幼馴染

「鈴。学校久しぶりだから、どこに何があるのか、よく覚えてないだろ? 俺が案内してあげるから――おいで」


 ふわりと微笑みかけ、囁きかけるようにおいでと口にするなり、鈴の雪のように白い頬にさっと朱が走った。恥じらうように目を伏せ、先程とは全く違う意味でその視線は定まっていない。ついでに、どこかから小さな悲鳴が聞こえてきたが、鈴の一挙手一投足に目を離せずにいる伊月にとっては、そんなものは雑音でしかない。


(鈴、隙だらけだよ)


 そんなに無防備でいては、瞬く間に隙を突かれてしまう。


 鈴は決して鈍いわけではないし、昔は伊月より駆け引きが得意だった。

 だが、この五年の間に、かつての感覚を忘れてしまったのだろうか。もしくは、五年前の鈴はまだまだ子供で、色恋沙汰には無縁だったから、恋愛にまつわる駆け引きに関しては、あまり得意分野ではないのだろうか。


(うーん……思った以上に、危なっかしいな……)


 病院から退院する際、鈴はやたらと異性の目を惹きつけていたから、なるべく周囲を牽制するように心がけていたのだが、どうやらその判断は間違っていなかったらしい。むしろ、これからはもっと積極的に鈴との仲の良さを見せつけた方が、より効果的かもしれない。


 そんなことを考えていたら、ふと鈴が伏せていた視線を持ち上げた。それから、意を決したような面持ちで伊月を見つめ、遠慮がちではあったものの、手を握り返してきた。


「お……お願いします」


 緊張で震えた声でそう告げたかと思えば、頬をますます赤らめ、再度しおらしく双眸を伏せた。そして、鈴自ら伊月の隣に並び立つ。


 ――その一連の反応に、完膚なきまで伊月の心が叩きのめされたのは、言うまでもない。何なら、理性は撃ち抜かれ、続いて爆発四散してしまった。


 しかし、それでも必死の抵抗で理性の欠片を掻き集めて立て直し、無事総動員してみせた伊月を、褒めて欲しい。


(なんだ、この可愛い生き物は……)


 昔から、鈴は可愛かった。今では、信じられないくらいの美人になっただけではなく、幼い頃からの可憐さもしっかりと引き継いでいるなんて、卑怯だ。

 内心身悶えつつも鈴を怯えさせないよう、柔らかく微笑む。ちらりと伊月を見遣った鈴も、普段と比べるとずっとぎこちなかったものの、控えめに微笑んでくれた。


 二人手を繋いだまま、昇降口へと向かおうとした矢先、明るさの中に落ち着きのある声が唐突に耳朶を打った。


「――ちょっと、そこのお二人さん。あんまりイチャイチャしてると、必要以上に目立つわよ」


 その声には、多分に呆れが含まれている。次いで、深い溜息も聞こえてきた。

 鈴に向けていた視線を動かせば、そこにはモデルみたいに背が高くスタイル抜群の女子生徒が、腕を組んで伊月たちを眺めていた。


「あ、おはよう。撫子」


 鈴と同じ、比良坂学園高等部の制服を身に纏っている女子生徒――和泉いずみ撫子に朝の挨拶をすると、形の良い眉がぴくりと持ち上がった。いかにも気が強そうな目元も、微かに歪められている。

 それから、苛立ちを表すように、鈴よりも短いスカートからすんなりと伸びている長く美しい足が地面を軽く蹴る。幼少期の撫子であれば、ここで飛び蹴りの一つでも披露したに違いない。


「あのねえ……伊月。貴方に頼まれて、私、ずっと昇降口の前で待ってたのよ? それなのに、いつまでもイチャイチャ、イチャイチャと……。何なの? 見せつけたかったの?」

「うん」


 撫子相手に見せつけたかったわけではないが、周囲の目にはしっかりと焼きつけておきたかった。

 でも、こんな端的な返事で伊月の意図が伝わるわけがないし、撫子はそこまで察しが良くない。案の定、琥珀の双眸が剣呑にすっと細められる。


「……なっちゃん?」


 撫子の薄く形の良い唇が言葉を紡ぐよりも早く、大人しく事の成り行きを見守っていた鈴が、ぽつりと声を零した。


 伊月へと注がれていた琥珀の眼差しが鈴へと移されるや否や、濡れ羽色の長い髪がふわりと袖に触れた。そう認識した時には、鈴は伊月の手を振り解き、撫子の元へと駆け寄り、勢いよく抱きついていた。鈴に抱きつかれた拍子に、ポニーテールに結わえられている撫子の射干玉の黒髪が、さらりと揺れる。


「なっちゃんだー!久しぶりー!」


 いきなり抱きつかれて目を白黒させている撫子に構わず、人懐っこい子犬みたいに鈴はじゃれついている。


「なっちゃん、ちょっと見ないうちに随分綺麗になっちゃって! もう、モデルさんみたい!」

「……何その、久しぶりに会った親戚のおば様みたいな台詞は」

「だって、本当に久しぶりだし、全部本心だよ!」


 鈴は撫子にぎゅうっと抱きついたまま、蕩けそうな笑顔でそう答えた。

 そんな鈴に毒気を抜かれたのか、撫子は苦笑いを浮かべ、濡れ羽色の髪に覆われた小さな頭をそっと撫でた。


「……本当に、鈴なのね。そっちこそ、随分と見違えたわ。久しぶり、よく帰ってきたわね」

「うん! ただいま、なっちゃん」

「――おいおい、撫子お。鈴を独り占めしてんじゃねえぞ」

「もう、めのちゃん。久しぶりに会えたんだから、しょうがないよ」


 美少女同士の抱擁だって、充分に目立つではないかと口を挟もうとした寸前、さらにしなやかな強さを宿した声と物静かで可憐な声まで加わってきた。

 一体、どれほど伊月は鈴に意識を奪われていたのだろう。残りの幼馴染の女子二人がすぐそこまで来ていたことに、全く気づかなかった。


「あ、めのちゃん! マナちゃん! 久しぶりー!」

「よお、鈴。おひさー」


 鈴がぱっと撫子から離れた直後、今度は不知火しらぬいめのうにぎゅっと抱き竦められていた。

 鈴に負けず劣らず、腰まで届くほど長いミルキーブロンドは、柔らかく波打っている。猫みたいなアーモンドアイはヘーゼルで、光の加減で明るいブラウンにも緑にも見える。にいっと不敵な笑みの形に歪められている唇は、ふっくらと厚みがあり、紅を差していなくても瑞々しい赤に染まっている。


「めのちゃん、相変わらず美人さんだねー。それに、すっごく色っぽくなっちゃって、同性でもドキドキしちゃうよー」


 鈴は自分よりも小柄なめのうの頭を、上機嫌に撫でていた。


 確かに、美しさだけでいえば、鈴がこの中では一番だが、最も色気と華があるのはめのうだ。

 現に、撫子よりもさらに短いスカートから惜しみなく晒されている、陶器のように白い足は、大多数の異性の視線を引き寄せかねない危うさがある。履いているソックスも短いから、必然的に露出されている肌面積もその分広い。それに、日本人とオランダ人のクオーターであるためか、エキゾチックな雰囲気を漂わせている。


 だが、幼馴染である伊月は知っている。その艶やかな唇から吐き出される言葉の多くは、好戦的で容赦がなく、まるで刃物のようであることを。その艶めかしい足から繰り出される蹴り技が、ひどく凶悪であることを。


「だろー? ――なんなら、あたしが鈴を女にしてやろうか?」

「よく分かんないけど、全力で遠慮しておく!」


 精神年齢が大体十三歳くらいで止まっている鈴には、確かにめのうの婉曲的な言い回しを理解するのは難しいのだろう。しかし、持ち前の勘の鋭さから、見事に危機を回避してみせている。


「もうっ、めのう! 伊月から事情は聞いてるでしょ? あんまり鈴をからかわないの!」


 見かねた撫子が、鈴にべったりとくっついているめのうを、べりっと引き剥がす。

 その隙に、素早くめのうから距離を取った鈴は、最後の幼馴染である少女ににっこりと微笑みかけ、またぎゅっと抱きしめた。


「マナちゃん、久しぶり。相変わらず、可愛い!」

「うん、久しぶり。鈴ちゃん、すごい美人さんになったね。びっくりしちゃったよ」


 和やかに言葉を交わす、ショートボブカットにしている黒茶色の髪の少女である森愛未もりまなみは、甘えるように柔く抱擁する鈴の肩に頬擦りをしている。愛未が小柄で華奢であるためか、他の二人を抱きしめた時よりも、気を遣っているように見える。


 めのうをビスクドールにたとえるならば、愛未は日本人形みたいな美少女だ。

 鼻も唇も小さく控えめであるものの、見るからに優しそうな黒目がちの垂れ目は大きく、兎や栗鼠を思わせる容貌だ。内気な性格や色白の肌、それから自然と相手の庇護欲をくすぐる雰囲気なども、小動物らしさに一際拍車をかけている。


 それにしても、こうして四人が集まるところを見たのは久しぶりだが、ひどく華やいだ光景だ。

 花にたとえるなら、鈴は可憐な鈴蘭、撫子はその名の通り清楚な撫子の花、めのうは大輪の赤い薔薇、愛未は奥ゆかしい菫といったところだろうか。

 鈴に幼い頃からプレゼントしているうちに、多少花に詳しくなった伊月はそんなことを考える一方で、不満を募らせていた。


 先刻、撫子から必要以上に目立っていると注意を受けたが、こうして美少女四人が集まっていたら、それはそれで注目を集めてしまうではないか。

 それに、撫子の姿を目の当たりにした途端、あっさり伊月の手を放した鈴も気に食わない。鈴に抱きしめられ、遠慮なく密着している女子たちが、大変妬ましい。


 五年ぶりの再会で、鈴がはしゃぐのも無理はない。鈴は元々、心を許した相手には子犬みたいに無邪気に懐くし、スキンシップも多い。そんな鈴は、幼馴染の女性陣から昔から愛されていたし、甘えられてもいた。

 だから、幼馴染と再会すれば、鈴を中心に人が集まってくるに違いないと予測自体はしていたものの、実際その光景を目の当たりにすると、面白くない。鈴を横取りされた気分だ。そして、そんな自分の心の狭さにも辟易する。


 複雑な心境で眼前に広がる光景を眺めていたら、急に鈴がこちらへと振り返った。その拍子に、濡れ羽色の長い髪がなびき、伊月がプレゼントした鈴蘭の髪飾りが陽の光を弾き、きらりと輝く。

 虚を突かれた伊月を余所に、鈴はこちらに手を差し伸べてにっこりと微笑んだ。


「伊月、学校の案内をしてくれるんでしょ? 早くしないと、遅刻しちゃうよ」


 まるで伊月の心を見透かしたかのごとく、鈴が朗らかに笑いかけてくる。


(……敵わない、なあ)


 いつだって、鈴はそうだ。

 伊月が寂しさを抱えていると、いつも振り向いてくれる。伊月に笑顔で向き合い、手を伸ばしてくれる。


「……うん。時間ギリギリまで案内するよ、お姫様」


 苦い笑みを零しながらも、せめてもの抵抗とばかりにそう告げて鈴のたおやかな手を取ると、もう一度その頬が赤く色づいた。

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