第5話
バーディに到着した。
若干風が冷たいが、空から降り注ぐ太陽が温かい。荷馬車はバラ園の側を走り、木漏れ日が私の顔を優しく撫でる。川にかかるアーチ橋、赤木のガセボ、花々は針葉樹を背景に盛り上がっている。
懐かしい情景に、身体の芯がじんわり温まるような気がした。
バーディはミズカルズ圏南方のユットランド国にある農業の盛んな都市だ。『自然と生きる』をモットーに従い、主に農作物と繊維産業に特化している。
父が営む花卉栽培も含め、多種多様な特産物がある。私はスティッグさんがくれたリンゴをしゃくり、と噛んだ。みずみずしくて、甘い。食べなじみのある味だった。
「ィルちゃん久しぶりだなぁ。ヘルヘイムの〜どこだっけかぁ、カーヌスクードに暮らしてるんだっけ?」
スティッグさんは近所に住んでいるお爺さんだ。リンゴ農家を営んでいて、ちょうど収穫されたリンゴを農業組合に納品したところだったらしい。停留所を通りかかったスティッグさんがたまたま私を見つけ「送ってやるよぉ」と言ってくれた。
「いんや、なんとかダークだったっけ?」
「ニューダークですよ。あと、カーヌスクードはその国の都市ですね」
ミズカルズ圏に住んでいる者からすると、ヘルヘイム圏の国はぜんぶ同じように見えるのだろう。カーヌスクード街の事をヘルヘイムの国だと思っている人も少なくない。
「そうかぁ。わしはずっと夜の生活なんて考えられないなぁ。あぁ、そういえば、ニューダークの新国王が即位したって聞いたなぁ」
ぽんぽんと別の話題に切り替わる話し方は、スティッグさんの昔からの癖だ。
スティッグさんの頭には大きな傷があり、いつも麦わら帽子を被っている。
彼は10年程前にバーディに移り住んで来た人で、バーディにはない独特の訛りがある。
当時、スティッグさんは頭の傷が奇妙だと村人達から嫌煙されていた。しかし彼はその人当たり良さで村人達とすぐに打ち解け、今ではバーディのマスコット的な存在になっている。
歯抜けの口が面白いと子供からからかわれては、「魔獣に取られちまったのさ」なんていう冗談を言い、子供達を脅かしていた。
「確か水曜日に即位式がありました。お祝いに花を買いに来る人がたくさん来て、その日はすごく忙しかったです」
「うーん、そうかぁ。地底の事はよく分からないけど、即位式で盛り上がれるのは良い事だなぁ。王が国民に愛されてる証拠だぁ」
スティッグさんは背中越しにカカカッと笑った。後ろから見たスティッグさんの背中は案外体格が良く、肩幅も広い。小さい頃によく肩車をしてもらったのを覚えている。
道中、スティッグさんは馬車の脇道にいた子供に何度か手を振られていた。昔と比べると背中が丸まっているが、その様子から察するに今でも肩車をしてあげているのだろう。
バラのアーチをかけ抜けると、ぱぁっと視界が明るくなる。長く続く道の先に花の絨毯が広がり、目を細めると、小さく私の家が見えた。
煙突から細い煙がもくもくと立ち上っている。
「昼飯に間に合わねぇとな〜」
スティッグさんは鞭をピチリと鳴らし、速度を上げた。
家に着いた後、スティッグさんにお礼にと、包装紙に包んであった1本のヘルヴァッキを渡した。
盗んだ物を人に差し出すのは気が引けたが、代わりになるものが他になかった。
ヘルヘイムからバーディへの長距離移動で、花同士が擦れて痛んでしまわないように梱包してあったものだ。
ミズカルズ圏に住んでいる人にとって、ヘルヴァッキは珍しい花だろう。スティッグさんは包まれたヘルヴァッキを覗き込むように見つめ、二カッと笑った。
「ありがとうなぁ」
「いいえ、こちらこそ有難う御座います」
お辞儀をして振り返ると、スティッグさんに引き留められた。
「ィルちゃんコレ、やるよぉ」
渡されたのは新聞の束だった。
私が首を傾げると、スティッグさんはカカカッと笑って颯爽と去っていった。
「やっぱり、不思議な人…」
貰った新聞を脇に挟み、私は家の方へと足を運ばせた。
◇
実家に帰ると、両親は急に帰ってきた私に驚きつつも、笑顔で出迎えてくれた。昼食を終えた後は花屋の仕事の事や、祖母の事、ヘルヘイムの生活ぶりをいくつか話した。
祖母は父方の親で、父はミズカルズで独り暮らしを初めて直ぐ母と出会ったらしい。そのため母は夜の国に興味津々で、カーヌスクードの路面店の事を話すと目を輝かせた。
「クリスチャン・ドルトンのジュエリーはお母さんも憧れなの…!いつか私達も行かなきゃ、ねぇお父さん」
「あはは…そうだねぇ」
はしゃぐ母の横で、父は冷や汗をかいている。ドルトンの相場を知っているからこその冷や汗だ。
「お母さん、今日フィーカは?」
私が助け舟を出すと、母はそうだったわと言ってキッチンの方へと向かっていった。シナモンの甘い香りが此方にまで漂ってきている。今日のフィーカはシナモンロールだ。
「お婆ちゃんと仲が良いのも頷けるね」
私がこっそり耳打ちすると、父は肩をすくめた。
「うちの女性陣はきらびやかな物が好きだからね…。お父さんもっと頑張るよ」
「フォレスト家は男性陣が献身的だもんね」
「曽祖父からの教育なんだ。私の父も、ヘルヘイムに焦がれた母のためにニューダークに移り住んだしねぇ」
「お父さんも薔薇が好きなお母さんのために花卉栽培を始めたんでしょう?」
父は落ちかけた眼鏡をくいと上げて、「そうさ!」と誇らしげに言う。
「プロポーズする時は花束じゃなくて、花畑を選んだんだよ。薔薇に囲まれてはしゃぐママは本当に美しかった!美の神フレイヤはここにいた!そう思ったね」
「お父さん、その話は何百回も聞いたよ」
私がそう言うと、父は「そうだったか」と言って恥ずかしそうに笑った。
しばらくして、シナモンロールが焼き上がった。母は鼻歌を歌いながら、お気に入りのティーカップに紅茶を注ぐ。母が茶目っ気のある口調で「今日のは格別よ」と言った。
また大げさな、と思いながら紅茶を少し口に含んで、驚いた。今まで様々な紅茶を飲んできたが、確かにこの紅茶は格別に美味しい。レモングラス、ベルガモット、シトラスフルーツの清々しい香気はイェリヌムを彷彿とさせる。机に出された紅茶缶を見ると、どことも分からない外国語が書かれていた。蓋には木の根と泉の絵が描かれてある。「これ、どこの紅茶?」と聞くと母はにやりと笑った。
「市場には出回ってないのよ。美味しいでしょう」
「うん、すごく」
質問を少し濁されたような気がしたが、気に留めなかった。私はそのまま紅茶の風味を楽しみ、手元にあるティーカップに目線を落とす。茶色に透けた陶器の白は美しく、ソーサーの縁にはティアラの模様が施されていた。
「お母さんはこのブランド好きだよね」
私がティーセットを指差すと、母はふふんと鼻を鳴らした。
「ブランドが好きなんじゃないわ、お母さんはティアラが好きなの」
「そうなの?」
「ええそうよ。私もお義母様と同じ、バルドル神を信奉しているから」
意味がわからずきょとんとしていると、母はティーカップの側で口を緩ませた。
「結婚式にティアラをつけるのはどうしてだと思う?」
考えたことも無かった。
私が「分からない」と答えると、母はティースプーンを自慢げに掲げた。
ティースプーンの柄に、小さなティアラが描かれている。
「ティアラはね、神に祈りを捧げるためにあるの」
「神様に?」
「そう。昔は星空に神々がいると考えられていて、誓いを立てるのは星空の下と決まっていたの。それが屋内に変わったのは、星空をモチーフにしたシャンデリアが誕生してからの話。やがてシャンデリアを見立てて、ティアラや冠が生まれた」
暖炉の上には、母が結婚式につけたティアラドームが飾られてある。
母はソバージュヘアを耳にかけ、輝くティアラに視線を移す。遠くを見据える母の横顔は美しかった。
「ティアラは、神に誓いを立てるための星空なのよ」
恍惚とした表情の母を、父は愛おしそうに見つめていた。
少女らしさの奥に信心深さを忍ばせ、女性に生まれた喜びを謳歌する母。
華やかな物に焦れ、神を愛しヘルヘイムに下った祖母。二人共、信奉と乙女心を忘れない人だった。
私はそういった彼女達の血を引き継ぎ、そうありたいと強く願った。
煌めくルージュ、シルクのドレス、お城のようなステンドグラス。女性は生まれながらにそういった物に恋焦がれる性質を持つ。
それは地位やお金に無い、乙女として生きる事への切望なのだろう。
両親との話に花が咲き気づけば、辺りが夕暮れに染まっていた。
小さい頃、ティアラを着けたいと駄々をこねた時、母は「いつかその時が来るからね」と言って私の手の届かない場所へティアラを置いた。背が伸びた頃、暖炉の上には容易に手が届いたが、私はティアラを着けようとはしなかった。
――いや正確には、着けられなかった。
その時の私には、ティアラを付ける資格が無いように思えていたからだ。
『暗いと綺麗に見えるってこと』
両親との談笑の途中、何度もヤーコブの言葉が蘇った。
私の信奉心が薄いのは、私に父のような存在が居ないからなのかもしれない。
「そういえば、ヤーコブ君とは会ったのかい?」
父の口から出た名前にドキリ、とした。
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