恋情

 両手を合わせてから、さっそくスプーンを手に取り、デミグラスソースで彩られているオムライスを一口分掬う。

 ふんわりとした薄い卵生地に包まれたチキンライスを口の中に放り込むと、デミグラスソースの濃厚な味わいが真っ先に舌の上に広がっていく。次いで、胡椒の味がよく利いているチキンライスの味が、さらに咀嚼していけば、卵やバターのほんのりとした甘みが口内を満たしていく。


(うーん、やっぱり美味しい……)


 この旨味は、学生食堂で提供できるものとは到底思えない。この学園の生徒は、家柄の関係で舌が肥えている人が多いから、求められる水準も自然と高くなるのだろう。

 学園側も大変だと思いながらも、それだけの人材を揃え、運営費を回せるのだから、一体どれだけの寄付金を積まれているのかと、つい邪推してしまう。


 オムライスをじっくりと味わいつつ頬張っていると、鈴の左隣に腰かけている撫子が、フォークとスプーンを使ってパスタをくるくると巻きつけていた。


「あ、なっちゃん。それ、本日のメニューにあったパスタでしょ」

「ええ、そうよ」

「私、そっちとオムライスで悩んだんだよね。そっちも、美味しそう」

「……よかったら、一口食べる?」


 苦笑いを浮かべながらも、撫子は鈴のオムライスが載っているプレートの端に一口分のパスタを載せてくれた。


「ありがとう、なっちゃん。じゃあ、私も一口あげるね」


 撫子に倣い、一口分のオムライスをパスタが盛りつけられているプレートの隅にそっと載せる。それから、撫子からもらったパスタを遠慮なく口に含むと、しめじの歯応えのある食感とバター醤油の豊かな味わいが、鈴の舌を喜ばせる。


「うーん、美味しい! 今度またあったら、その時はこれにしようっと!」

「鈴は本当に、美味しそうに食べるわね」


 そんな風に、撫子ときゃっきゃと盛り上がっていたら、ふと撫子の左隣にいる愛未と、その正面に座っている誠司の姿が視界に映った。


 鈴たち同様、愛未と誠司も和やかに談笑しつつ、昼食を摂っている。

 別に、不自然でも何でもない光景のはずなのに、何故か違和感を覚えて内心首を捻る。


(……あ、そっか)


 何かが違うと思えば、二人の距離感だ。

 三姉妹の末っ子だからなのか、愛未は昔から幼馴染の中でも末っ子扱いだった。そして、真面目で責任感が強く、面倒見が良い誠司は、何かと愛未を気にかける一人だった。


 しかし、今の二人の間に流れる空気は、兄妹みたいなものではなく、もっと親密さを感じさせるものだ。愛未は終始にこにこと楽しそうに微笑んでいるし、誠司の表情も柔らかい。


 思わずそんな二人を注視していたら、鈴の視線の先を辿ったらしい撫子が、納得したような声を微かに漏らした。それから、鈴に耳元に唇を寄せてきたかと思えば、小声で囁く。


「……あの二人、付き合ってるのよ。なんなら、婚約者同士だし」

「え!」


 つい大きな声を出してしまい、慌てて両手で口を塞ぐ。スプーンを持ったままだったら、十中八九取り落としていたに違いない。

 動揺を隠しきれていない鈴に、撫子は再度苦い笑みを零しながら、言葉を継ぐ。


「去年の春頃だったかしら? そういうことで、話がまとまったのよ。しかも、マナは短大を受験する予定なんだけど、マナが短大を卒業したら、結婚するって話よ」

「えええ……」


 口を両手で覆ったまま、驚嘆の声を零す。


 森家は老舗料亭を経営している資産家であり、古くから続く名家だ。そして、清水家は代々検察官を輩出している家で、やはり資産家でもあり古い家系でもある。

 だから、家同士の繋がりを持つ上での婚約でもあるのだろうが、二人が相思相愛の関係ならば、両家にとっては尚のこと都合が良い話だ。


 二人ともそういう家の出で、年頃でもあるのだから、縁談が持ち上がってもおかしくはないはずなのだが、今のご時世を考えれば、随分と時代錯誤だと思わずにはいられない。

 そうなると、蓮と撫子はどうなのかという話になるものの、この二人の場合は事情が事情だから、納得せざるを得ないのだ。


 そこまで考えたところで、もしかしたら愛未と誠司にもやむにやまれぬ事情があったのかもしれないという可能性が、ふっと脳裏を過る。


(うん、その可能性は充分ある……)


 そこを突く気はさらさらないが、もしもの時のためにある程度知っておく覚悟を固めておくべきなのかもしれない。

 だって、彼らは――。


「そんなに驚くことかあ? あたしにだって、恋人くらいいるぞ? 高三にもなれば、恋の一つや二つしててもおかしくないだろ」


 いつから鈴たちの小声での会話を盗み聞きしていたのか。いつの間にか鈴に寄りかかるようにして顔を近づけていためのうが、呆れたように溜息を吐いている。


「え。めのちゃん、恋人いるの?」

「いるぞ。なんだ、意外か?」

「いや……めのちゃんレベルの美人さんを、世の男性が放っておくとも思えないけど」


 口を塞いでいた両手を外し、撫子に向けていた視線をめのうへと移し、その無駄なく整った妖艶な顔を改めてまじまじと見つめる。


 めのうの場合、本当に顔だけでも食べていけそうな次元にいる。しかも、非常にバランスの取れた身体つきをしており、匂い立つような色香まで身に纏っているのだ。めのうという花に魅せられる数多の異性を想像し、度が過ぎた美しさというものも、なかなか罪深いと思う。


 神妙な面持ちになった鈴の返答に、めのうは満足そうに頷く。


「そうだろ、そうだろ? こんな美人を放っておくなんて、世の損失以外の何物でもないな」


 自分で言うのかと思う反面、掛け値なしに美しいめのうが口にすると、妙に説得力がある。

 思わず苦笑いを浮かべると、めのうがさらに鈴にするりと擦り寄ってきた。


「でも鈴だって、あたしに負けず劣らず美人だろ? だからさ、虫除け代わりに、ちゃっちゃと男作っちまえよ」


 鈴の目を覗き込むめのうのヘーゼルの双眸は、まるで獲物を見つけた猫みたいに、好奇心に煌めいている。


 すぐには受け入れ難いものの、めのうの意見も一理あるのかもしれない。

 伊月と再会を果たしてからというもの、今日に至るまで散々注目を浴びてきた末、自分が美しいと評される容姿をしているということは、これでもかというほど痛感させられた。そして、鈴の豊満な肉体は良くも悪くも異性の視線を引き寄せてしまうことも、充分理解した。


 でも、鈴の隣には大体伊月がいたから、直接声をかけられることはなかった。今朝だって、伊月は盾の役割を果たしてくれたのだから、その効果は実証済みだ。

 だが、だからといって伊月の好意を利用するような真似は、気が引ける。かといって、他の男性にその役目を引き受けてもらうのは、もっと嫌だ。失礼かもしれないが、拒絶反応すら覚える。


(伊月は私のことを好きでいてくれてるから、利用されてるとは思わないかもしれないけど……)


 そんな考えが一瞬脳裏を掠めていったが、鈴の心の機微に敏感な伊月が気づかないわけがないと、即座に思い直す。そして、そんな理由で自分の好意を受け取ったのだと知ったら、間違いなく伊月は傷つくだろう。

 鈴だって、伊月のことは好きだ。できれば、傷つけたくない。


 しかし、いざ伊月の恋人になったらと想像しようとしても、上手くいかない。

 鈴にとって、恋とはまだ触れることを躊躇ってしまう感情なのだ。無理に掴み取ろうとすれば、指先から焼き爛れてしまいそうで、怖い。

 恋情に怯える鈴は、意気地がないのだろうか。普通は、ここまで恐れる代物ではないのだろうか。


(でも、私は――)


 鈴には――五年分の記憶と経験がないのだ。普通の高校生と同じ感覚を共有するのは、無理だ。


「――めのちゃん、無理強いは良くないよ」


 迷う心そのままに視線を彷徨わせていたら、中性的でガラス細工のように繊細な声が鈴とめのうの間に割り込んできた。

 声の主へと振り向くと、蓮が食事の手を止め、微かに眉根を寄せていた。


「鈴ちゃんは、五年ぶりに日常に戻ってきたばっかりなんだよ? 何も覚えてないっていっても、鈴ちゃんがこの五年間、普通からかけ離れた生活を送ってたのは、間違いないんだから。まずは、日常生活に慣れることを最優先にさせなきゃ」


 諭すように紡がれる言葉は、紛れもなく正論であり、鈴の心を軽くしてくれるものでもあった。

 ほっと安堵の吐息を零す鈴に、蓮はにこやかに笑いかけてくれる。


「鈴ちゃんには鈴ちゃんのペースってものがあるんだから、焦らなくても大丈夫だよ。もし何か困ったことがあったら、いくらでも相談に乗るから、ね?」

「……ありがとう、蓮くん」

「おうおう、蓮。どうしたよ? まさか、とびっきりの美人になって戻ってきた鈴に惚れたか?」


 めのうの艶やかな唇から飛び出してきた、伊月と撫子、一挙に二人の神経を逆撫でさせかねない、煽るような物言いに、鈴が咄嗟に口を開こうとした直前、蓮の笑顔が妙に圧のあるものに変貌していた。


「確かに、鈴ちゃんは美人だと思うけど、そういう感情は一切ないから安心して。ただ、鈴ちゃんみたいなケースに一番対応できるのは、俺だろうから。――必要な知識を教えてもらえなくて、間違った認識を植え付けられて、家の中が世界の全てだった俺が、適任でしょ?」


 蓮が浮かべた凄絶な笑みに自嘲の色が混ざり、背筋がぞっと冷える。

 綺麗な人の怒りを滲ませた笑みは恐ろしいものだと、伊月に思い知らされたばかりだが、蓮にはまた違った凄みがある。


 鈴だけではなく、伊月や撫子、それから煽るような物言いをしためのうの表情も、ものの見事に凍り付いている。先刻まで、穏やかに会話を交わしていた愛未と誠司も口を噤み、こちらの様子を窺っていた。


 心なしか、周囲の温度が下がった気がする。突然しんと静まり返った鈴たちの席とは裏腹に、他のテーブル席に着いている生徒たちは食事を楽しむ様子を見せているものの、何となくちらちらと見られているような気配がする。


 全身が強張るような緊張感が漂う中、蓮は唐突に困ったように眉尻を下げた。

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