13 ユルケン

 どれくらいの間、意識を失っていたのだろうか? 時間の感覚というものが消し飛んでいた。全身を支配する激しい痛みだけがある。鈍く、それでいて鋭い苦痛だった。頭が割れるように痛んだ。

 慎重に上半身を床から起こした。身体はなんとか動いた。あたりには僕の体内から出たのであろう血反吐が飛び散っていた。口の中は鉄の味で満ちている。

 ソファにドレーとスヌープが座っていた。すでにスタン・ゲッツのレコードはかかっていなかった。部屋はまったくの無音だった。

「今後について話そうか」スヌープが言った。「毎週日曜日に売上を締め、一週間の売上のうち三割を現金でここに届けてもらう。帳簿と一緒にな」

 気が遠のき、視界が狭くなった。

「なにもこれからずっと売上の三割を納め続けろと言ってるわけじゃない」スヌープは眉を大きく動かした。「今回の手間賃を上乗せしているだけだ。信頼関係が築けたら手数料率は見直すさ」

 僕はひざまずくようにして話の続きを待った。

「これ以上つまらないことを考えるなよ」スヌープは顎をさすった。「当然お前に拒否権はないし、売上をごまかしたりもなしだ。フェアにいこうぜ」

 僕にはもう、なにも言うことがなかった。

「そういえば、見せておかなければならないものがあったな」

 ドレーは突然思い出したように言った。ソファを立ち上がり、奥の部屋に続くドアへと歩いた。わずかに開いていたドアが完全に開け放たれた。

「見ろ」

 愚鈍な象のようにのっそりと僕は立ち上がり、前かがみになりながらおぼつかない足取りで、開かれたドアに向かって歩いた。


 奥の部屋の床に、アリマさんが仰むけで横たわっていた。左手――人差し指の第一関節から先がない方の手――を胸の上に乗せていた。

 アリマさんの口は開かれ、不自然な空洞になっていた。顔面にいびつな凹凸おうとつができていた。右腕と左脚がおかしな方向に折れ曲がっていた。薄暗い中でもわかるくらいに肌が蒼白だった。体温がまったく感じられなさそうだった。動く気配もなかった。魂が抜け出てしまったかのように目は見開かれ、そのまわりは暗くくぼんでいた。

 僕は音もなくその場に座り込んだ。

「お前さ、自分のことを少しは頭が回る、賢い人間だとでも思っていただろう?」背後からスヌープの声がした。「その結果がこれだ」

 耳に入る言葉は認識できたが、意味を理解できなかった。

「判断を大いに見誤ったな」スヌープが踵を返して歩き始めた気配を感じた。「半端者」

 僕は床にへたり込んだまま後ろを振り返った。ドレーとスヌープが玄関のドアに向かって歩いていくのが見えた。

 ドレーがこちらを振り返った。「その死体には一切触れるな。三十分以内にこの部屋から出ていけ」

「今週末の日曜日にこの部屋でまた会おうぜ」手をかざしながらスヌープは言った。

 彼らはチェーンロックを外し、ドアの鍵を開けて部屋から出て行った。ドアが閉まる音が部屋に響きわたった。

 ぴくりとも動かないアリマさんに僕は向き直った。あらためて顔を見ると、あざだらけで変形した頬に涙が流れた跡を認めた。乱暴を受けた気配が身体から漂っていた。

『その死体』とドレーは言った。たしかに完璧な死体だった。かつてはアリマさん、あるいはマナミと呼ばれていた死体だ。


 十分か十五分が経った。もしかしたら二十分かもしれないし、二十五分だったかもしれない。いずれにしても三十分は経過していなかったと思うが、実は一時間が過ぎていたと言われても納得できる。

 その場から立ち上がり、玄関のドアに向かって歩き出した。部屋から出る前に、アリマさんが横たわる部屋を振り返った。僕が立つ位置からは、もうその姿を見ることはできなかった。曇天の夜空に目を凝らして星を探すようなものだった。


 部屋を出るとダークスーツを着た男が一人立っていた。男は僕のことを頭からつま先までひとしきり眺めた。特別な感情はもっていないようだった。見張りなのだろう。

「早く行け」男は言った。

 僕は男の顔を見た。青白い蛍光灯に照らされた薄暗い肌、短く刈り込まれた眉、半開きのような小さい目、分厚い唇。無造作に立ち上げられた短髪の鋭さに目が痛んだ。

「早く行け」男は眉間にしわを寄せた。「これ以上痛い目にあわされたくなかったらな」

 もうこりごりだった。無言で歩き出した。背後でライターを擦るような音が聴こえ、タバコの紫煙が香った。僕は振り返らなかった。


 痛めつけられた身体を引きずり、栄駅と伏見駅の間に位置するマンションの敷地から出た。大通りでタクシーを止めようとした。三回連続で乗車を拒否されて諦めた。身に着けていた黒いチャンピオン・T1011にも、リーバイス・501にも、濃い血がこびりつくようにして付着していた。

 できるだけ大通りを避けて、自分が住むマンションを目指して歩いた。身体が弾け飛んだように全身が痛み、頭を潰されたような頭痛が続いていた。脳は今すぐに機能を停止して休みたがっていた。たとえようもない倦怠感の沼に沈んでいた。

 月明かりに照らされて無心で歩き続けた。いくつかの星が見えた。ネオンの光を見ていると気が遠くなり、視界がぼやけてかすんだ。道を歩く人はほとんどいなかったが、時折車が走り抜けていき、そのたびに地震のような振動を感じた。

 ポケットをまさぐるとイヤフォンが入っていることに気がついた。イヤフォンを両耳に押し込み、気を保つために音楽を再生した。オウテカの『ユルケン』が流れ出した。疲労感、徒労感、絶望感がゆっくりと、いくつもの層を織りなすおりのように身体に堆積していくのが感じられた。

 凄惨な戦争が終わり、満身創痍で故郷に帰る兵士のような気分だった。何十分歩いたのかよくわからなくなったころにマンションまで辿り着いた。


 着ていた衣類と下着をすべて脱ぎ、ゴミ袋に突っ込んだ。身体に付着していた血液と汗とよくわからない体液を、濡らしたタオルでできる限り拭きとった。白いタオルは、赤く、黒く、茶色く、黄色く、なんとも言い難い色に染まった。そのタオルもゴミ袋に放り込んだ。

 そのまま裸でベッドに潜り込んだ。もう目が覚めることはないかもしれないという気がした。それで構わないと思った。目を閉じた瞬間に眠りが降りた。


 日が昇り朝がやってきた。相変わらず砂嵐のような頭痛が続いていて、すりおろされる大根のように全身が痛んだ。鏡で顔と身体を確認すると、思わず目を背けたくなるようなありさまだった。顔は腫れ上がり、満足に目を開くことができなかった。身体は不吉な色をしたあざにまみれていた。

 その日の仕事をすべてキャンセルして、タクシーを呼んで病院に行った。当然暴行を疑われたが、酒に酔って階段から転げ落ちたと説明した。こんな冗談みたいな嘘をつく日がくるとは思いもしなかった。

 半日と少しをかけて、身体中を入念に検査された。右の頬と、左わき腹にひびが入っていた。ほかに異常はなさそうだった。

 夕方ごろ、マンションに帰った。ソファに寝転び、これからのことを考えようとしたが、すぐに眠気に襲われた。深い眠りに吸い込まれていった。


 目が覚めると、向かいのソファにヨシイさんが座っていた。僕は身体を起こし、首を回した。カーテンから部屋に差し込んでいた陽光は消え、あたりは暗くなっていた。部屋の電気はついていなかった。

 僕が起きあがったのを確認してからヨシイさんは立ちあがり、部屋の電気のスイッチを押した。ぱちんという小気味良い音が響き、部屋に明かりが灯った。ヨシイさんはそのまま窓辺へ歩き、カーテンを隙間なくぴたりと閉めてからソファに座った。

「もう二十一時ですよ」ヨシイさんは言った。

 頭の中で何時間寝ていたのか計算しようとしたが、なかなかうまくできなかった。根気強く時間をかけて何度か計算して、僕は三時間ほど寝ていたのだと理解できた。

「今日の仕事のキャンセルが気になって来ました」ヨシイさんの声はいつも通り抑揚に欠ける響きだった。「ひどい顔ですね。なにがあったのですか?」

「昨晩、あの二人組にさらわれた。みかじめ料を要求されている、あの二人組に」僕はまぶたを擦った。「時間を稼ごうとしたことがやぶへびになったんだ」

 ヨシイさんは黙って頷いた。

「叩きのめされた」頬骨と右わき腹が軋んだ。「身体の骨に数か所ひびが入るくらい、手痛くやられた」

「本当に痛々しいですね」ヨシイさんは軽くため息をついた。

「彼らは売上の三割をみかじめ料として渡すように言ってきた。僕には拒否することも、先延ばしにすることもできなかった」

 世界中から誰もいなくなってしまったみたいに部屋は静かだった。静寂が耳に痛かった。ヨシイさんはじっと黙っていた。

「それから、言わなければならないことがある」僕は深く息を吐いた。「アリマさんが、彼らに殺された」

 部屋は重たい沈黙に沈んだ。ヨシイさんはぴくりとも動かなかった。どこか遠くを眺めながら、聞いたことを理解しようとしているようだった。


 僕らは長いこと無言で過ごした。目線は交わらなかった。僕はアリマさんのことを思った。ヨシイさんもきっとアリマさんのことを思っていた。

「これからどうするつもりですか?」ヨシイさんが沈黙を破った。

「彼らの要求に従うほかない」僕は言った。「新たな犠牲が生まれかねない。逃げることも叶わなさそうだ」

 再び沈黙が降りた。


 テレビ・ドラマを一話観終えるくらいの時間が経ってから、我々は薄い陶器の皿のように重なりあった。たしかな温度と弾力があった。しばらくしてからヨシイさんは立ち上がった。

「お大事にしてください」

「明日から仕事を再開するよ」

 スヌープの刺青について確認したかったが、やめておいた。スヌープの相手をしたときに裸体を見たのであれば、あんなに目立つ刺青を見落とすはずはない。

 ヨシイさんはスヌープの刺青のことをあえて僕に隠したのか、もしくは裸体を見ていないのか、そのどちらかなのだ。いずれにしても違和感があった。

 なにかしら不審な予感があったが、確証はなかった。なにより僕は打ちのめされていて、核心に迫る気力がなかった。


 翌日、アリマさんの死は暴行殺人事件としてニュースになった。冴えない顔をした住所不定無職の、蚊も殺せなさそうな男が犯人として逮捕された。

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