第8話

 バーディの停留所に着く頃には、私はスティッグさんの馬術に呆気に取られていた。老体を物ともしない馬を自在に操る様は、大英雄かのような高尚さを感じさせた。

 田園際の道を颯爽と駆け抜け、しかし時折、意味もなく柵を飛び越えたりした。その度に叫ぶ私にスティッグさんはけたけた笑い、「しっかり捕まっていろよぉ」なんて格好つけたセリフを吐いた。そんな事を言わなければ本当に格好良かったのにと思う私だったが、スティッグさんにしがみついた時、老人とは思えぬ身体に驚いた。

 程よく脂肪はついているが、皮膚の下にはがっしりとした筋肉がついている。それは一朝一夕でつけられるものではない、恐らく長年にわたって必要とされ、最早落ちなくなってしまった筋肉だった。

 昔は結構モテたんだよぉ、なんて事を口癖のように言っていたが、案外それは嘘ではないのかもしれない。


 停留所に着くと、スティッグさんはチケット売り場を無視してズカズカと奥へ歩いて行った。引き留めてもその歩みは止まらず、代わりに私を手招いた。

 チケット売り場を通り過ぎる際、受付の人を除いでみるが、こちらに少し微笑んだだけで特に止められたりはしなかった。

 スティッグさんは顔パスでも効くのだろうか。そう不思議に思いながらもスティッグさんの後を追いかけると、ヘルヘイム行きではない乗り場へ向かっていった。

 しかもスティッグさんが今開けようとしている扉は『STAFF ONLY』と書かれてある。


「ちょ、ちょっとスティッグさん、そこは入れないよ」


 私が慌てて声をかけると、スティッグさんは「いいからいいから」と言って私の手を引いた。

 扉を開けると、そこには眼下に広がる空洞と、細く長い乗車場があった。奥にあるアーチ状の吹き抜けの奥では紫色になった空に満月が浮かんでいる。ドーム型のような乗車場は、壁面が酷く錆ついていて蜘蛛の巣が張り巡らされていた。

 下から吹き上げるような風と、深淵にちかい底を見下ろして足が竦む。私は乗車場の脇に設置された頼りない鎖を咄嗟に掴んだ。


「スティッグさんここどこなの…!?落ちたら一たまりもないよ…!!」


 混乱している私を他所に、スティッグさんはきょろきょろと辺りを見回している。

 何かを探しているようだ。


「お、あったあった」


 スティッグさんの目線の先には、壁に設置された真四角の木板だった。なんの用途で使われているのか分からないその木板は、すずらんのレリーフが縁どられている。


「ここの主はまだご存命かねぇ~」


 スティッグさんが木板に小気味よいノックを繰り返す。


 こん、こん、こんこん。


 音は空洞を反響し、私達は静寂に包まれた。

 スティッグさんは「うぅん」と言って首を捻っている。

 この人は一体何をしようとしているのだろうか。こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。私はどうしようもない焦りに身悶えして、しかしどうする事もできずその場に座り込んだ。


「もう駄目だ…」


 私は項垂れ、壁の一点を呆然と見つめた。微かに開いた扉の隙間から光が漏れている。

 照らされた壁をよく見れば、手のひらほどの黒い真珠のようなものが4つ並んでいる事に気づき、目を細める。真ん中二つが大きく、端の二つはそれよりも一回りほど小さい。

 ゴンドラを動かすための装置か何かだろうか。これをどうにかして作動できればゴンドラが動くのかもしれない。

 そう思ってスティッグさんに声をかけようとした時、その大きな黒い真珠がゆらりと動いた。


「えっ…!?」


 私が驚いて飛びのくと、荷物がひっかかって微かに開いていた扉が大きく開かれる。

 壁に張り付いていた黒い真珠の正体が露わになった。

 黒い毛に覆われた大きな腹部と、8本の足。漆黒のそれは人よりも大きな蜘蛛だった。

 私は気を失いかけて、スティッグさんの「おお!生きとったかぁ!」という大声で何とか遠のいた意識をその場に留めた。


「スティッグさん…その蜘蛛は…」


 震える声でそう問うと、スティッグさんは「知らねぇのかぁ」と言う。


「ゴンドラのロープはこいつの糸でできているんだぞぉ。加工糸しか見たことがない最近の若い人達は知らねぇだろうが、昔はこいつらが乗車場に最低一匹はいて、その都度糸を出して国を行き来してたのさ」


 スティッグさんは懐から何かを取り出し、蜘蛛に見せるようにしてそれを掲げた。

 大きな蜘蛛はそれを見るや否や俊敏に動き、スティッグさんの持っているそれを繁々と見つめた後、のそのそと乗車場の奥へと向かって行った。

 乗車場の端ぎりぎりに着くと腹部をぶるぶると振動させている。するとそれを合図にしたかのように乗車場の床下から手のひら程の蜘蛛が大量に湧き出てきた。


「うわっ…なになになに」


 足元で大量の蜘蛛が這いまわり、私はそれを踏まないように壁際のほうへふらふら向かう。すると蜘蛛はお尻のほうを吹き抜けへ向け、勢いよく出た白い糸は遥か遠くへ飛んでいった。


「えっ、え…?スティッグさん、あの蜘蛛に何を見せたの?」


 混乱する私に、スティッグさんはカカカッと笑いながら持っていたものを見せてくれた。

 それは硬貨ほどの小さなエンブレムだった。中央に大きな樹の金属装飾が施され、裏面には達筆な文字で〈スティッグ・ストゥルルソン〉と彫られてある。

 私はこれと同じものを見た事がある。それは花屋で働いた初日で見たものだ。


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