14 幸せになろうね
いっこうにあがる気配のない雨が降り続いていた。いつからだろうか? 思い出すことができない。記憶がひどくあやふやになっている。
ここ数日、わたしの意識はつねにぼんやりとしていた。時間の感覚というものがひどくおとろえていて、おまけに目に映るものがなんなのか理解するのにもとても時間がかかった。
耳に聞こえるものも、それが言葉なのか、雑音なのか、音楽なのかはかろうじてわかったけれども、それがなにを意味しているのかはわかるような、わからないような、曖昧な状態が続いていた。
朝、目が覚めてカーテンを開いた。部屋に日の光は入ってこなかった。今日も雨が降っている。雨が建物をうつ音がかすかに聴こえた。
顔を洗って食堂にむかった。何人かとすれ違ったけれど、だれもが沈みこんでいるように見えた。朝ごはんは目玉焼きと、レタスが添えられたウインナーと、お味噌汁と、サラダと、ごはんだった。
隅っこの席に座り、背中を丸めてお味噌汁のおわんを持ちあげたとき、テーブルに食器のプレートが置かれる音がして目線をあげた。目の前に美香が立っていた。
「おはよう」と美香は言って椅子に座った。
「おはよう」
わたしはお味噌汁をすすり、美香はサラダから手をつけた。あたりには何人かが少しずつ間隔をあけて座っていたけれど、みんなほとんど無言だった。咀嚼音と、セラミックの陶器がぶつかる音だけが響いた。
仕事も学校も休んで、だれもいない部屋のベッドに寝転んだ。目を閉じてみたけれど、眠りがやってくる気配はなかった。
寝返りをうつようにして部屋を見渡した。部屋には小さな学習机が一直線に三つ並んでいて、あとは二段ベッドが一つと、私が寝転んでいる一段ベッドが一つ置いてあるだけで、それで家具はすべてだった。
衣類やバッグなど、クローゼットにしまうべきこまごまとしたものが、ばらばらと床に出ていた。生活感がにじみ出ている見慣れた部屋が、なんだか知らない空間に思えた。
ほとんどベッドの上でそのまま夕方まで過ごした。お昼ご飯は食べなかった。お腹の下のあたりに力をこめて、わたしは両腕で反動をつけるようにしてなんとかベッドから起きあがった。身支度をして制服に着替えた。
談話室に行くと、美香がわたしを待っていた。大きな窓から見える外の景色は灰色で、窓が雨でぬれていた。
わたしと美香は施設を出て、葬儀場にむかった。二人して透明なビニール傘をさして、喋ることもなく歩いた。二十分くらい地下鉄を乗り継いで到着した葬儀場は天井が高くて、異世界に迷いこんだような気分になった。
見よう見まねで受付を済ませて、ホールのなかに進んだ。白っぽい木でできた祭壇が正面にあって、ひかえめな花で彩られていた。祭壇の真んなかには、真奈美の大きな遺影写真が置かれていた。人はまだほとんどいなかった。
わたしは遠くから真奈美の遺影写真を眺めた。遺影写真の真奈美は、顔をくしゃくしゃにして、目を糸みたいにして笑っていた。いつもの真奈美の笑顔だった。
「前に行って、棺に手をあわせてもいいんだよ」と後ろから声がした。
振り返ると、施設の職員がいた。わたしは頷いて、美香と一緒に一歩一歩ふみしめるようにしてホールの前の方に進んだ。
わたしと美香は、白い布がはられた棺を覗きこんだ。真奈美の肌は陶器のお皿のように白くて、綺麗に化粧がされていた。両手が胸の前で組まれていて、やっぱり左手の人差し指の先はなかった。
棺のなかには、真奈美が最近よく着ていたジャンパースカートや、革の巾着バッグが入っていた。なにもなかったみたいに、ひどいことをされた形跡は消されていたけれども、そこにはいつもと違う真奈美が入っていた。目をつぶって、静かに手をあわせた。
時間が経つにつれてだんだんと人が増えてきて、お通夜が始まり、あっさりとおわった。翌日にはお葬式があった。
お葬式の最後にみんなで棺のなかに花を入れて、棺の蓋が閉められた。それから棺は白い霊柩車にのせられた。悲鳴のようなクラクションの音があたりに長く鳴り響き、それを合図にして霊柩車は雨のなかを火葬場にむけてゆっくりと走りだした。
真奈美の家族や親戚はだれも来なかった。
その翌日から、わたしはこれまで通りに仕事をするようになった。カワサキさんが朝から晩まで、ぎっちりと隙間なく仕事を入れることはなくなり、ほどほどに忙しいこれまでの日々に戻った。
久しぶりに晴れた太陽の光が窓から待機室に差しこんでいる。あともう少しで黄昏時という昼間のおわり間際の時刻で、ほんのわずかばかりの夕焼けが溶けこんでいて、黄色くて暖かい日の光が肌にあたっていた。夏のように暑かった。
「なんか、最近すごく静かですよね」とサキは言った。
「なにが?」
「毎日……っていうか、あたしたち?」
「そうかな」わたしは曖昧に首をかしげた。
「なんていうか……妙に静かな気がするんですよね」サキは指先で頭をかいた。「カワサキさんなんて、最近ほとんど喋らないし」
「それはたしかにそうだね」
「まあ、マナミがあんなことになっちゃったからなのかもしれませんけど……」
「そうだね」わたしは頷いた。「わたしも辛い」
「あたしもです」
サキがそう言ったときに、部屋の鍵が回り、ドアが開く音がした。カワサキさんがやって来た。
「お疲れ」とカワサキさんは言った。「行こうか」
「はい」とサキは言い、待機室のソファから素早く立ちあがった。
カワサキさんの顔はあきらかに憔悴していた。髪は以前にもましてぱさついていて、目にはくっきりとしたくまが刻みこまれていて、頬がこけていた。
カワサキさんとサキが行ってしまうと、わたしは待機室の沈黙に押しつぶされてしまいそうになった。どうやっても言葉にすることができない種類の、深い孤独を感じた。
日々はあっという間に過ぎ去り、真奈美の四十九日法要というものがおわった。お通夜とお葬式のときと同じように、真奈美の家族や親せきの人はだれも来なかった。
四十九日法要がすんだときに、真奈美のお母さんはすでに亡くなっているということを初めて知った。なぜ施設に入ることになったのか、お互いになんとなくは話していたけれども、真奈美からそんなことは聞いていなかった。
ひょっとしてわたしは、真奈美のことをなにも知らなかったのかもしれない。なにもわかっていなかったのかもしれない。そんな気持ちになった。
わたしはいったい、真奈美のなにをわかってあげられていたのだろうか? もしかしたらそう考えることすらも傲慢で、真奈美はそんなことは求めていなかったのかもしれないけれど、今となってはなにもわからない。お母さんと同じ京都のお墓に真奈美は入ったと施設の職員から聞いた。
生理がやってきたタイミングで休みをとり、わたしは真奈美のお墓参りに行くことにした。名古屋から新幹線に乗りこみ、京都を目指した。
新幹線に乗るのはいつぶりだろう? 小学生のときの修学旅行以来かもしれない。中学生のときは修学旅行に行かなかった。
記憶にあまり自信がなかった。小学生のとき、わたしはたしかに修学旅行に行ったはずだけれども、もしかしたら新幹線ではなくバスで行ったのかもしれない。もしそうだとすると、わたしが最後に新幹線に乗ったのは、名古屋の叔母に引き取られたときだということになる。そうなのかもしれない。
京都駅に着いて、新幹線から電車に乗り換えた。宇治駅を目指した。電車の座席に座ると、縁もゆかりもない土地にいることが突然不思議に思えた。思えば旅行なんて行ったこともなかった。
窓に映る見慣れない風景を眺めた。知らない土地の知らない人の生活に思いを馳せた。他人の人生はじょうずに想像できなかった。
宇治駅にはすぐに到着した。駅を出てタクシーに乗りこんだ。タクシーは市街地を抜けて、山道を登り始めた。十五分くらい走ると、草原が広がる山間の霊園にタクシーは停まった。
管理事務所で真奈美のお墓の場所を尋ねて、お供えするお花を買った。ゆるやかな斜面になっている草原のなかほどまで歩くと、真奈美のお墓はすぐに見つかった。お墓というより、背の低い記念碑みたいだった。
これ以上はないというくらいに空は晴れていて、目が覚めるほどの青空だった。広い公園みたいな霊園で、真奈美にふさわしい開放的な場所だった。
真奈美と、真奈美のお母さんが入るお墓の前でわたしはしゃがみこんだ。青々とした芝生の上にお花をお供えして、その上からおもしを置いた。わたしはそっと手を合わせた。
風が強くて、少しだけ肌寒かった。天気はよかったけれど、殴りつけるような風が吹いていた。真奈美を抱きしめて、『幸せになろうね』と言ったことを思い出した。真奈美がつけていた、メロンの香水みたいな匂いをもう一度だけ嗅ぎたかった。真奈美の身体は柔らかかった。音もなくわたしの頬を一筋の涙がつたった。
わたしは立ちあがった。着ていた薄手のコートが強風でばたばたとはためいた。後ろでまとめている髪がなびいた。霊園の入り口近くまで歩いてから、後ろを振り返った。入口近くからでは、広大な霊園のなかで真奈美が入っているお墓はどれなのか、まったく見分けがつかなかった。
タクシーを呼んで宇治駅まで戻った。少し時間があったので京都の街並みを見てから帰ろうかとも思ったけれど、そんな気にはならなかった。見に行くべきところもぜんぜん思い浮かばなかった。帰りの新幹線の切符をとって、わたしは名古屋に帰った。
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