八神鈴
人ならざる者がいるのかと、いざという時に障害にならないように荷物を投げ捨て、辺りに視線を走らせるものの、それらしき存在は見受けられない。息を殺して耳を澄ませ、聴覚に神経を集中させる。
聞こえてくる足音は、飛ぶような速さでこちらへと確実に近づいてきている。人ならざる者だと言われても納得できるほど、その音はひどく軽やかだ。
しかし、その足音を聞いているうちに、だんだんと奇妙な懐かしさが胸の奥から込み上げてきた。
まさかという思いが脳裏を過った途端、前方の茂みが大きく揺れた。そして次の瞬間には、凄まじい勢いで何かが飛び出してきた。
――視界が、黒く染まる。りん、と高く澄んだ鈴の音が鼓膜を震わせる。
驚愕に目を見開く中、視界を染め上げた純黒の正体が、長く豊かな濡れ羽色の髪だと気づく。鈴の音は、艶やかな黒髪に飾られている髪留めから鳴らされたものだと、ゆっくりと理解していく。
――突如として伊月の目の前に現れたのは、天女が空から舞い降りてきたのではないかと錯覚するほど、美しい少女だった。
八神家の女性が禊を終えた後に身に着ける、巫女装束とも呼ばれる白衣と緋袴が鮮烈に目に映る。その上に羽織っている千早の裾が、ふわりと揺れる。
神秘を宿した装束に反し、布越しでも分かるほど、少女は豊満な身体つきをしている。しなやかに引き締まっているところは変わらないものの、明らかに柔らかな曲線を描いている胸部と腰からは、危うい色香が匂い立ってくるかのようだ。背も随分と伸び、顔立ちもぐっと大人びている。
でも、白い肌も濡れ羽色の長い髪も、澄んだ光を秘めた暗緑色の瞳も、何一つ変わらない。
喉の奥から急激に熱いものが込み上げてきて、声を出せずにいると、少女の花びらみたいに淡く色づいた唇が、うっすらと開かれていく。
「――伊、月?」
清廉な透き通った声に名を呼ばれたら、もう駄目だった。
「――鈴……っ!」
気づけば、鈴の細腕と後頭部を掴み、抱き寄せていた。いきなり抱きしめられたからか、伊月の腕の中にすっぽりと納まった鈴が、息を呑む気配が伝わってきた。
だが、放す気など微塵もない。鈴の腕を掴んでいた手を滑らせて腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめ直す。
掻き抱いた鈴の身体からは、白桃のように甘く瑞々しい香りが立ち上り、伊月の鼻腔を満たしていった。
***
――誰かに、呼ばれた気がした。今すぐ、その人に会いたいと思ったのだ。
衝動的に湧き上がってきた想いに突き動かされるまま、声がした方向へと走っていけば、見慣れぬ青年の姿を視界が捉えた。
見上げなければ目線が合わない長身は、記憶の中の姿と全く一致しない。記憶にある少年は、鈴とほとんど背丈が変わらなかったはずだ。 まるで、一気に数年分成長してしまったかのようだ。
しかし、驚きに見張られている、鈴と同じ色素を持つ双眸や緑の黒髪、神秘的で優美な顔立ちは、思い出の中の少年と一致している。
「――伊、月?」
だから、考えるよりも先に、義兄に当たる少年の名を舌の上で転がしていた。
鈴がそう呼びかけた途端、青年の切れ長で涼しげな目元がくしゃりと歪められた。
「――鈴……っ!」
鈴の名を呼ぶ清涼感のある柔らかい声は、記憶に残っているものよりもずっと低い。
そう思ったのも束の間、唐突に力強く腕と後頭部を掴まれたかと思えば、抱き寄せられて思わず息を呑む。
伊月は、こんなにも力が強かっただろうか。触れ合う身体は、鈴のものとは全く違う。
一目見ただけでは分からなかったものの、いつの間にか伊月は随分と体格に恵まれていたみたいだ。もしかしたら、伊月は着痩せするタイプなのかもしれない。親戚の刀祢もそうなのだから、不自然な話ではない。
八神家の修行を積んでいれば、いつしかこうなるのが必然だったのかもしれないが、それにしても今の伊月と鈴では、体格に歴然とした差があることに、戸惑いを隠せない。
咄嗟に身動ぎをしたものの、伊月が鈴を解放する気配は欠片もない。
どうしようかと目を泳がせていたら、自分が儀式の際に身に着ける装束一式を着用していることに、今さらながら気づく。
(……どうして?)
どうして、自分は今こんな格好をしているのか。何故、二人揃ってこんなところにいるのか。
急に数年分くらい成長してしまった伊月の姿にも驚かされたが、こうして見てみると、鈴も同様の成長を遂げているように見受けられる。
(私……何も覚えてない?)
伊月と、何か大切なことを話し合っていたことは、うっすらと思い出せる。でも、そこから現在まで、一気に時間が進んでしまったかのような錯覚を受ける。
いや――実際、そうなのではないか。
そこまで思い至った直後、ぞっと背筋に悪寒が走った。
「――鈴、鈴。鈴……」
もう一度、今度は続けて名を呼ばれ、はっと我に返る。何度も、愛しげに。
「鈴……生きてて、よかった」
湿った吐息と共にその言葉が耳朶を掠めていくと、胸中に生まれていた恐怖も混乱も、瞬く間に収束していく。
その代わり、不思議とどうしようもなく泣きたくなってきた。
「い……つ、き……」
泣くのを我慢するのは、慣れている。
「ぅ……あ……」
そのはずだった。
「あ……うあああああああああああああああああああああああ……!」
それなのに、気づけば幼子みたいにみっともなく声を張り上げて泣き出していた。伊月が優しく頭を撫でてくれるものだから、ますます大きな声を張り上げ、目尻から溢れ出した大粒の涙を止め処なく流し続けた。
鈴を抱き竦める伊月の背に、おそるおそる手を回す。やはり、身体の厚みが鈴のものとは全然違う。
だが、今はその違いがひどく頼もしく感じられた。
だから、放すまいと言わんばかりにその背にしがみつき、ぎゅっと目を閉じる。瞼を閉ざせば、余計に涙が押し出されていき、頬を濡らしていく。
髪にそっと触れていた伊月が、不意に鈴の肩に顔を埋めた。すると、触れ合っているところからすぐに生地越しに濡れた感触が伝わってきたから、もしかすると伊月も泣いているのかもしれない。
何か言葉をかけたいのに、ずっと酷使していた喉からはまともな声が出てこなくて、ただ抱きしめ返すことしかできなかった。
***
――一体、どれほどの間、鈴と抱きしめ合っていたのだろう。
やがて鈴の声が優れていき、泣き声が止んだかと思えば、突然その身体からがくんと力が抜け落ちた。
慌てて顔を上げて腕の力を緩め、鈴の顔を覗き込もうとしたら、支えが弱まった身体はそのまま膝から崩れ落ちそうになってしまった。
急いで抱き留め、顔を上げさせても、鈴は目を閉じたままぴくりとも動かない。
咄嗟に脈を測ってみたものの、特に異常はない。ただ、唐突に意識を失ったみたいだ。
(……素人の判断は当てにならないからな。念のため、専門家に診てもらわないと)
涙の痕が幾筋も残る頬に張りついた、一房の黒髪を指先でそっと払う。それから、慎重に意識がない鈴の身体に腕を回し、抱き上げる。万が一にも首が仰け反らないよう、鈴の頭をしっかりと胸に抱き寄せる。
ここは電波が届かない。だから、救急車、あるいはドクターヘリを呼ぶにしても、電波が届く場所まで移動しなければならない。
(とりあえず、別荘まで移動するか)
霊山での修行の際に滞在する八神家の別荘が、山の麓にある。そこまで急いで戻り、然るべき対処をしなければならない。
鈴の身体を抱え直すや否や、目的地まで走って下山する。鈴を抱えているため、飛ぶようにとはいかないものの、それでも一般人からすれば驚異的な速さで山道を駆け下りていく。
やがて、目的地である別荘の敷地内に足を踏み入れれば、ちょうど庭の手入れをしていた使用人たちが、何事かと言わんばかりにこちらへと振り返った。そして、伊月に抱きかかえられている鈴の姿を目に留めるなり、まるで幽霊でも目撃した人間みたいな面持ちで凝視してきた。
(……さあ、どう出る)
どうして、鈴は五年もの間、行方知れずとなっていたのか。何故、伊月以外の八神家の人間は、まともに鈴の捜索に乗り出さなかったのか。どうして、鈴と一緒に刀祢も失踪していたのか。
何故――そんな目で、鈴を見つめているのだろう。
普段ならば、この程度で息を乱したりしないのだが、今は心臓が胸を突き破りそうなほど暴れ狂っている。
視界に入る使用人全員を観察するため、ひたと見据えたまま呼吸を整え、口を開く。
「――山奥で、鈴を見つけた。急に意識を失ったから、すぐに救急車を呼べ。 それから八神に名を連ねる者全員に、このことを知らせろ」
鈴の失踪にどんな思惑が絡んでいたのか、今はまだ分からない。
しかし、どんな理由があったにせよ、伊月から五年もの間鈴を奪ったことは、揺るがない事実だ。そして、鈴の失踪に関わった人間がいるのならば、伊月はその人間を許す気など砂粒ほどにもない。
未だ意識を手放したまま、無防備に伊月に身を任せる鈴を、一際強く抱き寄せた。
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