8 殺された少年

 カワサキさんは両腕で力いっぱいドアを引っ張っている。かたつむりが殻にこもるみたいに。

 ドアのむこうから、さらにもう一人が部屋に近づいてくる気配がした。革靴らしき、乾いた足音が響いた。

 スニーカーが挟まり、少しだけ開いているドアの隙間から、近づいてきたもう一人がドアに手をかけたのが見えた。手に力がこめられると、カワサキさんの必死の抵抗もむなしく、ドアはゆっくりと、あっけなく開かれた。

 ドアの隙間から半身の男が見えた瞬間、カワサキさんは胸を蹴り上げられた。鈍い音が鳴って勢いよく後方に飛んだ。


 二人の男が部屋に入ってきた。

「帰っていいよ」と一人の男がわたしに言った。

 わたしは目を伏せてドアにむかって歩いた。パンプスを履き、二人の男の横をすり抜けるようにしてドアを開けて部屋から出た。振りむかなかった。ドアが閉まる音が廊下にやけに響いた。


 施設に帰りたくなかった。なにも考えたくなかった。わたしは道路で立ち止まり、意味もなくあたりを見渡した。大通りを行き交う車は多かったけれど、ほとんど人は歩いていなかった。わたしは怖くなって、電話をかけることにした。電話はすぐにつながった。

「もしもし。早苗?」

千春ちはる、久しぶり」

「どうした? すごい久しぶりじゃん」

「ちょっとね」

「なに?」

「帰りたくなくて」

「ああ」少しだけ沈黙があった。「よかったら家に来る?」


 わたしは駅の改札をくぐり、地下鉄を乗り継いで千春の家へとむかった。最後に千春の家に行ったのは一年以上も前のことだと思う。

 地下鉄には多くの乗客が乗っていた。みんな帰路の途中に見えた。帰る場所があるのだ。

 千春の家の最寄り駅について、地上に上がった。大通りから細々とした住宅街に入り、わたしは背中を丸めて道路のはしを歩いた。空は曇っていて、星は見えなかった。ぼんやりと滲んだ月がかろうじて見えた。風が少しだけ吹いていて、かすかに秋の匂いがした。

 数分歩くと、千春が住むマンションに着いた。エントランスのインターフォンで部屋番号を入力すると、無言で自動ドアが開いた。

 エレベーターで四階に上がり、千春の部屋のドアチャイムを鳴らした。少し間があって、鍵を回す音がしてからドアが開いた。

「いらっしゃい」と千春は言い、呆れたように微笑んだ。「どうぞ」


 わたしは肩をすぼめて部屋に入った。部屋の照明は暖色で、優しく肌を照らした。タバコの香りがした。千春は紺色のソファに座り、わたしはローテーブルの隣に置かれたクッションに座った。

「ほんとうに久しぶりだね」と千春が言った。

「久しぶり」わたしは千春の目をみて微笑んだ。「最後に会ったのは一年くらい前?」

「二年以上前だと思う」

「もうそんなに経つんだ」

 千春は立ち上がり、灰色の冷蔵庫にむかった。

「なにか飲む?」千春は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 わたしは頷いた。「チューハイがあればお願い」

 千春は缶ビールとレモンサワーを持って戻ってきた。

「今なにしてるの?」と千春は缶ビールを開けながらわたしに訊いた。

「変わらないよ」

「そっか」

「千春は今なにをしているの?」

「ガールズバーで働いてる」

「そっか」

 千春はほとんど金色に近い茶髪を無造作に後ろで結わえていて、ゆったりとしたブルーグレーのスウェットを着て、ヨガパンツを穿いていた。ソファの上であぐらをかいて、いかにも美味しそうに缶ビールを飲んだ。

 千春の部屋はあまり生活感がなくて、ローテーブルにはひとつも物が出ていなかった。シンクにも使った食器は一つも置いていなくて、換気扇のしたに置いてある灰皿とタバコとライターがやけに目についた。

「あのとき一緒に働いていた子たちと会うことはある?」千春は立ち上がり、缶ビールを持ったまま換気扇にむかって歩いた。「一緒に援交してた子たち」

「基本会わない」わたしはレモンサワーを開けて一口飲んだ。「今も一緒に援助交際をしてる子もいるけれど」

「そうなんだ」千春は換気扇を回してからタバコに火をつけた。

「千春は会うの?」

「たまに会うよ」千春はタバコをくわえて深く息を吸ってから、濃い煙を吐き出した。煙はすぐに換気扇に吸いこまれて消えた。「あんたたちより年上だからかな? たまに連絡がきて、話を聴いたり、家に泊めたりみたいなことがある。今日みたいにね」

 千春はわたしに微笑んだ。

「そうなんだ」わたしはレモンサワーを一口だけ飲んだ。「みんな元気?」

「どうだろう」と千春は宙を眺めて言った。立ちのぼるタバコの煙の行く末を見ているみたいだ。「人生色々みたい」


 かつて一緒に援助交際をしていた子たちの話を千春から聴いた。今でも援助交際をしている子、風俗で働いている子、振りこめ詐欺の出し子をやっている子、薬漬けになって捕まった子。いずれにしても、あまり明るい現在ではなさそうだった。

「一緒に援交やってて、打ち子をしてたヒロトっていたじゃん? 早苗と同い年の」と千春は言った。

「うん」

「ヒロトは殺されたらしいよ」

 部屋に沈黙が降りた。千春はタバコの火を灰皿で消した。

「そうなんだ」

 わたしはヒロトのことを久しぶりに思った。柔らかな猫っ毛、切れ長の目、薄い唇、細くて長い首と指、整った爪、白い肌、薄い胸板――

 ヒロトが殺されたということは意外なことではなかったけれど、この世界にもうヒロトが存在しないということを、わたしはあまり上手に想像できなかった。

「どうなるんだろうね、わたしたち」とわたしはぽつりとつぶやいた。ほとんど無意識だった。

「生きてくことはできると思う」と千春は言った。「たぶん」

 わたしは曖昧に頷いた。

「あのときは、『これからどうなるんだろう?』なんて考えたこともなかった」と千春は言って、頭上を見上げた。「みんながいて、一緒に援交して、お金が稼げて、嫌な客も多かったけど遊んでいれば楽しくて、それでいいと思ってた」

 わたしは頷いた。

「それが、そんなに長く続かないことだなんて思いもしなかった」

 千春の言うことはなんとなくわかる。

「あたしは早苗に感謝してる」と千春は言って、残りのビールを一気に飲み干した。「いつでも連絡して」

 わたしはめずらしく二缶も飲んだ。飲みおえると、意識がひどくぼんやりとしてきて、睡魔に襲われた。千春からもらった歯ブラシで歯磨きをして、かろうじて化粧だけ落とした。それから、千春に借りた布団に包まれて眠りに落ちた。


 夜中に目が覚めた。お腹の内側で猫が爪とぎをしているみたいな、あるいは内蔵をマドラーでかき回されるような鈍い腹痛を感じた。数日前からの気分の浮き沈みが激しくて、予感はあった。わたしは化粧ポーチを取り出してトイレに入った。

 わたしの体内から排出された濃い血液を眺めた。腰まで重く痛んだ。トイレから出て手を洗った。それから再び布団に入って目を閉じた。かすかな頭痛を感じた。


 夢をみた。わたしはランドセルを背負っていた。小学校の担任は若い男の先生で、わたしは先生に恋をしていた。初恋だった。先生はいつも笑顔で、日に焼けた肌に映える白い歯が印象的だった。なんてことのないジャージを毎日着ていて、その格好がとても素敵に見えたものだった。

 ある年の春に、先生は別の学校に転任することになった。最後の挨拶を体育館の壇上でする先生を遠くから眺めた。その帰り道、わたしは少し泣いた。

 先生と最後に話した記憶をたどった。放課後の教室で何人かの友達と話していたときに先生がやって来て、「早く帰るように」と言われた。おそらくあれが、先生との最後の会話だったように思う。ほかに先生と話したことはほとんど思い出せなかった。先生のなにが好きだったのかも思い出せなかった。


 夢のなかの照明が落ちて、場面が変わった。灰色のスナックで、わたしは叔母の手伝いをしていた。スナックはいつもタバコの煙がもくもくと立ちこめていて、わたしはその匂いが髪や服につくのがとても嫌だった。しみついたその匂いから、学校で喫煙を疑われたことも何度かあった。

 叔母が年甲斐もなく、胸を強調した服を着ているのもなんだか嫌だった。客がその胸を眺めているのは、なぜだかそんなに嫌な感じがしなかった。叔母は客に酒をそそぎ、客がタバコをくわえればライターで火をつけてあげて、自分も酒を飲んだりタバコを吸ったりしながら客と親しく喋った。

 わたしはスナックで飲み物やちょっとした軽食を出したり、洗い物をしたり、掃除をしたりと、細々としたことを手伝っていた。たまに客からお小遣いをもらった。


 スナックの客はほとんどが年をとったおじさんに見えた。毎回同じようなメンバーで、同じような話をしていた。彼らはときにカラオケをした。

 たまにわたしも歌わされた。なぜだか決まって、中山美穂の『世界中の誰よりきっと』を歌わされた。カラオケなんて、まったく歌いたくなかった。

 あとは、『目立たずに、はしゃがずに』みたいな歌詞の曲を覚えている。たしか、『時代おくれ』というタイトルの曲だったように思う。


 目が覚めると、シンクの上にレモンサワーの空き缶が二缶と、ビールの空き缶が四缶置いてあった。わたしが眠ってからも、たぶん千春は一人でビールを飲んでいたのだ。千春の姿はなかった。きっとまだ寝室で眠っているのだろうと思った。

 わたしはシャワーを借りて身体を綺麗にした。それから歯を磨き、髪をドライヤーで乾かして、薄く化粧をした。

 空腹を感じたけれど、千春の家には食べ物らしきものがほとんどなかった。冷蔵庫を開けてみたが、なかにあったのは缶ビールと、レモンサワーと、ハイボールと、白ワインと、ペットボトルの水と、いくつかの調味料と、ほとんど残っていなさそうなマーガリンだけだった。パンはどこにも見当たらなかった。


 寝ているときにみた夢を思いかえしながら、一時間ほど待った。寝室を覗くと、千春はいびきをかいてまだ眠っていた。無邪気な子どもみたいに見えた。

 わたしは千春の家を出ることにした。玄関に置いてあった鍵を使って、部屋の鍵を閉めた。鍵は郵便受けのなかに入れて、そのことを携帯電話から千春にメッセージを送って伝えた。

 エレベーターで地上に降りて、マンションの外に出た。空は完全な晴れというわけではなかったけれど、曇りというわけでもなくて、微妙な具合だった。少し風があった。

 わたしは駅にむかって歩き出した。行くところはなかったけれど、いつまでもここにいるわけにもいかない。そう思った。

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