの、鈴は五年間も行方不明になっていたのだ。生存は絶望的だと判断されてもおかしくなかったのだから、それだけ伊月に心配をかけていたのだと改めて思い知らされ、罪悪感が胸を締め付けていく。
そこを突かれると、強く出られない。
「鈴は嫌?」
「嫌じゃ、ないけど……」
嫌ではない。ただ、どうしても戸惑いが拭えないのだ。
伊月との兄妹仲は、比較的良好だったと思う。鈴はよく面倒を見てくれた義兄に懐いていたし、伊月も自分のことを慕う義妹を可愛がってくれていた。そんな二人の間には、淡い恋心めいたものも芽生えていた気がする。
でも、戸籍上は双子の兄妹であるため、表立ってその想いを相手に見せることはしなかった。それは、互いに言葉にせずとも暗黙の了解となっていたはずだ。
だが今の伊月は、率先して鈴との沈黙の掟を破っているように思えてならない。
「じゃあ、このままでもいいよな」
伊月は嬉しそうに笑みを深めると、鈴の手を引いて歩き出す。手を引かれるがまま伊月についていく鈴は、胸元でぎゅっと手を握る。
(……どうして? 伊月)
今すぐにでもそう問い質したい衝動に駆られたが、いざ言葉にしてしまったら、後戻りできなくなってしまう気がする。
ただでさえ、今の伊月の振る舞いについていけないというのに、鈴から踏み込んでしまったら、引き返せないところまで追い求められ、退路を塞がれてしまいそうで、怖い。
だから口を噤み、隣を歩く伊月をおずおずと見上げる。
今日の伊月は、コバルトグリーンの七分袖のカットソーにアイボリーのスラックスという、至ってシンプルな格好だが、浮世離れした美形だからか、背が高いからか、はたまたスタイルが良いからか、まるでスポットライトを浴びている役者みたいに存在感を放っている。
(うん、今の伊月、役者さんみたい……)
出会った当初や二人きりの時にはそう思わなかったのだが、何だか今の伊月はどこか演じているように見える。役どころは、鈴をお姫様のようにエスコートする、優しい恋人といったところだろうか。
(それにしては、押しが強いけど……)
伊月は、鈴の絶対的な味方だ。そこだけは、間違いないと思う。
しかし、どこまで心を許しても大丈夫なのか、そこはまだ判断がつかない。きっと、これから見極め見定めていくしかないのだろう。
不安が胸を過り、心細さから伊月と繋いでいる手を控えめに握り返せば、強い力が鈴に応えてきた。
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