過保護

「――よし、これで午前の授業は終わりだ」


 授業終了のチャイムが鳴ると同時に、鈴に国語の個別指導をしてくれていた女性教諭は、深く息を吐き出した。


 伊月は宣言通り、授業開始時間直前まで鈴に高等部の校舎内の案内をして、この特別教室まで送り届けてくれたのだ。


 学園側と八神家の協議の結果、鈴は高等部の教育課程を終えるまでは、個人指導を受けることになった。

 もし、一、二年程度の歳の差であれば、鈴はほぼ確実に中等部の教室に編入していただろう。

 でも、今の鈴と中等部の一年生では、五歳も歳の差がある。さすがに、本来ならば五学年上の女子生徒が中等部の生徒に紛れ込んでいたら、嫌でも目立つ。鈴が今さら中等部の教室に溶け込むには、無理がある。かといって、高等部の三年生の教室に編入させたところで、今の鈴が授業についていけるわけがない。


 そこで、一応今年度は高等部の三年生の適当なクラスに名前だけ在籍し、体育や選択芸術の授業だけはそのクラスの生徒と一緒に受け、主要な五教科はこうして個別指導を特別に受けることになったのだ。だから鈴は、高等部の制服に身を包んでいるのだ。

 とはいえ、鈴が制服を着用するのは、今年度いっぱいだ。来年度からは私服登校になるか、あるいは通信教育に切り替わるのかもしれない。


 元々、 八神家の中には鈴に通信教育を受けさせる考えもあったみたいなのだ。

 だが、比良坂学園の学園長が、せめて一年間だけでも学生生活を送らせたらどうかと提案してくれたおかげで、鈴はこうしてまた学園に通うことができるようになったのだ。


 正直、得るべき知識を身につけられるのであれば、鈴自身はどちらの授業形態でも構わないと思っていた。

 できれば八神本家の屋敷から出たいとは考えていたものの、そこまで学園という組織に執着はしていなかった。いざとなれば、本家の面々に頼み込み、アパートでも借りてそこで一人暮らしをしつつ、通信教育を受けてもいいと考えていたのだ。

 しかし、今朝撫子たちと再会してみて、普通の生徒と同じように学生生活を送るという経験の得難さを、ようやく実感できた。


 そんなことを思い返しながら、ほうっと吐息を零し、開いていた国語の教科書とノートを閉じる。

 一応、鈴は中等部の一年生の授業を四月いっぱい分までは受けていたのだが、そんなものは勉強したうちには入らない。だから、念のためということで、最初から授業を受け直すことになった。

 とはいえ、午前中いっぱいの授業では、この一年を通してどういう勉強をするのかという説明と、簡単な導入だけで終わってしまった。


(でも、中一の最初の頃の授業って、こんな感じだったよね……)


 その辺りの記憶は、今ではあやふやになってしまっている。何故か知らないが、鈴が失踪する直前の記憶は全て、かなり曖昧になっているのだ。

 鈴が机上の荷物を片付けていると、今まで国語の授業を行ってくれていた女性教諭が、苦笑いを浮かべた。


「久しぶりの授業はどうだ?」

「……はっきり言って、今日は授業らしき授業を受けていませんから、何とも言えません。宝条先生」


 鈴を見下ろす女性教諭である宝条雪菜ほうじょうゆきなに苦い笑みを返すと、大きく頷かれた。


「それもそうだな。でも、八神……ああ、私が受け持ちのクラスにも八神がいるから、鈴って呼ぶな」

「はい」


 授業の初めに、雪菜は伊月が在籍しているクラスの担任教諭だと教えてくれた。八神という姓は、比較的珍しい部類に入ると思うのだが、鈴も伊月も八神姓の生徒であるため、雪菜にとってはややこしく感じるに違いない。


「鈴は初等部での成績が優秀だったんだから、中等部の授業についていくのは多分困らないだろ。高等部の授業になると、ちょっと分からないが」


 落ち着いた色合いの赤いルージュが引かれた、雪菜の厚みのある唇に、再び苦笑いが浮かぶ。

 男性的な話し方や中性的で芯の強さを感じさせる声、それから全身ジャージである事実が、ざっくばらんな印象を与える一方で、雪菜は色香漂うクールビューティーそのものの顔立ちに、肉付きが良くなった鈴をも凌駕する豊満な肉体の持ち主だ。

 それに、身に着けているのは動きやすいジャージであるものの、薄く施された化粧は清潔感があるし、シニヨンにしてまとめている栗色の髪は非常に艶やかで、自身の見た目に無頓着というわけでもなさそうだ。

 男女問わず、熱烈な支持を受けていそうだと、胸の内で呟く。


 撫子と同じくらい背が高い雪菜を見上げていると、廊下から足音が聞こえてきた。こちらへと近づいてくる足音に内心首を傾げるのとほぼ同時に、特別教室の引き戸が開かれた。


「――失礼します」

「お、伊月。妹のお迎えか?」


 雪菜は、伊月のことも鈴のことも、下の名前で呼ぶことにしたみたいだ。


「はい、そんなところです」


 雪菜のからかうような問いに、伊月はにこやかに受け答えしつつも、足早に鈴の元へと歩み寄ってきた。


「鈴。昼休みになったから、食堂に行こう。みんなは先に行って待ってるよ」

「え、そうなの? じゃあ、待たせたら悪いから、早く行こっか」


 慌てて机の上の教材を片付けるなり、席を立つ。それから、雪菜に向かってぺこりと頭を下げる。


「宝条先生。わざわざ個別指導をしてくれて、ありがとうございました」

「それが、あたしの仕事だから、気にすんな。じゃあ、また次の授業でなー」

「本当に、ありがとうございます。 失礼します」


 再度頭を下げると、伊月と共に特別教室を後にする。


「鈴、久しぶりの授業どうだった?」

「それ、宝条先生にも聞かれたよ。うーん……午前中の授業はほとんど『こういうことやりますよー』って説明で終わっちゃったからなあ。よく分かんない。午後も、そんな感じだと思う」

「そっか、気疲れはしてない?」

「うん、みんなが気遣ってくれたおかげかな。そんなに疲れてないよ。心配してくれて、ありがとう。伊月」

「どういたしまして」


 伊月が鈴に柔らかく微笑みかけた途端、廊下に散らばっていた生徒からざわりとざわめきが起きた。


(うーん……伊月、モテるのかな?)


 鈴が見上げた先にある顔は、神秘的で優美だ。切れ長で涼しげな目元からは、凛とした印象を受けるものの、今は穏やかに細められているからか、優しそうだという印象の方が強い。

 男性相手にこういう表現を使って喜ばれるかどうかは定かではないが、非常に綺麗な顔立ちをしていると思う。そして、それ以上に格好良い。背もかなり高いから、余計にそう感じられるのかもしれない。


 高等部の女子生徒の制服と同じ色合いのブレザーも、瑠璃色のネクタイも品が良くて似合っているし、ブレザーと同色のズボンを穿いている足は、高身長に見合った長さを誇っている。それに、伊月に強く掻き抱かれた鈴は、着痩せしているだけで体格にも恵まれていることを知っている。


 緑の黒髪は艶やかで、邪魔にならないように整えられており、清潔感に溢れていた。鈴と同じ、闇夜に沈む森を彷彿とさせる暗緑色の双眸は物珍しさだけではなく、浮世離れした美しさもある。

 しかも、ある種の独特な色気まで醸し出しているのだ。異性からすれば、たまらないのではないか。


 率直に言おう。今の伊月が異性から人気を集めていない方が、おかしい。

 でも、隣に鈴がいるからなのか、異性はおろか同性からも声をかけられる気配はない。


 そんなことを考えながら、伊月と並んで廊下を進んでいくうちに、学生食堂へと辿り着いた。昼休みだから、食堂の中は生徒や教師でごった返している。

 登校中の光景とはまた違う、久しぶりに目の当たりにした喧騒に、若干気後れしていたら、唐突に伊月に手を取られた。


「中、混んでるから。はぐれないように、手繋いでおこう」

「う、うん……」


 もしかして、伊月の目には今の鈴は危なっかしく映っているのだろうか。何だか、過保護な気がする。


(朝、校門のところで伊月の後ろに隠れちゃったのが、いけなかったのかなあ……)


 今朝、朝の身支度をしている時に、伊月に気を持たせるような言動を取らないように気をつけようと心に誓ったばかりなのに、さっそく頼ってしまった。そんな姿を晒されたら、伊月としては心配してしまうのかもしれない。

 おずおずと手を握り返すと、伊月は鈴にもう一度優しく微笑みかけ、手を引いてくれた。

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