12 長い夜

 カワサキさんは朝から晩まで仕事を入れた。毎日が突然あわただしくなった。わたしも可能な限り仕事に対応した。これまで以上に、学校よりも施設よりも、なによりも仕事を優先するようになった。

 マクドナルドのバイトも辞めた。わたしはマクドナルドのバイトが気に入っていて、辞めなければならなかったのは残念だけれども、しかたがない。普通というものを体感するためにやっていた、趣味のようなものだ。わたしには趣味にかまけている余裕などないのだ。


 カワサキさんの計画は正直言って頼りないと思った。そんなにうまくはいかないと思う。それでも、もしかしたら事態を打開できるのではないかという、ほんの少しの淡い期待があった。

 これまでにわたしがみてきたなかで、自分の力ではどうしようもない、巨大な力に捻りつぶされそうになったときに心が折れない人は少ない。意外なことに、カワサキさんの目はまだ死んではいなかった。うまく切り抜けられる見こみは薄いと理解しつつも、虎視眈々と最善を尽くそうとしていた。

 カワサキさんの計画はきっとうまくいかない。それでもわたしは、急激に忙しくなった日々に希望を見出そうと務めた。少なくとも、仕事をしているときはすべてを忘れることができた。


 トーストと、スクランブルエッグと、サラダと、ウインナーと、コンソメスープが乗ったセラミックのプレートを受け取って、真奈美と美香と食堂の隅の席に座った。

 窓から日の光が差しこんでいる。今年の秋はやけに暑くて、まだ夏のようだったけれども、明らかに真夏とは異なる柔らかい秋の朝日だった。季節はたしかに移り変わろうとしていた。日の光が真奈美と美香の顔にあたっていて、二人の肌は白くて艶やかだった。

「眠たそうだね」とむかいに座る美香にわたしは言った。

「そろそろ中間試験が近づいてきているからね」と美香は言って目をこすった。

「もうそんな時期かあ」と隣に座る真奈美が言った。

「真奈美もすっかり欠席と遅刻と早退だらけになったもんね」わたしは笑った。

 真奈美は苦笑した。真奈美にもカワサキさんから現状と今後についての話があった。真奈美は黙って話を受け入れた。それから、わたしと一緒に可能な限り仕事に対応する日々に身を投じた。

「美香は高校を出たらどうするの?」とわたしは訊いた。

「わかんない」美香はマーガリンをぬったトーストをかじった。「大学に行きたいとは思っているけど、具体的に勉強したいことや、やりたいことがあるわけではないの」

「大学を出たあとはどうするの?」と真奈美が美香に訊いた。

「もっとわからない。しっかりした会社に就職したいとは思っているけど」

「美香ならきっとできるよ」とわたしは言った。

 美香は頭が良い。わたしや真奈美と違って、学校も休まずに通っていた。美香の未来は、きっと希望に満ちあふれた明るいものになるだろう。わたしは心からそう思っていた。美香がうらやましかった。

「早苗は今日、午前から仕事?」と真奈美がわたしに訊いた。

「ううん。今日は久々に午後から」

「そうなんだ」真奈美はスプーンでスープをすすった。「学校に行くの?」

「行こうと思う」

 わたしたちは食器を返却しに席を立った。そのとき、武田先輩がむかいから歩いてきた。武田先輩はわたしたちをちらりと見た。特になにも言われなかった。

「美香、武田先輩たちから、嫌がらせされてない?」と真奈美は言った。

「なにもされていないよ」と美香は言って笑った。「最近、『吉井さんも、有馬さんもなんだか恐ろしいわ』ってぼやいてるらしいよ」


 部屋に戻って高校の制服に着替えた。歯磨きをして、薄く化粧をした。ルームメイトの二人が部屋に戻ってきた。制服姿のわたしを物珍しそうに眺めた。

「学校行くんだ」と一人が言った。

「学校でウリでもするんじゃない?」

 わたしは部屋を出た。ローファーを履いて、施設を出て、学校にむかった。細い道を勢いよく飛ばしていく車も、道路の端をよろよろと走る自転車もいつも通りなのに、そわそわして落ち着かなかった。

 仕事が忙しくなってから、学校に行くのは初めてだった。いままでとは違う世界に迷いこんだような気分で、歩きなれた通学路がいつもとはまったく違う感じがした。


 教室に入るとクラスメイトが一斉にわたしを見て、一瞬だけ静かになった。それから元通りになり、いつもの賑やかな教室に戻った。席に座ると松井がやって来た。

「久しぶりだな」

「久しぶり」

「なんか、毎回言ってるな」と松井は笑った。

 すぐに担任が教室に入ってきて。朝のホームルームが始まった。わたしは静かに席に座って授業を受けた。日本史と現代文の授業を聞いた。日本史の内容はさっぱりわからなくて、どこか遠い国の話を聞いているみたいだった。現代文はかろうじてわかったような気がした。

 わたしは窓側の真んなかくらいの席に座っている。窓から差しこむ日差しが空中をただよう埃を煌めかせていた。授業中の教室を見渡すと、基本的にみんなの目線は黒板とノートを交互に行ったり来たりしているようだった。何人かは机に顔を突っ伏して眠っていた。わたしはぽつんと座っているだけで、教室という空間にひどく不釣り合いなような気がしてならなかった。

 二時限目がおわると、わたしはスクールバッグを掴んで席から立ち上がった。

「帰るのか?」と松井が言った。

「うん」

「そっか。次会うのはいつになるだろうな?」と松井は言って笑った。

「どうだろうね」

 頭上を見上げて考えてみたけれど、次に登校するのがいつになるのか、さっぱり見当もつかなかった。


 学校を出たわたしは、カワサキさんのマンションにむかった。校門を出て細い坂道をのぼり始めたとき、ブレザーのポケットのなかで携帯電話が震えたのを感じた。電話がかかってきていた。わたしは電話に出た。

「はい」

「もしもし」男の低い声が聴こえた。「今大丈夫か?」

「はい」

「変わりはないか?」

「ありません」

「そうか」男は一呼吸置いた。「次の段階に進もうと思う」

 わたしは少し考えた。「と、言いますと?」

「お疲れ様、ということだ」

 わたしは大きく息を吸って、それから吐き出した。

「そうですか」わたしはうつむいた。

 電話は音もなく切れた。


 カワサキさんのマンションに着くと、一緒に働いている子――まえから一緒に援助交際をしている、真奈美と同い年のサキ――が一人で待機室のソファに座っていた。

「サナエさん、ちょっと聞いてくださいよ」サキは眉間にしわを寄せて言った。

「どうしたの?」

「なんか最近、変じゃないですか?」

「なにが?」

「うまく言えないんですけど、色々と」とサキは言って、頭をぽりぽりとかいた。「すごく仕事していません? サナエさんも、マナミも」

「わたしは大丈夫だよ」

「ならいいんですけど」とサキは言って唇を突き出した。「カワサキさん、いったいなにを考えているのかな? って」

「大丈夫だよ」とわたしは言った。「サキはなにも心配しなくても大丈夫」

 わたしは微笑んで、サキの両肩に手を乗せた。「最近仕事はどう?」

「それが、この前のおやじがほんと最悪で……」

 サキの愚痴を数十分かけて聴いた。サキの話はノンストップで続いたけれど、カワサキさんが待機室にやってきた。

「お疲れ様」

 そう言うカワサキさんの顔は疲れて見えた。つやつやとしていた髪がぱさぱさとした感じになっていて、目の周りがくぼんで見えた。少し痩せたように思う。

「お疲れ様です」とわたしは言ってから、サキの顔を見た。「ごめん、仕事に行ってくるね。また話聴かせてね」

 サキは笑顔で頷いた。「すみません、いつもありがとうございます」


 その日は三件の仕事をこなした。一人目は不良風の若い男で、二人目は現場仕事風の中年で、三人目はサラリーマン風の中年だった。一人目の男は、今後の人生の展望について暑苦しく語った。二人目の男はとても無口だった。三人目の男は何度か会ったことがあるけれど、ほとんど記憶に残らない客だった。


 すべての仕事をおえて、二十二時ごろにカワサキさんと別れた。施設に帰りたくなかった。多くの人が行き交う賑やかな大通りを歩きながら、わたしは千春に電話をかけた。千春はすぐに電話に出た。

「もしもし」

「もしもし。どうした?」千春の声は優しかった。

 わたしは黙った。

「帰りたくないんでしょ?」千春は見透かしたように言った。

「うん」とわたしは言って頷いた。「家に行ってもいい?」


 千春の家で缶チューハイを飲んだ。千春は缶ビールを何本も飲み、タバコをたくさん吸った。換気扇が一生懸命回っていたけれども、吸いこみ切れなかった煙が少しだけ部屋にもれて、タバコの香りが広がった。千春はわたしになにも訊かなかった。

 わたしは二缶飲んだところで眠たくなり、歯を磨き、化粧だけ落として布団に入った。眠たかったはずなのに、布団に入ると目が冴えて眠れなくなった。

 一人ダイニングテーブルに座り、ビールを飲む千春を布団のなかから眺めた。

「なに?」と千春は言って首をかしげた。

「ううん」

「早苗」

「なに?」

「早苗は大丈夫」千春は手に持った缶ビールをそっとテーブルに置いた。「きっと大丈夫」

「ありがとう」わたしは布団を首元まで引っ張り上げた。

 それから不思議とすぐに眠りがやってきた。


 朝日を浴びて目覚めると、部屋は雪が降る夜みたいに静まりかえっていた。前回と同じように歯を磨いて、シャワーを浴びて、化粧をしてから千春の寝室を覗いた。千春は規則正しい寝息をたてていた。千春の寝顔を覗きこんで、わたしは部屋を出ようと歩き出した。

「早苗」千春の声がして振り返った。「いってらっしゃい」

 わたしは微笑んだ。「いってきます」


 その日は朝から仕事だった。夕方まで三件の仕事をこなした。一人目は舞台俳優をしている若い男で、二人目は長距離ドライバーの中年で、三人目は開業医だった。

 一人目の男は日々取り組んでいる稽古の大変さと監督の恐ろしさを語り、二人目の男は仕事で訪れたことがある土地のことを語り、三人目の男は昔のドラマがいかに面白かったかを語った。


 仕事をおえて門限の前に施設へ帰った。施設の職員からも、武田先輩からも、なにかを言われることはなかった。部屋で着替えてお風呂に入った。食堂に行くときに美香に会った。

「早苗」と美香は言った。表情がかたかった。「真奈美が帰ってこないの」

 突然わたしの周りの酸素が薄くなったような気がした。

「真奈美が門限を破ることなんてなかったのに」

「携帯に連絡はした?」とわたしは訊いた。

「したけど、つながらないの」美香は目を伏せた。「電源が入っていないみたいなの」


 食事はほとんど喉を通らなかった。味も感じなかった。歯を磨いて、そのまますぐに布団に入った。天井を見上げると、わずかな凹凸がある天井の壁紙が複雑な模様のように見えた。意味があるようで意味がない、もしくは意味がないようで意味があるのか、なんとも言い難い模様に見えた。

 長い夜だった。

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