16 最後に見るわたし

 わたしたちのチームはとうとうカワサキさんの元を離れ、あと数週間足らずで彼らの手に渡ることになった。そうと決まってからの日々は穏やかだった。


 聴いたこともない曲が車のなかでかかっていた。たぶんずっと古い曲なのだと思う。カワサキさんはだいたいいつも、わたしにはよくわからない曲を流して車を運転した。

 車は流れるようにしてスムーズに夜の道路を走っている。窓の外の街はネオンで明るく輝いていて、金山駅のまわりは多くの人が歩いていた。飲み屋から出てきた団体が、路上で楽しそうに談笑している姿が目に入った。

 車を運転したことがないからよくわからないけれど、カワサキさんはたぶん運転が上手だ。あと何回カワサキさんが運転する車に乗るだろうかと思った。ちょうどそのとき、初めてカワサキさんと待ち合わせたスターバックスが遠目に見えた。

「なんだか懐かしいですね」とわたしは言った。「カラオケで最初に、この仕事の打ち合わせをしたときが」

 カワサキさんはバックミラー越しにわたしをちらりと見た。「そうだね。なんだかとても昔のことのように思える」

 そう言うとカワサキさんは沈黙した。バックミラー越しに見えるカワサキさんの表情は、『ずいぶん遠くに来たもんだ』と語っているように見えた。


 カワサキさんのマンションを出て、千春に電話をかけた。呼び出し音が四回くらい鳴ってから千春が出た。

「もしもし」と千春は言った。

「もしもし、千春」わたしは星を眺めながら言った。「いまから千春の家に行ってもいいかな?」

 大型車が地響きを鳴らして、大通りを転がるように駆け抜けていった。

「いつも突然だね」と千春は苦笑したように言った。「いいよ」


 千春のマンションのインターフォンを押すと、いつ通り自動ドアが無言で開いた。エレベーターで四階に上がり、千春の部屋のドアチャイムを鳴らした。千春はすぐに出てきた。

「毎度タイミングが良いんだよね」と千春はドアを閉めながら言った。「今日も仕事休み」

 手を洗ってから、部屋のクッションに座った。

「なんか飲む?」千春は冷蔵庫からビールを取り出しながら言った。

「いい」

 千春はソファに座ってビールを飲んだ。わたしはクッションの上に座り、握りしめた手を膝の上に静かに置いた。生ぬるいゼリーみたいな沈黙で部屋が満たされた。


 突然千春が立ち上がった。キッチンに歩く気配がして、水道から水が流れる音が鳴った。音がしたほうを見ると、千春が電気ケトルに水を入れていた。

「お腹すいちゃった」と千春は笑った。「早苗もラーメン食べる?」

 思えば今日は一日なにも食べていないことに気がついた。「とても食べたい」

 お湯が湧くまでの間、千春はタバコを吸って過ごした。お湯はすぐに沸いて、タバコの火を灰皿でもみ消した。

 千春はプラスチックの白い容器のなかにインスタントラーメンを入れて、お湯を注いでオレンジ色の蓋を閉めた。それから電子レンジに入れた。

 数分後に、インスタントラーメンが入ったどんぶりと割り箸が、わたしの目の前のローテーブルに置かれた。

「先に食べてて」電子レンジを操作しながら千春は言った。「あたしのもすぐにできるから」

 インスタントラーメンを音をたててすすった。塩ラーメンだった。具はまったく入っていなくて、申し訳程度に胡麻が浮いている。身体にしみわたるように温かかった。

 ほどなくして千春も自分のラーメンを抱えて座り、音をたてて勢いよくラーメンをすすりあげた。

「飲んだときのラーメンって、なんでこんなに美味しいんだろうね」と千春は言った。

「美味しいね。わたしは飲んでないけど」


 ラーメンはすぐになくなってしまった。わたしは食器をシンクで洗った。そのあとで千春はホットココアをつくってくれた。

 ココアが入ったマグカップを、わたしは両手で抱えるようにして口に運んだ。温かくて、とろけるよう甘かった。千春は新しい缶ビールを冷蔵庫から取り出して、換気扇の下でタバコを吸いながら飲んだ。

「どんどん人がいなくなっていく」とわたしは言った。「もう会えないところにいってしまうの」

 タバコの先の灰がくずれ落ちそうになって、千春は素早く灰皿に灰を落とした。タバコをくわえなおして息を深く吸い込んでから、濃い煙を吐き出した。それからビールを飲んで口を開いた。

「さよならだけが人生だ」


 日々はあっという間に過ぎ去っていった。始まる前は長く思えた連休が、あっという間に最終日になってしまうみたいにして。特別にこれといった出来事もなくて、わたしは淡々と仕事にむき合った。


 カワサキさんとの最後の仕事がおわった。その帰り道、十七時前にカワサキさんの黒い車で高速道路を走っていた。車内は無言で、車が道路を滑るような音が響いた。

 悲しくなるほど綺麗な夕焼けが窓の外に広がっていた。秋らしい鱗雲が感傷的な赤に染め上げられている。雲を見ていると子どものころを思い出した。放課後に友達と遊んでから、家に帰るときに見た雲とほとんど同じふうに思えた。

 気づけば夏はとうに過ぎ去っていた。もう少ししたら秋も通り過ぎてゆく。日ごと涼しくなってきていて、あっという間に冬が訪れるのだろう。すべてが通り過ぎてゆくけれども、わたしはどこにも動けない。


 印象的な音楽が車内に流れていた。心のひだにふれるようなきらきらとした演奏で、しわがれた真っすぐな歌声が響いた。

「この曲、なんていう曲ですか?」とわたしはカワサキさんに尋ねた。

 カワサキさんは少し意外そうな顔をして、バックミラー越しにわたしを見た。

「ザ・タイズ・ザット・バインドという曲だよ。ブルース・スプリングスティーンという人が歌っている、古い曲」

「いい曲ですね」

 わたしたちは無言で音楽を聴いた。十七時を回ったころには、ほとんど太陽が沈みかけていた。左手に名古屋城が見えた。日が沈み始めると、あたりは一気に暗くなった。赤く染め上げられた空は徐々に青みを帯びて、紫のグラデーションにおおわれた。薄暗い闇がすぐそこに迫っていた。それでも、空に浮かぶ鱗雲にも、街にそびえ建つ高層ビルにも、最後まで残ったわずかな夕日がほんのりと赤く照っていた。

「訊きたいことがある」とカワサキさんは言った。

 わたしはバックミラー越しにカワサキさんの顔を見た。「なんでしょう?」

「みかじめ料を納めている二人のうちの一人について、身体的な特徴がなかったか、ヨシイさんに確認したことがあったよね? 君が相手をしたことがある男について」

「ありましたね」

「そのときヨシイさんは、『これといって身体に特徴はなかったと思う』と言ったよね?」

「そう言ったと思います」

「彼には大きな刺青が入っていたんだ。左胸から、左腕にかけて」

 車内に音楽だけが鳴り響いた。曲は変わったが、相変わらず瑞々しい演奏で、しわがれた特徴的な声が歌っていた。

「そうだったんですね」とわたしは言った。「彼は服を脱ぎませんでした。服を脱ぐことなく行為に及んだのです。なので、刺青があるとは気づきませんでした」

 カワサキさんはミラー越しにわたしを見た。

「であれば、彼の身体的特徴を尋ねられたときに、そういった補足があってもよかったんじゃないかな?」

「その通りですね。説明が足りていなかったと思います」

「なぜ彼が服を脱がなかったことを伝えなかったんだろう? そのときに」

 わたしはミラー越しにカワサキさんの目を見た。「取り立てて伝えるほどではない、と思いました。わりとよくあることなので」

「なるほど」

 車内に沈黙が訪れた。

「カワサキさんとの仕事は、今日で最後になりますね」わたしは沈黙を破った。

「きっとそうなる」

「カワサキさんには感謝しています」

「僕のほうこそ。たいしてヨシイさんの役には立てなかったように思うけど」

「そんなことはありません。カワサキさんはとてもうまくやっていました。ただ……」わたしは髪をかきあげた。「しかたがないこともあるのです」


 高速道路の出口が近づいてきた。カワサキさんはウインカーを右に切り、慎重に車線を変更した。柔らかく減速しながら、高速道路の出口を出た。地上に降りると、あたりは青みがかった闇に包まれていた。

 立体駐車場の扉の前に車が停車した。わたしは車を降りた。駐車場のすみに立って、カワサキさんを眺めた。

 カワサキさんは、立体駐車場の操作盤の鍵を開けて蓋を開いた。ボタンを押すと、重苦しい地鳴りのような回転音がしばらく響いてから、錆びついた車庫の扉が勢いよく開いた。立体駐車場は朽ち果てる一歩手前といった感じの調子だった。

 カワサキさんは再び車に乗りこむと、ゆっくりと前進させて立体駐車場のなかに車を入れた。車のドアが開いてから閉まる音がした後に、地面に飛び降りたような音がしてカワサキさんは外に出てきた。それからボタンを押して車庫の扉を閉めて、操作盤の蓋も閉じて鍵をかけた。


 わたしとカワサキさんはむき合った。たぶん一分くらいだったと思う。わたしたちは無言で見つめ合った。カワサキさんの長いまつ毛がまたたくのが印象的だった。あたりを行き交う車の音と、吹き抜ける強い風の音しか聴こえなかった。風でわたしの髪がなびいた。肌寒かった。

「ありがとうございました」とわたしは言った。

「こちらこそ、ありがとう」とカワサキさんも言った。

 わたしたちは、これまでのことも、これからのことも話さなかった。

「身体には気をつけてくださいね」とわたしは言って、右手をカワサキさんに差し出した。

 カワサキさんはわたしの手を握った。強くはないけれど弱くもなくて、生きていることが感じられる、しっかりとした重みのある強さだった。わたしも同じくらいの力でカワサキさんの手を握り返した。

「どうかお元気で」とわたしはつぶやいて、握った手の力を抜いた。

 カワサキさんも手から力を抜き、結ばれた手がほどけた。

「さようなら」

 わたしは踵を返して歩き出した。できるだけ背筋をぴんと伸ばした。速くもなく、遅くもないスピードで歩くことを意識した。しなやかに、できるだけ力強く歩こうと努めた。きっとこの後ろ姿が、カワサキさんが最後に見るわたしになるのだ。そう思った。わたしは振り返らなかった。

 こうして、わたしはカワサキさんと別れた。

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