冥府の美人
明楽 悠
第1話
これは私の持論ですが、他者を理解するという事は非常に難しく、そしてそれを多くの人が勘違いしている。
「相手を理解できた」と軽々しく言えるのは、”執着の反映”による馬鹿げた妄想と言えるでしょう。貧乏であればお金持ちがずる賢く見え、器量が悪ければ美人が楽をしているように見える。
そういった自身が最も気にしている部分を相手に反映し、多くの人はそれで他者を理解した気になる。それは自分の都合の良い解釈であり、自身の弱さと向き合えていない証拠なのだと、私は思っています。
―― ヘルヘイム新聞社『花屋の少女』より抜粋
◇
地底にあり太陽は無く、かつて冥府と呼ばれた地ヘルヘイム。この地では、地上から輸入される花は高級品として扱われ、花を買うのは裕福な人達に限られた。
「鮮やかな日々をお祈りします」
祖母の声が店内に響き渡った。70歳を過ぎているとは思えない声量だ。
祖母は民間の宗教音楽会に属しており、鍛えられた喉は老いを感じさせない。眠る前に聖歌を歌い、朝は天に向かって祈りを捧げる。祖母は信心深い人だった。
星形のペンダントライトが、入口から入る風でゆらゆらと揺れている。
祖母は光の神バルドルを崇拝し、それをモチーフとするデザインを好んだ。私達より高い位置にあるランプを星型にしたことは、バルドル神への忠誠心ともいえる。
花々の余分な葉を取り除いていると、しばらくしてカシュカシュと床を擦る音が近づいてきた。
「ィルちゃん、グレンキンスさんのご予約は何時だったかしら」
祖母は私の名前をイェリヌではなく、愛称の「ィル」で呼ぶ。
声のした方へ視線を向けると、高く積まれたガーベラの間からひょっこりと顔を出していた。
「11時だよ。お婆ちゃん」
そう言うと祖母は「流石ィルちゃん」と言って微笑んだ。
グレンキンスさんというのは、うちのお得意様だ。年に数回、大量の花を買いに来るらしい。小さな花屋は、一人一人のお客様の顔を覚えているのが通例だ。
『ィルちゃんも彼女と話せば、グレンキンスさんのような姉が欲しいと思うはずよ』
祖母は彼女の事をずいぶんと気に入っているらしい。今朝もそんな事を言っていた。
私は1度だけ、しかも遠目でしか彼女を見たことが無い。それでも彼女の存在は明瞭に覚えている。その日はたまたま通りかかったところを祖母に引き止められ、祖母の無駄話に付き合わされていた。クリスチャン・ドルトンのワンピースを着た彼女の背筋はピンとしていて、所作には一切の無駄がない。全ての動作が凛としていた。
顔は見えなかったが、漂うオーラから察するに、気品溢れる麗人なのだろう。
私は彼女の姿勢を見習って、ぐっと背伸びをする。しばらく中腰でいたためか、腰からキポキと乾いた音がした。大きく息を吐きだし、作業台にもたれかかる。
「平日の真っ昼間に花屋に来るだなんて、珍しいよね」
私が言うと、祖母は手元を見つめたまま「そうねぇ」と呟く。
「前回来られた時は夕方だったのだけれど、今日はお休みなんじゃないかしら」
「なんの仕事をしている人なの?」
「さぁ……それは分からないわ。仕事をしているのかどうかも。ご自宅から直接来ているようだけど、誰かと一緒にいるのは見たことが無いわねぇ」
祖母に聞くところによると、お得意様はここから少し離れた丘の上に住んでいるらしい。お得意様の事が少し気になって「地元の人なの?兄弟は?結婚はしている?」と重ねて聞いたが、祖母に「丘の上に住んでいる事以外は何も知らないのよ」と言われて話が終わった。
彼女はおそらくどこかの貴族の令嬢か、協会戦士の娘あたりであろうだろうと私はふんでいる。そうでなければクリスチャン・ドルトンのワンピースを普段着で着たりはしない。
姉であるなら、あまりに身分が違いすぎるのではないか、と思う。
納品した大量の花をシンクに置いて、汗ばんだ額をグイと拭う。そばかすを隠すための白粉が手の甲にべったりとくっついた。
「はぁ…」
私はお得意様とはえらい違いだ。
半年前、私は花卉栽培をしている実家から「もっと世間を知るように」とヘルヘイムにある祖母の元へと送り出された。朝から晩まで、水曜日以外は祖母の分まで働いた。夜が明けない内に数キロ離れた市場へ出向き、眠気と戦いながら荷馬車で運ぶ。納品された大量の花や重たい花壇を一人で運ぶのは重労働で、店の中でもほとんど立ちっぱなしだった。
花屋に対する乙女めいた幻想が覆されるのは、1ヶ月もあれば十分だった。
最初は頑張っていた化粧も、最近はそばかすを隠す程度しかしていない。
「ィルちゃん、そんなに頑張らなくていいのよ。たまにはお休みでも取ったらどう?」
祖母が言う。深いため息をついた私を心配しているらしい。
「ううん、大丈夫。まだまだ働けるよ。カーヌスクードにいたら私、ワーカホリックになっても構わないよ」
私が笑顔で答えると、祖母は「頑張り屋さんね」と言ってほほ笑んだ。
ここカーヌスクードは、ヘルヘイムの中で5番目に大きい都市だ。中央にギョッル川が流れ、水路が蜘蛛の巣のように広がっている。周りを囲う赤い森は、街の輝きを引き立たせるオペラカーテンみたいだ。
ずっと田舎暮らしだった私にとっては、カーヌスクードは夢のような街だった。
暗闇の中で煌々とする路面店。重い石造を軽快に見せるディテールに、尖塔アーチは前衛的で、ステンドグラスも華やかだ。木造建築しか見たことが無かった私は、大通りにある店の全てがお城に見えた。私がお姫様に生まれていたら、カーヌスクードのジュエリーを買い占めていただろう。
「今日は給料日だよね。お祖母ちゃんにプレゼント買ってあげるから楽しみにしてて」
私が言うと、祖母はラッピングシートを広げながら首を振った。
「やだ、そんなのいいのよ。自分の欲しいものだけ買えばいいわ」
「お祖母ちゃんには私とお揃いの口紅を買うの」
『口紅』という単語を聞いて、祖母は「あら」と言った。
紙の擦れる音がぴたりと止まる。
「どこの口紅?」
「ステファニー・ドメニコ」
「まぁ……」
ちらりと祖母の顔を見ると、僅かに口元が緩んでいた。
祖母はその後、分かりやすく上機嫌になった。ラッピングを終えた祖母は鼻歌を歌いながら、入口のほうへと身体を揺らしながら向かって行った。
やはり血は争えない。祖母も私も、華やかな物に目が無いのだ。ドメニコの口紅をプレゼントしたら、祖母は少女のようにはしゃぐだろう。
祖母の喜んでいる顔を想像して、私の顔もほころぶ。仕事が終わったら駆け出してでもドメニコへ向かおう。
「あっ、痛い」
水切りをしていた薔薇の棘が指にひっかかった。少し血が滲んだが、気にしない。皸だらけの手に傷が増えたところで大差は無いのだ。実家にいる時よりも手は随分ボロボロになったが、頑張っている証拠なのだと自分に言い聞かせた。
一通り薔薇の束を捌き終え、祖母の様子を窺う。ゼラニウムに囲まれたスツールに腰掛け、道路沿いの街頭をぼんやりと眺めていた。少し肌寒かったのか、椅子にかけておいたブランケットを羽織っている。太陽の無いこの国では、季節を問わず肌寒い。
そばかすを増やさないために避けていたかんかん照りの太陽も、今では恋しい。
「あら、あら!グレンキンスさん、お待ちしておりましたよ!」
祖母は蹄の音にも勝る大きな声をあげた。
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