第7話
慌てて声のしたリビングに入ると、母がテーブルの横で卒倒しかけていた。
「ちょっと…どうしたの?」
母は顔を青ざめさせ、父は震える母を支えながら「大丈夫、大丈夫」と優しく声をかけていた。
こういった状況は今までも何度か見たことがある。母が叫ぶ時は大抵、料理中に虫が出てきたり、冬場に鼠が部屋をうろついた時だ。都会育ちの母には田舎の生活に悪戦苦闘していたが、それは昔の話だけだと思っていた。元々繊細な性格だったが、まさかこの歳になって再び母の悲鳴を聞くことになるとは。大事では無かったと安心しかけた時、父の真剣な表情を見て思いとどまる。
「机の上を見てごらん」
机に視線を向けると、夕暮れの光に照らされたヘルヴァッキが置いてあった。
ナイフとフォークが並んでいる状況から察するに、母が食卓にヘルヴァッキを飾ろうとしたのだろう。
この状況のどこに悲鳴をあげるような事があるのだろう。私が首を傾げると、父は「あぁ…」と低い声を漏らした。
「ヘルヘイムで目が悪くなったようだね。近くでよく見てみなさい」
父の様子を不思議に思いながらも、ヘルヴァッキに顔を近づける。
私はその花の様相を垣間見て、血の気が引いた。
花弁に浮かぶ、青い筋。
それは皮膚の下にある毛細血管のように見えた。
花弁の内側はざらざらで、粘膜のような肉々しさがある。葉脈が、血管を通る血液のように脈々と光を放っている。
「うっ…」
胃がひっくり返るような吐き気を感じ、私は咄嗟に口を覆う。
確かに、今まではヘルヴァッキを暗がりでしか見たことがなかった。持ち運んでいる時も中身が見えないように梱包し、太陽の下でヘルヴァッキを見る事は無かった。
花が痛まないようにという理由もあるが、自身の醜さを直視できなかったからというのが本音だ。
太陽に照らされたヘルヴァッキは、私の想像を絶する残酷性を秘めていた。
「ヘルヘイムから、持ってきたんだね」
父にそう聞かれ、私はおずおずと頷いた。父は私の顔をじっと見つめた後、青ざめている母をソファに座らせた。
「ィル。ヘルヴァッキの生態は教えてもらったかい?」
「う…うん。夜に咲く多年草で、川辺に自生している花だってお祖母ちゃんから聞いた」
「ではなぜこの花が、冥府の美人と呼ばれているかを知っているかい?」
「それは……わからない」
父は「そうか」と言って、机にあったヘルヴァッキを見つめる。
「この花は、ィルも知っている通り川辺に咲く。そして白く光り輝いて、花弁を散らすんだ。川に流れる花弁が冥府へ下る魂に見える事から、『冥府の美人』と呼ばれるようになったんだ」
私は思わず「えっ」と言葉を漏らした。
てっきり、かつて冥府と呼ばれたヘルヘイムに咲く花だから、冥府の美人と呼ばれるのだと思っていた。
「ヘルヴァッキは元々、故人への供花として扱われていたんだよ。もちろん今もそうだけれど、生活花として好まれるようになったのは数十年前からの話なんだ。とある大国の王様が王妃を亡くなった際に城を大量のヘルヴァッキで覆い、それを見たヘルヘイムの人々が感化され、生活の中にヘルヴァッキが登場するようになった。本来あった追悼の意を知る人が少なくなってしまったのは、時の流れによるものだろうね」
ヘルヴァッキに、そんな背景があったとは知らなかった。
呆然としている私の肩を、父が温かい手で抱き寄せてくれた。
「この花は家には飾れないね。カーヌスクード街の外れに大きな墓地がある。祖父もそこに居るから手向けてあげなさい」
そこは確かスクーグスチルゴゴーデンと呼ばれる墓地で、森の墓地、という意味がある。祖父はミズカルズ圏の出身ではあるものの、祖母の近くで眠りたいという遺言によってカーヌスクードの近くにある墓地に埋葬されたのだ。
ミズカルズ圏には「死者は森に帰る」という言葉があり、フォレストという姓を持つ祖父が埋葬されるには最適な場所だった。
机に置いてあったヘルヴァッキを紙で包む。
さすがに盗んだ花を供えるわけにはいかない。これは持って帰った後に廃棄して、自身のお金でヘルヴァッキを買いなおそう。そう思った。
「まぁ祖父は案外時間にルーズだったから、アッラ・フェーラシェ・ダーグには間に合わなくても許してくれるだろう」
「アッラ・フェーラシェ…ダーグ…?」
聞きなれない単語だった。しかし違和感がある。どこかで聞いたような名前だ。
「アッラ・フェーラシェ・ダーグは死者を弔う行事だよ。0時まで開催されていて、ヘルヘイムではその日にキャンドルを灯して故人を追悼するのさ。あんな悲惨な災害のあとだからね、きっと盛大にとり行われるだろうね」
頭の中でチリ、と小さな電流が走った。
数多ある記憶の中で、違和感を探す。
〈ナラク新国王、即位式〉
〈アッラ・フェーラシェ・ダーグ開催間近〉
〈数十名の犠牲の元勝利〉
新聞の記事だ。ヤーコブと会う前、焼却炉で読んだいくつかの見出し。
私は床に置いてあった荷物に飛びついた。
鞄の中をがさがさと弄り、スティッグさんからもらった新聞紙を見つけ出した。
「あった…!」
新聞を床中に広げ、目を通す。
〈ナラク・ニューダーク新国王、国民の前で堂々たる演説。アノヨ国王の死去により、第一子であるナラク様が10月20日、新国王へと即位された。ナラク新国王は即位式の際、国民の前へ立ち、演説を行う…〉
「違う」
〈アッラ・フェーラシェ・ダーグ開催。11月7日、ヘルヘイムで死者の日とされるこの日は多くの人達が実家へと帰省する。ゴンドラの運行は当日変更される見通しである。ナラク新国王がキャンドルを寄付された事もあり…〉
「これも違うわ」
私は迫りくる不安を跳ね除けるように、目当ての記事を探す。
――違うと思いたい。でもこの不安を見逃す訳にはいかない。
もう私は、自分の醜さから目を逸らしたくない。
新聞を掻き分けていると、端に折り目がついている記事を見つけた。
「これだ…!」
〈数十名の犠牲の元、勝利。10月10日、協会屈指の精鋭部隊が害獣を討伐した。害獣の破壊規模は凄まじく、歴史上でも類を見ない大災害となっている。市街の建造物は7割が倒壊。奇跡的に住民への被害は無かったが、戦死した者は現在確認されているもので40名…〉
『40』。私はこの数字を知っている。
きっと勘違いなどではない。私はこの数字の意味を知っている。
記憶の中にある彼女が、ゴンドラで見た夢と混ざり合う。暗がりの中で、彼女がゆっくりと面を上げる。悲観に暮れる彼女の美貌は、涙と、いくつかの返り血で濡れていた。
哀憐を抱き悲嘆するその表情は、直視するにはあまりに残酷だった。
「ィル、どうしちゃったんだい」
戸惑う父が私の肩を掴む。
私は現実へと引き戻される。顔を上げ、縋るようにして父の身体を揺さぶった。
「私は…私はとんでもない事をしてしまった!あれは手向けの花だった!彼女の言葉は私に対してなんかじゃない、死んだ人達への哀れみだったんだ…!」
ゆさゆさと揺さぶられる父は唖然としている。
娘の異様な言動に、頭が追い付かないらしい。
「と…とりあえず落ち着きなさい」
父はわたわたと困惑しながらも、私を落ち着かせるように背中を摩った。
それは自身を落ち着かせるようでもあった。父は冷静さを取り戻すと、状況が深刻であるという事を理解したようだ。
「ィルはこれから何をしなくちゃいけないんだい」
私は父から離れ、興奮して震える身体を動かし荷物をまとめた。
「今すぐにヘルヘイムに戻らないと…!アッラ・フェーラシェ・ダーグに間に合わない!」
「ィルちゃんそれは難しいわ」
先ほどまで倒れていた母が気を取り戻していた。
ソファから顔をのぞかせてこちらを見ている。おぼつかない足取りで起き上がると、ぼさぼさになったソバージュヘアをまとめながら私に近づいた。
「状況はよくわからないけれど…。急行便のゴンドラはアッラ・フェーラシェ・ダーグがあるせいで完全予約制なの。普通便なら乗れるけれど、それじゃ8時間もかかってしまうわ」
私は咄嗟に時計を見た。
針は20時を指している。アッラ・フェーラシェ・ダーグが開催されているのは0時までだ。普通便では到底間に合わない。
「あ…あぁ…。どうしたら」
焦っているのに、成す術がない。私は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
時間が過ぎてでも彼女に渡しに行くべきだろうか?いや、それでは彼女に合わせる顔がない。私は花屋として失格だ。あまりに愚かだ。表面だけを見て本質を知ったような気になって、他人の言葉を間違えて捉えた。これでは私に自信を説いた大人と同じことをしてしまっているではないか。
貰い物の高級なドレス、ずしんと重い札束、滑らかな肌の綺麗な手。
私はそんな些細な事で彼女を理解した気になって、花を盗んだ。
手元にあるヘルヴァッキがちらりと見える。
――これは貴賤と美醜に囚われた、醜い心の反映なのだ。
ぎゅっと唇を噛んだ瞬間、思いも寄らずテラスの窓がバン!と大きな音を立てて開いた。
テラスの方向を見てみると、夕焼けを背景にした壮年の男が、馬に跨りこちらを見ていた。その男はかぶっていた麦わら帽子を外し、わざとらしいお辞儀をして見せた。
胸元のポケットには、1本のヘルヴァッキを刺している。
「おぉ、ィルちゃん。そろそろ行くかぁ~」
スティッグさんはそう言って、歯抜けになった口でニカッと笑った。
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