第2話

「すいません、早く着いてしまいました」

「やだ、そんな事気になさらないで。たまには老人の無駄話でも聞いてやってくださいな」


 今日はエンパイア型のドレスを身に着けている。お得意様が漆黒の馬車から優雅に降りると、エナメル製のパンプスがキラリと光った。


「いらっしゃいませ」


 声をかけると、こちらに気付いた金の瞳とばちりと目が合う。

 その瞬間、私ははっと息を呑んだ。

 正面から見た彼女の顔が、恐ろしい程の美貌だったからだ。


 彫刻のような高い鼻、大きな瞳に長い睫毛、均等の取れた華奢な輪郭。彼女の生まれ持った地の美しさを際立たせるような薄化粧。彼女の白肌は黒いドレスに相まって、暗闇に溶け込んでしまいそうだった。


 彼女がこちらに軽く会釈すると、艶のある黒髪がさらりとなびく。美貌そのものを目の当たりにした私は、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。


「話すのは初めてだったかしらね、この子は孫のィルですの」


 祖母が私を紹介すると、お得意様はやはり無駄のない所作で手を前に合わせ、先程よりも深く頭を下げた。


「はじめまして。グレンキンスと申します」

「あ、はじめまして。…ィル・フォレストです」


 気品溢れる彼女と同じ空間にいる事が、恥ずかしいように思えた。ィルちゃんもっとハッキリ喋らなきゃ、という祖母の言葉を無視して、私はそそくさレジの方へと引っ込んだ。


「ごめんなさいねぇ、でも今回孫が仕入れてくれたヘルヴァッキは上質ですよ」


――ヘルヴァッキ。

 ヘルヘイムの川辺にのみ自生している多年草で、太陽を必要とせず、夜にしか花を咲かせない珍しい品種だ。花開けば純白の光を放ち、その様は清楚で華麗だと聞く。通称『冥府の美人』と呼ばれるヘルヴァッキは、ヘルヘイムの人々にこよなく愛されている。

 かつて冥府と呼ばれたヘルヘイムの人にとって、この花はアイデンティティそのものなのだろう。

 フラワーケースに入っている大量のヘルヴァッキを眺める。お客様の手元に届いた時に花が開くように、店には基本、蕾の状態で納品される。1本あたり1500Krもするので中々手が出せないが、いつか私も買ってみたいと思っている。

 開花したヘルヴァッキを眺めながら眠りにつくのは、きっと心地の良い一時だ。


「ありがとうございます。いつもお世話になっています」

「それは私共が贈る言葉ですわ。1200本、直ぐにお運び致しますね」


 その数字を聞いて、手元で遊ばせていたフローリストナイフがカシャンと落ちた。2人の視線が注がれ、私は慌ててナイフを床から拾い上げる。

その時、1200本という数字が頭の中を掛け巡った。

 1本1500Krもするヘルヴァッキをそんなに買ったら、値段がとんでも無い事になる。しかし、いや、どうりで市場で買ってくるよう頼まれたヘルヴァッキが多すぎるわけだ。まさか全部を彼女が買うとは思いもしなかった。

 混沌とした脳内に追い打ちをかけるように、お得意様が言葉を紡いだ。


「急で申し訳ないのですが、40本追加で頂きたいのです」


 40本。それだけでも60,000Kr。半年間花屋で働いて様々な貴族を見てきたが、一度の注文でこんな額を出す人はなかなかいない。きっとお得意様は桁違いのお金持ちで、数万など大きな差ではないのだ。

 私は眩暈を覚えた。


「ィルちゃん、115本分のお会計をお願いね。グレンキンスさん、申し訳ないのですがもう在庫がなくて…追加分はまた明日でもよろしいかしら?」

「ええ、もちろんです」


 私は2人の話を聞きながら、皸だらけの手でレジを打つ。最後にハンドルを一周回すと『チーン』という音とともに、金額が表示された。


―お会計:1,800,000Kr―


 私の半年分の給料より多い。

 これだけあれば、ドメニコのルージュなんていくらでも買える。ルージュどころか、香水も、新作のドレスや鞄だって手に入る。


 混乱した脳内が、徐々に幻想へと移り変わる。


 高級な化粧品をドレッサーにならべて、今日は何をつけようかと迷う。卓上に並べられた化粧品は、宝石のようにキラキラ光っている。隙間なく並べられた口紅の持ち手はパイプオルガンに匹敵する重厚感だ。ドレスは流行りのボタニガル柄が染色されたシルクのドレス。その日の気分によって香水を選び、しかし決まってつけるのはシトラス系で、店に置かれた花の香りと上手く調和する。


 そうすれば花屋で働く事が一層誇らしくなって、心地良い毎日を送るのだ。


 妄想に浸かって虚空を見つめていると、視界の縁から白い手がヌッと現れた。


 「お会計、お願いします」


 はっとして顔を上げると、美貌が目の前にあった。顔には天井から吊るされたコウモリランの影がかかっている。出された札束が視界に入ると、一気に妄想から現実へと引き戻された。

 彼女の手から、お金を受け取る。分厚く束ねられた札束がずしんと重い。

 経済的に貧弱な私には重すぎるぐらいだ。


「……ちょうど、頂きます」


 紙幣を受け取り、領収書を書きあげる。

 ゼロの数字を数えながら、気が滅入るような不快感を覚えた。


 きっと私はこの先、お得意様のような豪勢な買い物等できないのだろう。お金持ちに憧れている訳では決してない。しかし華やかな物には憧れてしまう。生まれが人生のほとんどを決めてしまうこの階級社会では、私が花屋でどれだけ頑張っても、お得意様の足元にも及ばない。私が必死に働いている間に、お得意様は自室でゆっくり花を愛でているのだ。


 ふと、領収書を受け取る彼女の手が目に留まる。

 神経質そうな指に滑らかな肌。薄暗い店内でも、彼女の手が美しい事が分かった。

――きっと、水仕事などしたことが無いのだろう。

 苦労知らずのお嬢様。この人はまさにそういう人だ。

 途端に私は何故か、彼女と話がしてみたくなった。


「…あれだけの量があれば明かりはいりませんね」


 私は自分の声に驚いた。用意していたよりもずっと強く、低い声が出たからだ。

 これでは妬みに聞こえてしまう。私は慌てて話をつづけた。


「あ、えっと。ヘルヴァッキは夕方あたりから咲き始めるので…!今回仕入れた分は明日の夜に花開くと思います。一本だけなら淡い光ですが、これだけの量があれば明るすぎるぐらいだと思います」


 慌てふためく私とは対象的に、お得意様は冷静だった。


「ええ、そうですね」


 彼女の言葉には愛想が無かった。空間の隙間を縫う糸のような透明な声。美しい声なのに、どこかひんやりと冷たい。

 彼女の機嫌を損ねてしまったのかと思い、私は別の話題を切り出した。


 「ドレス、新作のクリスチャン・ドルトンですよね?上品でとても素敵です」


 お得意様は少し驚いた顔をして、自嘲気味に微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 おそらく私はお得意様と歳が近い。ドルトンのワンピースは、同年代の女性であれば誰でも憧れるものだ。彼女もドルトンが好きなら、これをきっかけに仲良くなれるかもしれない。


「靴も同じブランドですよね!冬の限定品は中々手に入らないのに…。羨ましいです」

「ええ…」

「そういえば先日立ち寄られた時もドルトンを着られていましたね、お好きなんですか?」


 お得意様の顔を覗き込むと、彼女は困った表情をしていた。


「……すみません。よく、分からないんです。頂いたものなので」


 眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。思わず「あ……そう、ですか」とくぐもった声が出る。

 私はドレスの裾をぎゅっと握った。


 私が頑張っても手が届かない物を、人から貰えるのだ、この人は。

私にとっての憧れは遠くて、彼女はすぐ近くにあるのに興味が無い。


 2人の間に、沈黙が流れる。

 彼女は依然としてカウンターの隅に視線を落としている。彼女の視線の先に目を向けると花瓶に生けられた白い花があった。


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