一章 帰ってきた少女
帰ってきた少女
「……疲れた」
そう呟くと同時に、鈴は力なく病室のベッドに倒れ込む。
――鈴が目を覚ました時には、既に病院に運び込まれ、ベッドの上で横たわっていた。ずっと手を握り、鈴の意識が覚醒するのを待ってくれていたらしい伊月と目が合うと、分かりやすく安堵に表情を緩めていた。
だが、のんきに伊月と微笑み合っていられる時間は、そう長くは続かなかった。
伊月がナースコールで鈴が目を覚ましたことを伝えるや否や、すぐに看護師が駆けつけてくれたのだ。そして、何だかよく分からないうちに病室から連れ出され、診察室へと連れていかれたかと思えば、怒涛の勢いでいくつもの検査を受けさせられた。
周囲の医療スタッフに教えてもらって初めて知ったのだが、鈴が病院に運び込まれたのは、ゴールデンウィークの真っ只中だったのだという。
幸い、鈴は病院に救急搬送されて間もなく意識を取り戻した上、検査結果は一部を除いて異常が見受けられなかったため、明日無事退院できる。
しかし、大型連休中だというのに、結果的に入院病棟に二泊三日も居座ることになってしまい、申し訳なさを覚える。
鈴に細やかな対応をしてくれ、個室を割り当ててくれたのは、救急車で搬送されてきた患者だからという理由の他に、名家の娘だからというのも大きいのだろう。
(……とはいっても、養子なんだけどね)
生まれ育った家は尊いに違いないが、鈴本人は出自もろくに分からない孤児なのだから、こういう待遇は素直に喜べない。
もう一度溜息を吐いていると、病室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「はい」
看護師が様子を見にきたのかもしれないと、慌てて居住まいを正しながら返事をすると、病室の引き戸が静かに開け放たれた。
「――鈴、明日退院できるんだって? お疲れ様」
開け放たれた引き戸の向こうから姿を現したのは、鈴を山の麓の別荘まで運んでくれたという伊月だ。何か買い物でもしてきたのか、その手にはビニール袋が提げられている。
伊月の顔を見た途端、何だか急に気が緩み、ほっと安堵の吐息を漏らす。
「うん。よかったよ、病気になったわけでも、怪我をしたわけでもなくて」
鈴が腰かけているベッドに歩み寄ると、伊月はベッドの上にテーブルを設置し、手にしていたビニール袋を置いた。それから、かさかさと音を立てつつ袋から苺フルーツサンドを取り出した。
「鈴、これ好きだっただろ? 疲れた時には、甘いものが効くから」
目を大きく見開きながら、はうはうと口を動かしていたら、フルーツサンドをテーブルの上にそっと置いた伊月が、にっこりと微笑みかけてきた。
「どうぞ、召し上がれ」
「い、いただきます……!」
伊月の言葉を皮切りに、さっそくフルーツサンドを包装しているビニールを丁寧に剥がしていく。そして、期待を胸にフルーツサンドに齧りつく。
「おいひい……!」
ふわふわのパン生地に、たっぷりと詰まっている甘い生クリーム、程よく酸味が効いている甘酸っぱい苺。苺フルーツサンドを構成する全てが三位一体となって、鈴の舌を喜ばせる。
本当に、食事制限が設けられるような病気にならなくてよかったと、心の底から思う。
できれば、もっとゆっくりと味わって食べたかったのだが、夢中になって頬張っているうちに、気づけば食べ終わってしまっていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
鈴が無我夢中でフルーツサンドを食しているうちに、伊月は部屋の隅に置いてあった椅子をベッドの脇まで持ってきたらしく、そこに腰を下ろしていた。
一体、どれだけフルーツサンドに熱中していたのかと、気恥ずかしさを覚えつつも伊月に笑いかける。
「伊月、ありがとう。これ、どこで買ってきてくれたの?」
「下のコンビニ」
「……コンビニスイーツって、こんなにおいしかったっけ」
コンビニスイーツは決して捨てたものではないという認識は、鈴の中にもあるが、思い出の中のコンビニスイーツよりもさらに進化を遂げているように思えてならない。
「コンビニスイーツって、年々進化してるから」
「そっか。……じゃあ、五年も経てば、私が覚えてるよりも、もっともっとおいしくなってて当然だね」
精密検査を受けた結果、一部を除いて鈴に異常は見受けられなかった。
そう――危惧した通り、鈴には十二歳から十七歳までの五年分の記憶がない。
しかも、伊月曰く、鈴はその五年間、信じられないことに行方不明になっていたのだという。
大人たちからは、何も覚えていないのかと再三確認されたが、何度自身の記憶を振り返ってみても、その五年間は空白のままだ。
医師からは、身体には何の異常も見受けられないのだから、そのうち自然と思い出せるようになるかもしれないと慰められたものの、その程度では鈴が受けた衝撃が和らぐはずがない。
「……お父さんは?」
「父さんは、本家に連絡を入れてる」
「……そう」
本家とは、八神本家を指し、同時に鈴と伊月の生家でもある。
鈴の育ての親であり、伊月の実父である
でも養父の顔を見て、鈴の帰還は歓迎されていないのだと察することができた。
別に、養父は薄情な人ではない。実子である伊月と分け隔てなく育ててくれた恩は、一生忘れない。
だが、それでもどういう理由があるのか知らないが、鈴には失踪したままでいて欲しかったのだろう。
八神本家の敷地に捨て置かれていた、身元が分からない赤子を引き取ると決め、愛情を注いで養育してくれた義父がそんな様子なのだから、元より素性が怪しい鈴を快く思っていなかった人々の顔を思い浮かべると、頭が痛い。特に、伊月の立場を守りたくて必死なあまり、鈴への当たりがきつかった義理の祖母とは、なるべく顔を合わせたくない。
再び溜息を零しながら、ゆっくりと窓辺に視線を移す。窓越しに射し込む夕日が眩しくて、 思わず目を細める。
「私がいなくなって、五年経ったってことは……お母さんの五年祭は終わっちゃったんだよね」
「うん、母さんの五年祭は去年の夏にやったよ」
鈴の養母であり、伊月の実母である
「……伊月、ごめんね」
「なんで、鈴が謝るんだよ」
何となく伊月と目を合わせづらくて、窓の外に視線を固定したまま謝罪の言葉を口にしたら、清涼感のある柔らかい声にそう問われた。
「約束……守れなかったから」
伊月の問いに目を伏せつつ答え、唇を噛み締める。
義母の葬式が終わった後、鈴は涙を流す伊月を抱きしめながら約束したのだ。
何があっても、鈴は伊月の傍からいなくならないと。毎年、法事とは別に二人で一緒に母の死を悼もうと。
しかし、鈴が行方不明になったことにより、どちらの約束も反故にしてしまった。
ベッドの上に投げ出されていた両手で拳を作り、ぎゅっと握り締めていたら、労わるように大きな手に包み込まれた。
はっと我に返って勢いよく振り向くと、二対の暗緑色の眼差しが一つに絡み合う。
「……鈴が謝ることなんてない、鈴には何の責任もない。だから、謝るなよ」
切れ長で涼しげな目元が、苦痛を堪えるように歪められている。声は少し掠れ気味で、どことなく息苦しさを感じさせる。鈴の手を包み込む伊月の手に、そっと力が込められていく。
(……私には?)
気のせいかもしれないが、妙にそこが強調されていたように聞こえた。まるで、鈴以外の誰かには責任があるとでも言いたげな口調だ。
でも、微かに眉根を寄せた鈴に疑問を投げかける隙は与えられず、伊月は先程までの穏やかな笑顔に戻った。それから、鈴の手を放したかと思えば、今度は頭に手を置き、優しく撫でてくれた。
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