呪い

「……ごめん、大人げない言い方したよね」


 蓮が謝罪の言葉を口にした途端、ふっと張り詰めていた空気が緩んだ。知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと深く吐き出す。


「……いや、悪いのはこっちだろ。 茶化すような真似して、ごめん」


 めのうは鈴から離れると、ぼそぼそと呟くように謝った。兄同様、めのうも自分に非があると認めれば、素直に謝罪してくれるのだ。


 でも、正直にいえば、蓮があそこまで怒りを露わにするとは、鈴も思っていなかった。

 めのうが冗談を口にするのは日常茶飯事だし、伊月と撫子の機嫌を損ねかねない内容ではあったものの、そこまで性質が悪いとは思わなかった。


 それに、鈴が失踪する以前の蓮ならば、めのうがああいう軽口を叩いても、ただ困り顔をするだけだったに違いない。そして、蓮の代わりに鈴がめのうを窘める。そんな流れを、鈴は想定していたのだ。


「うん。めのちゃんに悪気がなかったのは分かるんだけど、ああいう冗談はこれからもやめて欲しいな。俺、なっちゃんのことも伊月のこと も、大切だからさ。婚約者を傷つけられたり、友情をぶち壊すようなこと言われると、冗談だって分かってても許せないんだよね」


 蓮はめのうからハンバーグ定食に視線を動かし、食事を再開しつつ、さりげなさを装ってしっかりと釘を刺してきた。蓮と同じくハンバーグ定食を注文していためのうも、トレイに視線を落としてこくりと頷いた。


 そこからは、その場に流れる空気自体は大分和らいだものの、もう一度沈黙が落ちた。誰もが自らその静けさを破るのは憚られ、無言のまま食事の手を動かす。


(……さっきの、蓮くんにとって地雷だったんだろうな)


 蓮は幼い頃から、幼馴染の誰よりもこの関係性をかけがえのないものだと思っていた。だからこそ、たとえその場限りの軽口だったとしても、幼馴染の絆を揺るがしかねない発言に、過敏に反応したのだろう。


 だが、昔の蓮は良くいえば調和を重んじ、悪くいえば日和見主義だった。気が強い不知火兄妹に言い返すことなんて、一度もなかった。


(蓮くんも、変わったんだな)


 皆、どこか少しずつ、あるいは大きく変化している。その事実に、再び胸の奥が鈍く痛んだ。


「――蓮くん」


 食事が終わり、それぞれトレイに載せた食器を返却しにいく段階で、蓮を呼び止める。すると、ちょうど鈴に背を向けていた蓮は、すぐにこちらへと振り返ってくれた。


「ん?」

「さっきは、ありがとう。もしかしたら、蓮くんに嫌なことを思い出させることになっちゃうかもしれないけど……もしもの時は、相談するかも」


 幼馴染の中で、最も現在の鈴の境遇に共感できる可能性があるのは、本人も言っていた通り、蓮だ。いや、もしかすると、既に鈴の立場に思うところがあるのかもしれない。


(だって、蓮くんは――)


 ――比良坂学園の初等部に入学するまで、女の子として育てられ、そう信じ込まされていたのだ。

 そして、入学して間もなく、周囲も当人も本当の性別を知るなり、蓮の母親に家の中に閉じ込められ、言葉と物理的な暴力による虐待を受けてきたのだ。


 必要な知識を教えてもらえなくて、間違った認識を植え付けられて、家の中が世界の全てだった。

 蓮は言葉通り、外界から隔絶され、そういう風に育てられてきたのだ。


 事件当時から、もう十年以上の年月が過ぎている。事件発生から間もなく、蓮は和泉家に保護され、今も尚、庇護を受けているため、朝凪家との繋がりは既にほとんどない。

 しかし、だからといって、その時に受けた心身の傷が完全に癒えたかどうかは、鈴には判断がつかない。もしかしたら、蓮本人にも分からないことなのかもしれない。


 感謝の気持ちと一緒にそう伝えれば、蓮は鈴を安心させるようにふわりと微笑んでくれた。


「こっちこそ、心配してくれてありがとう。でも、鈴ちゃん。今の鈴ちゃんは、自分のことを一番に心配するべきだよ。俺のことまで気にかけてたら、参っちゃうよ」

「……うん。 それじゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらうね」

「そうしてくれた方が、俺としても安心できるな。――それじゃあ、またね」

「うん、またね」


 蓮はそう告げるなり、再度鈴に背を向けてさっさと歩き出した。それから程なく、撫子が蓮に駆け寄り、何事か言葉を交わしている。

 朗らかに笑う蓮と、怒っているようにも照れているようにも見える表情でむくれている撫子の横顔を、何となく目で追っていたら、不意に清涼感のある柔らかい声に名を呼ばれた。


「――鈴」


 その声に誘われるように振り向くと、伊月が鈴の隣に立っていた。


「ぼうっとしてたみたいだけど、大丈夫? 午後の授業は休むか?」

「あ……ううん。具合が悪いとか、そういうわけじゃないの。ただ――」


 そこで一旦言葉を区切り、伊月から目を逸らす。そして、もう一度前方へと視線を戻せば、蓮と撫子は既に返却口に食器を戻した後だったみたいで、今は手ぶらで足早に食堂の出入り口へと向かっていた。


「やっぱり……みんな、呪われてるんだなあって、改めて思っただけ」


 普段、どれほど取り繕うとも、鈴と伊月の幼馴染たちは皆、程度の差こそあれども、どこか歪みを抱えている。そして、幼馴染たち以上に、鈴も伊月も歪な存在だ。


 朝凪家、和泉家、不知火家、森家、清水家、この五家は――かつて、かぐやという名の半神から多くのものを搾取し続けたがために、呪われた一族の末裔だ。それだけでは飽き足らず、八神家と月城家の祖先を呪われた道に引きずり込んだ罪人たちの子孫でもあるのだ。


「……そうだな」


 鈴の囁き声に合わせたらしく、伊月の声量もかなり落とされている。それにも関わらず、やけに声を近くに感じ、振り向いて確認しようとすれば、ぎょっと目を見張るほど近くに、伊月の整った綺麗な顔があった。

 鈴の顔を覗き込む伊月を、瞬きも忘れて見つめていると、やや薄めの形の良い唇が苦々しそうな笑みの形に歪められた。


「だからこそ、俺たちは――呪いを解くために、かぐやを殺せるようにならなきゃいけないんだろ」


 鈴だけに聞こえる程度の小さな囁き声が紡いだ言葉は、八神家の人間としては正しいものだ。

 呪われた家々を救済するために、その元凶たる半神を殺す。それが、八神家と月城家に生まれついた人間に課せられた使命だ。


 それに、たとえそんな義務がなかったとしても、大切な友達を助けるため、伊月をその役目から解放するためならば、鈴はその呪いを解きたいと心の底から思う。


 でも、どうしてだろう。伊月がかぐやを殺せるようにならなければいけないと囁いた直後、頭の奥に不快な感覚が走った。



 ***



(なんか……今日は濃い一日だったなあ……)


 一日の授業が終わり、帰り支度を済ませた鈴は、「俺が迎えにいくまで、待ってて」と、伊月に念を押されたため、特別教室で一人待っていた。

 だが、帰りのホームルームが長引いているから遅くなるという伊月からのメッセージが、先程スマートフォンに届いたばかりだ。


 だから鈴は、一日の疲労を癒すため、特別教室の近くに設置されている自動販売機に足を運んでいた。

 甘い飲み物でも飲んで癒されようと、小銭を投入するや否や、アイスミルクティーの購入ボタンを迷わず押す。それから、取り出し口からミルクティーの小さいペットボトルを取り出すと、再びずらりと並ぶ商品棚を眺める。


『伊月、飲み物買うなら、何飲みたい?』


 スカートのポケットから抜き出したスマートフォンをたどたどしく操作し、ようやく作成できたメッセージを送ると、すぐに返事のメッセージが画面に表示された。


『麦茶』


 やはり伊月の嗜好は、渋いというか素朴だ。スマートフォンをスカートのポケットに仕舞うと、また硬貨を投入口に入れ、伊月の希望通り、小さいペットボトルの麦茶を購入する。


 片手にそれぞれ一本ずつペットボトルを持ち、昔伊月が好きだった歌を軽く口ずさみながら、特別教室へと戻ろうと踵を返した途端、思いがけない人物の姿が視界に映り込み、驚愕に目を見開く。


「――やあ、鈴。高等部の制服、よく似合ってるね」


 独特な色香を纏った魅惑的な声が、親しみを込めて鈴の名を呼ぶ。


「――え、 刀祢兄さん?」


 全体的に色素が薄く、浮世離れした美しさと色気を漂わせている、どことなく伊月に似ているこの男性は――月城刀祢だ。

 校舎内で見かけるはずのない、伊月のはとこの登場に、鈴が驚きに固まると、刀祢は楽しそうに紫の双眸を細めた。

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