第3話
「…それはヘルヴァッキではありませんよ」
彼女のトパーズみたいな瞳が、私へと向けられる。
戸惑っている私に、彼女は無表情で首を傾けた。説明を求めているらしい。
私は花屋の店員である事を思い出し、心の奥底に芽生えかけた嫉妬を抑え込んだ。
「ええと…これはミズカルズの南方から取り寄せた花です。花が咲き終わる頃に光る胞子をとばす、珍しい花です。未来花と呼ばれているものですね」
言うと、お得意様がぱちぱちと瞬きをする。
「未来花」という部分が気になっているらしい。私は説明を続けた。
「大昔、ミズカルズ圏で勃発した戦争によって一面が焼け野原になった事がありました。未来花は生命力が強く、土壌が死んだと思われた大地にも懸命に根を伸ばし、花を咲かせました。戦争で深く傷ついた人たちにとって、未来花は未来への希望だったんです。――それにちなんで花言葉は「美しい未来」とされています」
この花が、正式にはイェリヌムという名前である事は伏せておいた。自分の名前の由来だからこそ、言うのが憚った。「美しい未来」という花言葉は私にはあまりに不釣り合いだ。
ふと、私は両親にどんな未来を想像されたのだろうと思う。
私は小さくはぁ、とため息をついた。
「葉に白い斑点があるせいで、ヘルヴァッキと比べるとあまり人気が無いんですけどね。――でも、私は冥府の美人の甘い香りよりも、未来花の爽やかな香りが好きなんです」
私はイェリヌムが活けてある花瓶にそっと手を添えた。
葉に私と同じそばかすがある。私はそこに強い繋がりのようなものを感じていた。
人気がなくとも、この花を好きでいる以外に自分を肯定できなかった。
その後私はイェリヌムの詳しい説明を淡々と続けた。彼女の相槌にはやはり愛想は無かったが、それでも説明を止めたりはしなかった。時折彼女の見せる微笑は、私の説明をどんどんヒートアップさせた。イェリヌムの説明が終わった後も他の花の説明を求め、それを聞く彼女の顔は真剣だった。
きっと彼女は花が好きなのだろう。
共通点の全く無い私達に、1つの繋がりが見えたような気がした。
「グレンキンスさん、終わりましたよ」
説明している間に、祖母は全部の花を積み終えたらしい。お得意様が背を向けるのを見て、私は思わず引き留めてしまった。
「あ…、すみません。もし良ろしければ、冥府の美人の代わりに、未来花を持って帰られてはいかがでしょうか。価格も抑えられますし、お客様がうちにくる手間も省けます」
お節介だったかもしれないが、私にとっては純粋な善意だった。
お得意様は澄んだ瞳でこちらをじっと見つめている。
拒絶の意は見えなかった。
「もし葉が気になるのであれば、直ぐにカット致します。5分もあれば終わりますが…」
「いいえ」
彼女が初めて、私の話を遮った。
「私は冥府の美人が良いのです」
喉から絞り出るような苦しい声が出た。
先程まで感じていたお得意様との繋がりが、ギチギチと引き裂かれる。
コウモリランの影に覆われたお得意様の顔がじわじわとぼやける。人工的なまでに美しい顔が、冥府へ誘う悪魔であるかのような錯覚を覚えた。
ふとピントがずれ、ガラスに2人の女性が浮かび上がった。上質なドレスに包まれたお得意様と、薄汚れたエプロンドレスを着た私だった。
誰がどう見ても月と鼈。いや、それ以上の差が私達の間にあった。
彼女の断言するような言い方に、「イェリヌムなどどうでもいい」そう聞こえた。
なぜ買う気も無いのにイェリヌムの説明を真剣に聞いていたのか。
たまに見せたあの微笑は?一体彼女は何に対して笑っていたのだ。
私は彼女の言動の意図を導き出した。
「哀れみですか」
これは私の被害妄想に近い。あまりに陰湿な捉え方だ。それにこの問いを否定する事はかえってそれを意識していたという事になる。だからきっと彼女の口から出る言葉は「なんの事でしょう」か「どういう意味ですか」だろう。
強い口調で問いかける私に、お得意様の表情が曇る。
――さすがに考えすぎか。
私が謝ろうとすると、先に彼女が口を開いた。
彼女の答えは残酷だった。
「……そうかもしれません」
心に、棘でぐさりと刺されたような痛みを覚えた。
揺れる黒髪、遠ざかる蹄の音。
床に散らばったイェリヌムは、ガラスの破片に混じって薄汚い。
その後の事は、よく覚えていない。
◇
裏口にある焼却炉に大量の花を投げ入れた。
廃棄となった花々は燃やし、残った灰は肥料へと再利用する。美しい花を咲かせても、誰にも買ってもらわなければ他の花のための土となる。色彩を無くし、セピアに染まった花々を不憫に思う。
脇に積まれた新聞紙を手に取り、適当に開いた記事に目を通す。
〈ナラク新国王、即位式〉
〈アッラ・フェーラシェ・ダーグ開催間近〉
〈数十名の犠牲の元勝利〉
世界の情勢を知る為に必要なのだと、ここに来た時祖母が教えてくれた。
「全ての人へ輝きを」という言葉でユーロ・ドル・ガッバァーナが改革を起こし、貴族専属の裁縫師が高級ブランドを立ち上げた事も、新聞を読んで初めて知った事だ。
記事の説明を目で追うが、今日はまったく頭に入ってこない。
持っていた新聞をぐしゃぐしゃに丸め、焼却炉の中に投げ入れる。マッチで火を付ければ、枯れた花々は簡単に燃え上がった。
低めのスツールに腰掛け、背中を丸めて膝を抱える。炎の中でチリチリと燃える花をぼんやりと眺めながら、昨晩の事を思い出す。
確かお得意様が帰った後、私は誤ってイェリヌムの入っている花瓶を割った。
素手で破片を掻き集めようとした私を祖母が止め、疲れているようだから明日は休む様にと言われた。しかし祖母を一人で市場に行かせるわけにはいかず、結局午前中だけ働くことにした。
乾燥した唇を舐める。昨夜は口紅を買わなかった。
気づけば私は自室のベッドにいたし、買いに行こうとすら思えなかった。
私達の住んでいる家は、花屋の2階にある。カーヌスクードの端っこにある家から、大通りに向かうのには時間がかかる。
閉店時間にギリギリに走って来た私は汗だくで、質素な身なりで封筒からお金を取り出す。あの豪華絢爛なドメニコの店内で。
――想像しただけで恥ずかしい。
『…そうかもしれません』
彼女の言葉が脳内で反芻する。
目頭がじわりと熱くなり、腕の中に顔を埋める。外の空気は乾いているのに、腕の中は湿気て熱い。
裕福でなくとも、祖母と過ごす日々は幸せだった。化粧をする気力が無くたって、私なりに輝いていたつもりだった。哀れみをかけられるような人生では決して無い。
貴族に生まれた事は彼女にとって運がいい事なのかもしれないが、人の幸福を哀れむその環境は絶対に不幸だ。
焼却炉の蓋を勢い良く閉めて、思いを振り切るように立ち上がる。
明日は定休日だ。
祖母は音楽会の活動があるらしいし、今から自室に一人でいるのは気が引ける。
久しぶりに実家に帰ろうと思い立った私は、木棚に置いていたランプを手に取り振り返る。
すると暗闇の中から顔が浮かび上がった。
「わあ!?」
尻もちをつきそうになった私に、顔の主が私を支えた。まさかヘルヘイムの幽霊は触れるのか。パニックになって暴れていると、落ち着け!と叫ばれた。
聞き慣れた声だった。
「あれ…!?」
幼馴染のヤーコブだった。彼は怪訝な顔をして私を抱えている。
「泣いたり暴れたり騒がしいやつだなぁ」
先程の様子を見ていたらしい。私は恥ずかしさで顔が熱くなって、彼の腕からさっと離れた。
「やだ、なんで声かけてくれないの」
「かけづらかったんだよ。5年ぶりの再開なんだし元気な時に話したほうが良いかと思って」
ヤーコブは実家の近所に住んでいて、小さい頃仲良くしていた男の子だ。彼は私がヘルヘイムに行く前には実家を出ていた。おばさんが「あの馬鹿息子、旅人になるって言って出ていきやがった!」と怒り狂っていたのを覚えている。
「どうしてここに?」
ヤーコブは眉を寄せてはぁ?という顔をした。
「どうしてって、明日は祭日だろ。ヘルヘイムで大きいイベントがあるって聞いてとんで来たんだよ。最近はいろんな国のイベントを巡るのにハマってるんだ。それで、まあ、ついでだよ。カーヌスクードの花屋にお前がいるって聞いて立ち寄ったんだ」
やはり彼は旅人をしているらしい。よく見ると彼の顔はこんがりと日焼けしていて、着ている服はどこの国かも分からないような民族衣装だった。
おばさんの鬼のような形相が目に浮かぶ。
「てか、久しぶり。5年ぶりだよな。まあまあ元気そうで何より」
彼の無神経な言い方に、私は思わず笑ってしまう。
暗く張り詰めていた気持ちが、穏やかなものになっていった。
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