チュニジアの夜

ツル・ヒゲ雄

1 ディス・イズ・ア・ロウ

 すべてを洗い流すように、三日間も雨が降り続いた。桜の花びらは無惨にも散り、空は厚い雲におおわれて鈍色にびいろだった。冬が引き返してきたように冷えた。

 それから二日連続で晴れた。空はどこまでも高く、底が抜けたような青さだった。暑くも寒くもなくて過ごしやすく、陽光が肌に心地よかった。

 心地いい陽光を浴びて、僕は会社を辞める決意をした。論理的に、順序だてて考えた結論ではない。突然降り始めたひょうのように出し抜けな決意だった。


「来月いっぱいで退職させていただきたく思います。申し訳ありませんが」僕は携帯電話のマイクに言った。

「逃げるのか? お前」受話口から社長の声が聴こえた。退職の意思表示は、社長に直接伝えることが課せられていた。

「会社を去ることは僕にとっても心苦しいことです。ただ、逃げるわけではありません」

「心苦しいにもかかわらず、お前は会社を辞めようとしている」ベルトコンベアーで自分の目の前に運ばれてきた部品に不具合がないか、注意深く検品するように社長は言った。

「退職については心苦しく思います。ただ、家業の不動産屋を継ぐ必要が出てきたのです。家族の体調が思わしくないのです」

「お前は十分に務めを果たせたとでも思っているのか?」

「恐縮ですが、そうは思っていません」

「まとめると、お前は個人的な事情を優先させて、果たすべき責任を放棄して、逃げ出そうとしている。そういうことだな?」敵前逃亡を図った軍人を軍法会議で裁くように社長は言った。

「社長がそう仰られるのはごもっともだと思います。期待に応えられず申し訳ありません。ただ、これまで社長にお世話になったことは、感謝してもしきれません」


 ろくでもない会社だった。ベンチャー企業を標榜していたが、革新的なアイディアやテクノロジー、あるいは確たるビジョンがあるわけではなかった。どれだけ目を凝らしてみても、そこにあるのは勢いと野心だけだ。二十数年しか生きていない僕にして、そう言いきれてしまうくらい底が浅かった。

 同じような問答が何度か続いた。オフィスのバルコニーで空を眺めながら社長と電話をしていた。青々としていた空に赤みが差してきた。やがてあたりは遠慮のない真っ赤な夕焼けに染めあげられた。次第に仄暗くなり、ついには街に街灯が灯った。

 適当に、それでいて真剣に相槌をうちながら、バルコニーの下に広がるコインパーキングを見るともなく見た。

 ビルとビルの隙間に無理やりねじ込んだようにコインパーキングは細長かった。車庫入れが苦手なドライバーにとってはひどく不親切なつくりだが、そこに収まるのが当然の帰結と言わんばかりに、巨大なレクサス・ISを勢いよく一発で駐車していくドライバーがいた。

 反対に小回りがきくスズキ・アルトで、たっぷりと時間をかけて何度も切り返し、やっとのことで駐車を終えるドライバーもいた。

 そんな光景を眺めながら、不毛なやり取りをスマートに決着できる人が、世の中にどれくらいいるのだろうか? と考えた。社長との話は突然の終結を迎えた。

「もういい」社長は言った。「お前は、もういい」

 今すぐにでも、横になって休みたいくらいの疲労が身体を支配していた。


 高いところから足を踏み外さぬよう、ゆっくりと歩く猫のように注意深く退職の手続きを進めた。

 会社は毎月十名を採用し、ひきかえに十三名が退職していくような状況だった。人事担当者による退職の手続きはこなれたもので、そこに特別な感情らしきものはなかった。

 上司と同僚から、浅瀬でふざけあうような労いの言葉があった。送別会の誘いがあったが断った。かくして、僕は無職になった。


 会社を辞めた僕は旅行に行くことにした。軍艦島を見たい、という理由で長崎にした。中部国際空港から長崎空港に飛んだ。旅客機が着陸するときのちょっとした緊張感は、社長と退職をめぐる電話をしていたときに眺めていた、駐車に苦戦するスズキ・アルトのドライバーを思い出させた。

 飛行機の中では、ブラーの『パークライフ』を聴いて過ごした。窓際の座席から真っ青な空を見おろし、気だるく伸びやかな『ディス・イズ・ア・ロウ』に聴き入った。悪くない気分だった。


 目に痛い青空の下、生ぬるい潮風を身体に受けてフェリーで軍艦島に上陸した。たしかに軍艦島は存在していた。かつてそこで生活した人々の、熱気の残りくずのようなものを感じた。ここにもう誰もいないことが不思議だった。いつの日か、残された建物もかたちを失い、なにもかもが消え去る。

 自らの死期がそう遠くないと悟っている理性的な老人のように、軍艦島は静かに消滅のときを待ってるように見えた。


 長崎からは二泊三日で帰った。ほとんど軍艦島の存在を確認するためだけに行ったようなものだった。軍艦島を見たほかには、ひどく太った女と一晩を共にしたことくらいしか覚えていない。

 長崎から帰ると、ふと現実的なことが気になり始めた。わずかばかりの蓄えしかなく、預金残高の底が見えていた。

 いや、正確に言うならば、わずかばかりの蓄えすら僕にはない。あるのは、総額がわからなくなった借金だけだった。とくにこれといった理由もなく、なんとなく足りない分をキャッシングで補填し続けてきた。わかっているのは、どのカードもほとんど限度額いっぱいだということだけだ。

 これまで経済的な見通しが気にならなかったことが不思議に思えた。いっそのこと、長崎に留まっていれば実際的な心配事は持ちあがらなかったのではないか? とすら思えた。

 なにはともあれ、どこを探しても明るい兆しは見当たらなかった。それでも僕は再就職する意思も意欲も、まったく持ちあわせていなかった。

 これまでを思い返せば、なるようになってきた。なるようになる限定的な範囲で人生を選んできた。受験、就職、それから付き合う女。手の届く範囲だけでことを済ませてきた。なりゆきと間に合わせだけで生きてきたようなものだった。

 なるようにしかならないし、それで構わない。僕はすべての思考を断ち切るべく、ベッドに寝転がった。狭苦しいワンルームマンションは、ベッドを中心として、動かなくてもできる限り必要な物に手が届くように最適化されている。手が届く範囲だけで、ほとんどすべてが完結する世界だ。

 タオルケットを几帳面に首元まで引き上げ、レースのカーテンから部屋に漏れ入る、暖かい陽光を感じながら目を閉じた。眠りはすぐにやってきた。


 それは突然だった。ほとんど反射に近い出来事だった。

 マクドナルドでチーズバーガーを食べていた。空腹を一時的に紛らわすためだけの食事だ。バーガーを頬張り、ろくに味がしないホットコーヒーで胃に流し込んだ。若者が多く集まる街、大須商店街にほど近い場所だからか、店内は雑多な人々で賑わっていた。

 そのとき、左手に見えるスタッフルームの扉が開いた。横目で眺めると、扉の向こうから一人の女が出てきた。一目でわかった。彼女は、僕がチーズバーガーとホットコーヒーを注文した店員だった。

 素敵な笑顔の店員だった。飾り気がなく、取りたてて美人ではないところに親しみを覚えた。

 彼女は豊かな黒髪を後ろで束ね、リラックス感があるネイビーのバスクシャツを着ていた。その上からグレーのカーディガンを羽織り、タイトなブルージーンズを穿いてる。靴は真っ赤なパンプスで、エル・エル・ビーンのグローサリー・トートを肩にかけている。アクセサリーは身に着けていないように見えた。


 僕は席を立ち上がり、彼女に向かって歩いた。

「こんにちは」僕は彼女に話しかけた。「チーズバーガーとコーヒーをありがとうございました」

 彼女の表情はかたく、苔が生えた地蔵のように微動だにしなかった。左目の目尻にある泣きぼくろが印象的だ。

「あなたの笑顔が素敵だったので、思わずお礼を伝えたくなりました」僕は言った。「ちょうど目の前を通るのが見えたので」

「目の前を通ったから、お礼を伝えている」彼女は僕が言ったことを機械的に繰り返した。「ありがとうございます。嬉しいです」

「突然ですけれど、ビールとカクテルだったらどちらがお好きですか?」僕はなりゆきに任せて喋ってみた。

「どちらかというとカクテルです」彼女は怪訝そうに宙を眺めた。

「ちょうどよかった」僕は大げさに手を叩いてみせた。「ここからすぐの所に、おいしいカクテルを飲ませてくれる気の利いた店があります。隠れ家のような店で、店内はとてもシックで清潔です。もしよかったらですけれど、せっかくなのでお礼に一杯だけいかがですか? 十分か十五分くらいで構いません」

 彼女は僕を見た。生徒の通知表をつける教員のような目をしている。

「いいですよ」彼女は微笑んだ。「お礼をされるほどのことではありませんが」

 僕は彼女と一緒にマクドナルドを出た。

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