第13話

 彼女の顔は冷静なのに、今にも泣きだしてしまいそうな雰囲気を醸し出している。

 死にたくない、子供を抱きたい、生きていたい、といった文字が乱雑に書かれ、インクが掠れたところで日記は終わっていたらしい。


「2階から聞こえてきた赤ん坊の声に、私は絶望しました。奥様曰く、サニングが死んだ日の朝に生まれたのだと。……彼は我が子を抱けないまま死んでしまったんです」


 言葉が出なかった。

 私は悲観にくれる彼女を慰めるような言葉を持っていない。小さい頃に祖父が亡くなった事を除けば、身近な人が死んでしまった経験もない。私は黙って彼女の話を聞くことしかできなかった。

 お得意様が言うには、最後のページ以外には鍛錬の記録や、討伐数の目標などが書かれてあったらしい。サニングという男が、戦士業を専念していた事が伺える。しかし最後のページだけは、彼の本音が垣間見えた瞬間だった。

 お得意様は話しながら、胸がつかえるような吐息を漏らした。


「私は日記を見るまで、彼は戦う事こそが生きがいなのだと思っていました。彼の訃報を聞いた時も、戦場で死ぬ事は彼にとって本望だろうと思った。でも実際は違った。死にたくない、生きていたい。そんな当たり前の事が分からなかった。私は自分の苦しみから逃れるために、自分の都合の良い解釈をしたんです。……私は自分のために、彼を知った気でいたんです」


 私がはっとして顔をあげると、彼女は一点を見つめていた。視線の先には、新しく建てられたばかりの墓標がある。


〈サニング・ヘドマン〉


「彼に後衛を任せ、一人にしたのは私です。彼が死んでしまったのは自分のせいだと思いたくなかった。だから戦場で死ぬ事が彼の本望だと思い込むこんだ。……私は未熟で、あまりに愚かな人間なんです」

「そんな事ありません」


 私は思わず立ち上がる。


「私も新聞を読みました。記事には奇跡的に市民への被害は無かった、と。貴方は自分ができる限りの事をしたはずです。サニングさんの奥様もそれを分かっていて貴方に日記をみせたのではないでしょうか。日記に書かれた称賛があったからこそ、奥様は貴方を信頼し、快く日記を見せることができた。サニングさんも戦場に行く以上、死は覚悟していたはずです。貴方が死なせたわけじゃありません。仮に未熟であっても、貴方は決して愚かではない」


 彼女の金の瞳が微かに揺らぐ。私は地面に置いていたバスケットを手に取り、40本のヘルヴァッキを差し出した。


「愚かなのは私の方です。貴方への嫉妬に駆られ、手向けの花を盗んでしまった。頭で考えることと、実際に行動に移すことは違います。私は頭の中だけにとどまらず、実際にこうやって罪を犯した。これを愚かでないと、誰が言えるでしょうか」


 驚いた顔をした彼女の前へ膝をつき、頭を下げる。


「大変申し訳ありませんでした」


 ごつごつとした小石が額にめり込む。血が頭のほうにめぐってきて、じわじわと顔が熱くなる。

 頭を下げても、迫りくる罪悪感は拭えない。しかし許してほしいという気持ちはない。ただ死んでいった40人の魂と、お得意様に謝りたい。それだけだった。

 戸惑うお得意様の声が頭上で聞こえたあと、ややあって肩を優しく掴まれた。


「頭を上げてください。貴方は代わりの花を用意してくれたじゃありませんか」


 顔をあげると、優しく微笑む彼女の顔があった。私は今謝罪をしているというのに、彼女の美貌に呆然としてしまった。彼女の美貌は何度見ても慣れそうにない。

 ただこれからはきっと、胸が締め付けられるような苦しさは感じない。


「未来花は供花には使えないはずです。そんなものが代わりになるとは思えません」


 私が言うと、彼女は首を横に振る。そして「見てください」と言ってイェリヌムの花冠を取り出した。彼女が作ったらしい。イェリヌムの固い茎をしなやかに織り込み、花冠は綺麗な円を描いていた。


「貴方が取り換えたとしても、私はこの花を受け取る事に意味があったように思います。荒んだ私に「冥府ではなく、未来を見ろ」と、神に言われたような気さえしました。――そしてこの花を見ていて思ったんです。悲観に暮れているだけではだめだ。私は未来を守らなければならないのだ、と」


 これも私の都合の良い解釈かもしれませんが。

 そう言って彼女は恥ずかしそうに笑う。私は彼女の純粋なまでに美しいその顔を、忘れないようにと目に焼き付けた。


――彼女は清廉な人なのだ。私欲を持たず、人のために心を痛める事のできる人。そして苦しみから這い上がり、前を向いて進める人なのだ。

 この解釈も、実際は違うのかもしれない。けれど私は、この清廉な人のために何ができるのだろう、そう思った。


「少なくとも私はィルさんに感謝しているんです。貴方に罪があるならば、それは私も同じです。――これは私からのお礼です」


 私の頭に、花の冠がのせられる。


「それと、おまじない」


 彼女の手は私の頭上をかすめて、きらきらと光る粒子が舞い落ちる。

 どうやったんですかと問う前に、気づけば私は嗚咽を漏らしていた。私と彼女に間にあるヘルヴァッキに、数滴の涙がぽたぽたと落ちる。

 悪魔の梯子に照らされた私達は、同じ色に染まっていた。


ゴオン――ゴオン――


 遠くで、0時を告げる鐘の音が響いた。

 私は半透明になったお得意様を見つめて、頭を下げる。

 この人に私がしてあげられる事は、これだけだ。


「――鮮やかな日々を、お祈りします」


 その日、私は初めて祈りを捧げた。

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